YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson757
   リミッター3 − 衰えに咲く花


「若いときにできていたことが、
 肉体が老い衰えていっても、

 ちがうカタチで絶対できる。

 それは若いときと同じようなやり方をしていても
 できない。
 ちがうやり方でできる。
 そのやり方を探してやんなきゃ。」

これは美術家、奈良美智さんの言葉だ。

ミュージック・ポートレート(Eテレ)で、
彼は、「老いと表現力」について、
こんな話をした。

芸術家も老いて肉体が衰えてくると、
筆で、若いときのような精密な描写が
むずかしくなってくる。

そのときに、

ダリは、年取ってからも老眼鏡をかけ、
若いときと同じような細かい絵を描きつづけた。

一方、マティスは、

年取るにしたがって筆をつかわなくなって、
色紙を切って貼る、
あるいは筆を持つにしても細かいのでなく、
おおきな筆に変えるなど、

老いとともにできる表現方法を探していった。

それが大胆な表現につながった。

私は、この話を聞いて思った。
熟年からのコミュニケーションにも同じことが言える。

どんな若いカップルも、
月日とともに年齢を重ね、
やがて「熟年夫婦」となり、「老夫婦」となる。

なのに、

「若い時と同じコミュニケーション手段のままに
 なってしまってはいないだろうか?」

もちろん鍛えていくのは大前提だ。

だけど、肉体も衰えれば、
言葉もなかなかうまく出てこなくなる、
という夫婦も、当然いていいわけだ。

そのときにどの道を選ぶか?

若い時のコミュニケーションのまま、
「変わらない」ことに、自信や歓びを見い出すのか。

それとも、
衰える肉体や言葉にみあった、
コミュニケーションのとり方に変えていくのか。

「若いときには、
 あまりスキンシップをしなかったけど、
 老いて口も頭もまわらないから、
 するようになった」とか。

ほんとうに老いてそれすらできなくなったら、
これはたとえだけど、

おじいさんはマラカスを、おばあさんはタンバリンを
一日1回シャン!と鳴らす。

これが、おばあさん元気か、おじいさん愛してるよ、
の合図だ、という老夫婦がいてもいいわけだ。

考えたら、親は、変化していく子どもに対して、
コミュニケーションのとり方を変えていく。

おっぱいをあげたり、だっこで愛情を表していた親が、

こどもが膝にのらなくなったら、
今度は、言葉で伝えようとする。

子どもが思春期になり、
言葉でやりとりすることさえ、
拒むようになってしまったら、
私の知っている人は、
「弁当」で愛情表現をしつづけた。

そんなふうに、

「できるコミュニケーション方法を編み出していく」

ことも、選択できる道ではないかと思う。

「リミッター・シリーズ」に
読者からたくさんおたよりをいただいている。
紹介して今日は終わろう。

「ほぼ日」の読者って、すごいなあ!


<感じて、探して>

上手に言葉や態度を使って
おじいさんと愛を確認し合えないんだとしたら、

もう徹底的に愛が「ある」んだとして
おじいさんと接してみることです。

自戒を込めて書きますが、
おじいさんに苦言を垂れてしまうおばあさんも

「すでに円滑なコミニュケーションの一手に
 つまずいている」

のではないでしょうか。
ここでさらに失意や悲しみを募らすのではなく、
あー単純にこの方法はおじいさんには通じないんだな〜、
とサクッとちがう方法を取るに限ります。

相手の言葉で即安心を得るのではなくて、

観察し感じようとしてみる工夫が

緊迫した二人の何かを変える気がします。
愛がある前提でいれば、
おじいさんもおばあさんと一緒に
チュン子を可愛がって欲しいかったのかもとか、

おばあさんから苦言を言われて
とてもショックだったかもしれないねとか、
そもそも雀に心を奪われたのはおじいさんも
何がしかの不安や寂しい心があったのかもしれない、
など優しい想像が進みます。

おじいさんへの態度が柔らかいものになれたら
二人の空気が変わるんじゃないでしょうか。

おばあさんは、言葉や態度で愛を表してくれたら
いつもラクなわけです。

おじいさんは何も言わずとも
おばあさんが怒ったりせず理解してくれたら
いつもラクなわけです。

互いにラクでいたいという気持ちの
ぶつかり合いがおこっている。

どちらも悪くないけど対立してしまう。

だけどここで二人の長年の関係を終わらせたくないなら、
おばあさんがおじいさんへの愛がまだあるなら、

「考えるな、感じろ」。

このコラムで考えるなと言うのは誤解を受けそうですが、

「悪く考えるな、愛を感じろ、
 愛を探せ、愛を探してみよう」

という意味です。
おじいさんをラクにしてあげるために探すのではなくて、
自分を満たしてあげるために一所懸命探してみるんです。
自分のために、です。

長年連れ添ってきた二人の関係なら
きっと何か見つけられるはず。
(ちなみに、一つ見つかった後
 けっこう沢山見つかるものです。)

超ささやかだとしても愛を自ら感じたその後で、
改めておじいさんとの関係を続けられるか
考えてみても遅くないんじゃないでしょうか。
(おさとう)


<賭けのように>

今回のリミッターの話を興味深く
読ませていただきました。

「表せないだけで、
 そこに自分だけの愛があったとしたら?」

だとしたら、なぜあるはずの愛を、
受けとれなくなってしまうのか?

