YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson763 「わたしの課題」とは何か

家族のことになると、なぜたやすく
感情を荒げてしまうのか。

思うに、私の場合、
家族への愛情が強すぎて、
いつも完璧で最良のことをしてあげたいと、りきみ、
そこに繊細、かつ敏感になってしまい、
感情のメーターがやすやすと振り切れてしまう。

この元旦そうそうも、

父の米寿祝いで、子・孫そろって旅行、
ここ一番、機嫌よくしていなければならない
というシーンで、
ちょっと感情を荒げてしまい、

そんな自分が自分で許せずのたうちまわっていた。

夜も眠れぬ自己嫌悪のなか、

「人にはそれぞれ、いま向かうべき
 自分の課題がある。」と思い出し、

「いま自分が向かうべき課題は何か?」

と問うてみた。
すると、

「この旅で、父母に歓んでもらうこと」

と、はっきりした。

だから。今日しくじっても、
どんなに自己嫌悪でも、
残された時間がわずかでも、
それでも、どーしても、

自分の持てる経験・能力・感性、総動員して、
父母に心から楽しんでもらうんだ!

そう想った矢先、

隣りで眠っていたかに思われた母が、
「きょうのあれは、たのしかったねぇ」と、
急に、話しかけてきた。

反射的に、共感の言葉が
おだやかに優しく口をついて出てきて、

さっきまでのたうちまわっていた自分とは、
180度切り換わっていると、
自分でも驚いた。

「そうだ、理解ならできる。
 自分は文章表現教育をやっているから、
 父母の言葉をよく聞いて、
 そこに理解を示して、旅を楽しくできるぞ」

自分サイテーと思っているときに、
そんな自分でも「できること」が見つかるのは、
小さなことでも、ほんとに救いだ。

そうして、
今まで生きてきた平常の自分の良い部分とつながり、

次の日は、
家族のために景色の良い席をとったり、
段取りを考えたり、
体がすっすっと動いて、結果的に、

父母が心から歓んでくれた旅になった。

窮地で自分の課題をとらえなおす、が
今回も支えになった。
でも、はて、

「自分の課題」とは、なんだろう?

「自分のやりたいこと」
じゃあ、ないんだな、と今回はっきりした。

すべて私が気に入る旅にできたとしても、
ほかの子・孫が楽しんだとしても、
もし父母が歓ばなかったとしたら、
自分は満たされなかっただろう。

じゃあ「やるべきこと」か、
義務か、自己犠牲か、というとそれも違う。
最終的に、自分も満たされているのだから。

「できること」は、
自分の課題をとらえなおしたあと、
それを達成していくときに最重要となった。
ちっぽけでも、何か自分にみんなのために
できることがあってよかった。

いま向かうべき自分の課題って、
やりたいこと? やるべきこと? できること?

昨年暮れのTVで
タレントたちがクリスマスの想い出を
話していた。

その中の一人Aさんが、5歳ごろ、
クリスマス・イブにパパとママが消えた話をした。

「その日は、
朝からパパとママの様子がヘンだった」と。

Aさんと幼い妹は、
クリスマス・ケーキや、チキンがたのしみ! と
話しかけるも、パパもママも浮かない顔。

そのクリスマス・イブの夜、
パパとママは帰らなかった。

不安と寂しさと空腹に泣き叫ぶ妹に、

Aさんは、チキンの代わりに、
チキン味のインスタントラーメンを、
子どもだから作れないので、
袋から出してそのまま与え、一緒にかじった。

ケーキがほしいと泣く妹に、
外に出て、砂でクリスマス・ケーキをつくって、
ままごとのようにして、なぐさめた。

パパとママが帰ってきたのは2日後。

育児に疲れ、一時的に放棄したパパとママが、
2人だけでクリスマス旅行か何かに行って、
スッキリして帰ってきた、とAさんは言う。

「ご両親は、さぞ自分を損なったろう。」

と、まず私は感じた。

自分の課題を放棄して、
行きたいところへ行き、やりたいことをやっても、
心は満たされず、自分への不信がつのっていく。

それは自分の真ん中に小さな穴が空き、
やがてじわじわ穴が広がるようだ。

ご両親がスッキリして帰ってきたのは、
楽しんでリフレッシュしたからではなく、
「自分の課題はよそにない、
 ここで子どもたちを育てることだ」
と、はっきりしたからではないかと
私は思った。

この話を聞いて、

私の母が、
行きたいところにも行かず、
やりたいこともやれず、
毎日毎日、三度三度、子どもたちのために
ごはんをつくり、それで自分自身、
「満たされていた」ということが、
以前よりわかった。

それが母の「本望」だからだ。

子どものいない私に
育児を語る資格はないが、
使命といえる仕事に置き換えると、
わかる部分も多くある。

育児も仕事も、はじめは、
それまでやったことがないから、
うまくできない。

失敗すれば、
育児では子どもに、仕事ではお客さんに
迷惑がかかり、たいへん落ち込む。

時間や体も拘束され、
自分の「やりたいこと」がやれない、
苦しいと思う。

「やらねばならない」と
そこを義務感でのりきって人に尽くしても、

義務を果たして当たり前、

褒められるわけでも、成長するわけでもなく、
自分が満たされるどころか、
働けば働くほど、鉛筆のように身が削れていくときもある。

放棄したくなる人も出てくるだろう。

それでも、そこをなんとか持ちこたえて頑張っていくと、

じょじょに経験が追いついてきて、
ワザが磨かれ、能力が鍛えられ、
「できること」が増え、強くなっていく。

そうして、子どもなり、お客さんなりを
芯から歓ばすことができたとき、
それまで感じたことがない歓びを知る。

「他者を満たすことが、自分の歓び。」

そう感じたとき、
自分のやりたいこと、やるべきこと、できることは、
ピタッと一致して、「本望」となる。

ここにいくまでに、
いくつかの越えなければならない段階があり、

その途中で、
やりたいこと、やるべきこと、できることが
せめぎ合って人は悩む。

「やりたいこと」をあきらめなければ、
「やるべきこと」ができなかったり。

そうしてでも、
「できること」を強く増やしていかなければ、
自分も人も歓ばすことができなかったりするからだ。

いま向かうべき自分の課題とは、

最終的には本望に向かうものだと私は思う。
でも、そこに至るまでの過程で、
何が本望かつかめないで、私たちは迷う。

すなわち、
「やりたいこと」と「やるべきこと」と「できること」が
せめぎあうところ、

そこに、いま向かうべき自分の課題がある。

だから、3つの葛藤から逃げない、
むしろ前のめりでいよう、
と私は思う。


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2016-01-13-WED
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