YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson762 いま私が向かうべきもの

この1年をふりかえって、
いちばん嬉しかったのは、
次のことに気づいた瞬間だ。

「人がどうしてくれたとかくれないとか、
 夢が叶ったとか叶わなかったとか、

 そういう外側の状況で、
 “だから今日一日が満たされない”なんてことには
 ならないはずだ。

 今日一日残された時間がどんなに短くとも、
 自分の向かうべき課題に向かい、
 やるべきことをコツコツやっていけば、
 一滴一滴、心は満たしていける!」

今年最悪の状況に追い詰められたとき、
自分の中から湧き上がった言葉。

その瞬間、
線路の分岐器が大きく進行方向を変えるように、
心の進路がガチャリと音を立てて切り替わった。

嬉しくて、ここにも「分岐器」というタイトルで
コラムを書いたが、
この気づきをきっかけに、
今まで不可解だった謎の
いくつかが解けていった。

まず、「自分を満たすものと損なうもの」。

以前、読者の方が
「自分を満たす行為と、損なう行為がある」
というメールをくださった。

私の母が、
昭和の貧しい時代も、
後からいらなかったと言われて無駄になっても、
体調が悪い日も、
こどもたちのために、
毎日毎日、三度三度、
ごはんを作り続けてくれた話をしたとき、

読者の方が、

「それが、おかあさんにとって
 自分を満たす行為だった。
 おかあさんは、毎日こどもにごはんをつくることで
 自分自身満たされていた。」

と言ってくださったのが、
とても印象に残っていた。
それから私は、はて、

「何が自分を満たす行為で、
 何が自分を損なうのだろう?」

という謎を抱き続けたが、
いまは、自分にとってのささやかな答えがある。

「自分の課題にコツコツ向かっているときが、
 自分を満たす行為だ。」

人にはその時どうしても
自分が向かうべき課題というのがあって、
どんなにラクでオモシロオカシイことに向かっていても、
その課題をすっとばしていると、
自分で自分に不信になる。

風邪気味で体がだるいとき、
これ以上ないくらいラクな姿勢で、
ベッドに寝そべり、甘い物をほうばり、
リモコンで次々とテレビのオモシロオカシイ番組を
渡り歩いていても、心はどんどん虚しく、
体調まで悪くなるときがある。

そんなときは、
「いま自分が向かうべき課題」と念じて、
ムクッ、と起き上がって、
パソコンに向かい、

明日の学生の発表会のための、
雑用に近しいような下準備を、
し始めたとたんに、
なんだか、生き生きしている。

コツコツやっていくと
一滴一滴、内側から満たされていく。

いま自分が向かいたかったのは
「そこ」だったんだな、と
ごまかしようがないほどはっきり感じる。

「自尊」とは、いま自分が向かうべき課題に、
体や労力や時間を賭けていくことだ。

どんなに言葉で、
自分を尊重していますと言ったって、
具体的に、自分の課題に、行動を向けなければ、
尊重していることにはならない。

そこに向けて行動を起こしてくれないと、
自分が自分に失望し、腐り、
やがて、ぽっかり穴が開いたような喪失感に浸される。

「自分を損なう」とはそういう状態だ。

ファッションモデルが
音楽にのって歩くと「キュート」になり、
あえて音楽に合わせないで歩くと「エレガンス」になる、
という話をいぜん聞いて、
これも不可解な謎だったが、