それは表現するほうも受けるほうも、
予定調和の関わりに落ち込んでしまって、
知らず知らずのうちに、
それ以外の可能性を閉ざしてしまっている
からのように思います。

どんなボールが来るかわからない相手ならば、
こちらも意識して身構えますが、
同じようなボールしか来ない相手では、
受ける方も慣れで動いてしまいます。

それだけならまだしも、
自分の投げてほしいボールが来ないと、
苛立ちがつのり責めたくなってきます。

ですがその時は、自分も受けとる余裕を失っています。

そうなると、実は表現されているのに
自分の方が見失っていることもありえます。

夫が若い人に、熟年妻の自分とは
全然違う熱い関わりをしていると、

「こんな表現が出来ているのに、
 なんで自分にはしてくれないのか?」

と不満や怒りが出るのは当然でしょう。
でもその時は、

自分のしてほしい表現の仕方に、
相手を合わせたくなっているのかもしれません。

そうなるとあるはずの思いが出にくくなってしまう。

自分にとって大事な人だからこそ、
相手に求める気持ちもいっぱいあります。

ですが求める気持ちをもて余して、
相手の表現を見逃したらもったいないでしょう。

どちらの気持ちも大事にするためには、
どうしたらいいのか?

難しいことですが、
この関係に愛があるはずだと信じられるか、
そこに鍵があるように思えます。

それは賭けのようなものかもしれません。
ひょっとしたら愛はないのかもしれない。
ですが疑いだすと、
ますますそこにある愛を感じられなくなります。

求める自分には愛があるのは確かですし、
それならば相手の表現を待つというのもまた、
こちらからの愛の表現としてあるのではないでしょうか。
(たまふろ)


<熟年夫婦問題の予備軍として>

将来を案じ、[多忙]の選択をしました。
家事はもちろん仕事、習い事、
とにかく自分を外に向け、将来寂しくならないように
自分を奮い立たせています。

もちろんそこには素晴らしい出会いや刺激があり、
心が満たされます。
ですが、それらがうまく行くほど

心の中で主人を拒絶してしまいます。
 
そんな小さな拒絶の積み重ねが、
大きな亀裂になるのでは?

と考えさせられました。
受け取る技術、必要だと気づきました。

まずは、主人の目を見る、そこから始めようと思います。
(S)


<人がそうするには理由が>

私はマンションの管理人をしています。
住人さんたちは、まさに十人十色。
コミュニケーション力もそれぞれです。

さりげなく労いの言葉をかけてくれる人。

小さな事にも感謝を伝えられる人。

上手にお願い事ができる人

など、今までの経験と普段の生活が見えてきます。
一方で、あいさつをしても返事が返ってこない人も。
最初は

「あいさつができないなんて人としてどうなんだ?」

とも思いましたが、
人がそうするには何か理由があるはず。

まだ私に慣れていないのかな。

朝が苦手?

恥ずかしい?

意外とあいさつって
反射神経と運動神経いるもんなぁ‥‥。

などとあれこれ想像していると、
トゲトゲの心も丸くなり。
そういえば、以前販売の仕事をしていた時に、
研修で緊張していたら
「そんな不機嫌な顔してないで!」
と注意されたことがありました。
どうやら、こけし顔の私は
150%くらい笑ってやっと普通の人の
70%スマイルになるようです。

そんなつもりはなくても、それが人から見た自分。

誰かのまっすぐな指摘は、時にショックだけれど、
それによって人は変わっていけるとも思うのです。

愛あるショック療法もよし。
じっくり温めてほぐすもよし。
やり方はきっと人それぞれ。

年齢を重ねると、体も心も硬くなってきます。

急に体を動かすと筋肉を傷めるように、
心もまずストレッチをして、
少しずつ鍛えていけたらいいな。

「◯◯さん、好きスキすきよ。」

そう思いながら、これからもあいさつを続けていきます。
(眼鏡ぐま)


<ハッピーエンドはどれ?>

先週の読者の声、
「舌切り雀」読みました。

既婚ですが長年連れ添ったわけではないので
時間的な愛が分かりませんが

「妻としての尊厳の失意。」は事実です。

この事件から学ぶこと
男の不実さ
男の生存本能
妻の依存心
妻の柔軟性

妻として

「若い子に目がいって
 楽しみをみつけて良かったじゃん。
 またもう少し元気にいきられるね。
 私もこうしちゃいられない。
 私は私の楽しいことをみつけるよ。」

めでたしめでたし。

なのか

おばあさん
「私はあなたといつまでも
 仲睦まじく暮らすのが幸せ」

おじいさん
「僕が悪かった、
 自分の老いから目をそらして
 君を傷つけたね」

めでたしめでたし。

なのか。

おばあさんになってみないと分からないと思う次第です。
おばあさんって、想像以上に大変だなと思います。
(Y)


<男の立場から>

リミッターの回のお話は、
長年、夫婦生活を営んできて、
身につまされるものでした。

読者のお話の舌切り雀も印象的です。

表現力をコツコツ磨き、
妻や同僚に自分の気持ちを伝えてゆくように
努力していきたい、と考えました。

また、見えないから、そこには気持ちがない、と
切り捨てないように
落ち着いて向かい合おうと考えました。
(A・T)



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2015-11-18-WED
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