「自尊=エレガンス」というチェリスト青木十良さんの
定義を考えると、すこしだけわかる。

周囲に歩調を合わせ、
ときにまわりに踊らされる人は、
かわいげがあるけど、自尊は少ない。

「自分の向かうべきもの」がちゃんとわかっていて、
まわりに左右されず、そこに向かって、
自分の歩調を保って歩いていく行き方には、
「自尊」がある。

学生たちの一生に一度のような
気合いの入った表現の中に、
たびたび「恩師」が登場する。

その中には、ずいぶん嫌われ者の先生もいる。

教育者は、生徒に必ずしも好かれる必要はないんだな、
嫌われてもいい、
ということに、気づかされる。

かといって、わざと嫌われる必要もない、

「好かれる、嫌われるでない、じゃあ何なんだ?」

というのが謎だった。
これにも自分なりのささやかな答えが見つかった。

生徒が今向かうべき課題を
自分自身で見失って、

ほんとうは、勉強をして大学に向かうべき生徒が、
その気持ちをごまかして遊んでばかりだったり、

大学行くよりもっとやりたいことがあるのに、
受験勉強にかまけて、その想いを殺そうとしていたり、

そういうとき、
生徒自身が本来向かうべき課題に気づかせたり、
そこに水を向けることができる、そういう教師が、

恩師として生徒の中に強く印象づいているのだと思う。

生徒が向かうべき課題とズレたまま放置したり、
逆ナビして、どんどん生徒が自分を損なう方向に
行かせる教師は、目先で好かれようが嫌われようが、
恩師とは思われていないようだ。

そして、

「就職か? 表現の道か?」

人生の岐路で、
大なり小なり迷った人は多いと思う。

先日、「就職か? 演劇の道か?」
2者択一を迫られている学生のつくった演劇を見に行った。

会社に勤めるのか?
演劇の道に進むのか?
どっちを選ぶかで人生は大きく変わってしまいそうな気がする。

私が、子供のころに見ていた青春ドラマは、
どっちを選ぶかが最大の問いだったように思う。
そして、そこを白黒はっきりさせよう、夢を選ばせよう、
と煽る傾向があった。

しかし、演劇をつくった学生の言葉に、
私は、2者択一でないからこその「本気」というものを
感じずにはおられなかった。
その学生は、

「この1年、就職活動はしなかった。
おそらく演劇の道にはすすまないだろう。
でもあきらめない。」

と言った。

白黒はっきりすることだけが強さだと思う人も多いと思う。
でも白黒はっきりさせようとするあまり、
自分を追いつめ、悩み、
悩みを言い訳に、就活からも表現からも逃げてしまう
ということは、ありがちなように思う。

この学生は、

同級生が、内定をとろうと必死に就活している1年間に、
「いま自分の向かうべき課題」と向き合い、
いましか創れないものを、コツコツ
演劇のかたちにして世に発表した。

この過程で、
どっちを選ぶかよりも大切なものを
この学生はすでに見ているんではないかと私は思う。

大きく人生の道が2つに分かれているときに、
「いま自分が向かうべき課題」などちっぽけで、
あとにまわせばいいじゃないかと。
道を選んで落ち着いてから取り組めばいいと
考える人がいる。

そういう考えにももちろん納得だ。

でも、この学生は、
いましか創れないものを創った。

それがこの学生にとっての
「いま向かうべき自分の課題」であり、
そこに体を向けていくことが、
自分自身を尊重する行為であり、
そこに体も時間も使ってくれたことで、
自分で自分を信頼したと思う。

自分を満たす時間、そこで生まれる自尊と自信。

どっちを選ぶかより大切なものがあるとすれば、
それだ、

だからこそ、
演劇の道を「あきらめない」という言葉に
説得力がある。

社会や組織とバランスをとって
そこに自分の可能性を生かし、役立てながら、

表現する人というのは、どんな形であっても、
そのとき表現すべきものをカタチにしていくだろう。

社会に出れば、擦り減ることも、
削り取られるようなこともあるし、
自分を損なうこともあるだろう。

でもそんなときにも、
自分の課題に向かい、
自分で自分を満たしていける人は強い。

心に平和があり、社会と対峙する余裕が持てる。

「いま自分が向かうべき課題は何か?」

それを見失わず、
コツコツ向かっていける2016年でありたい。

その延長に切り拓かれる未来が、
悪いものになる気が、私はしない。

※次回の更新は2016年1月13日(水)の予定です。


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2015-12-23-WED
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