YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson755
   リミッター


怒るときは、キャパ・オーバーだ。

その人の許容範囲・処理能力を超えてしまっている。

その人のキャパシティでは、
どうしようにも、どうもできない、

だから、キレる。

キャパ・オーバーになったとき、
怒る人、泣く人、固まる人、
まわりの全てを遮断して閉じる人、
投げやりになって放り出す人‥‥さまざまだけど、

「ああ、いま自分はキャパ・オーバーになって
 いるんだな」

と自分に言い聞かせると少し落ち着く。

熟年離婚の問題に、

加齢による「言葉のキャパ・オーバー」
の問題があるように思えてしかたがない。

ほっとくと、
「言葉」のキャパは落ちる。

「年をとってから、ちょっと何か言うと、
 すぐキレるようになってしまった。
 若いころは、柔軟だったのに‥‥」
という人がいる。

一方で、80歳になっても、90歳になっても、
言葉が全く衰えないどころか、
若者以上に堪能に、想いを話したり書いたり

最期まで自分の言葉で表現できる人は、

何らかの伝える努力を
ずっとコツコツやり続けている人だ。

もちろん、
防ぎようのない病気や怪我で、
努力と関係なく、言葉が衰える場合もあるので、
そのケースは除く。

もしも、ラクなほうへ、ラクなほうへ、と流れ、
夫婦間などなれ合った関係には完全にアグラをかき、
「風呂、飯、寝る」の最低用件以外、
伝える努力をまったくせずに、年老いたら、

いざ、想いを伝えるとなったとき、

まったく、言葉の足腰が立たない、
ということもありうる。

本人、若い頃にできていたので、
「いざ、その気になりゃあ、
 いくらでも言葉で伝えられる」
という幻想があるので、
そんな自分に、まず自分でキレる。

熟年離婚、とまでいかなくとも、
長年連れ添った夫婦に、熟年になって
家庭内冷戦のようなかっこうで溝ができてしまった
というケースを耳にする。

性格の不一致・価値観の不一致
など言われる。

それもあるんだろうけど、
そこに行く前の、疎通の問題、

「コミュニケーションの問題」は大きいのではないか?

男も女も鍛えなければ言葉力は落ちるけど、
ここでは、たまたま、夫の方の
言葉のキャパシティが、加齢によって
落ちたケースで説明してみる。
必要に応じて男女を入れ替えて考えてみてほしい。

熟年になって溝ができたご夫婦の話に、

「浮気とまではいかない、若い女の存在」

がよく登場する。

若い女に、
「夫が妻には見せたことがない嬉しそうな顔で
 話をしていた」とか、
「妻には買ってくれないプレゼントをした」とか、

ささいなきっかけだ。

夫婦間でしっかり話し合い、
愛情確認、信頼確認すればのりこえられることだ。

ところが、加齢により本人自覚なく、
言葉のキャパシティがいつのまにか小さくなっていると、
そう、すいすいとはいかない。

本人にとって、
「若いころこれくらいは許容できていた」という問題が、
容量がいつのまにかやせていて抱えきれない。
「うまくコミュニケーションとって処理できていた」
問題が、
キャパ・オーバーで、さばききれない。

そこで、キレる。

妻のことが大切であればあるほど、
ことが重大に感じられて、
すぐリミッターがきてしまう。

浮気などでない断じて潔白であればあるほど、
腹が立ち、強く出る。

結果、
「もういい!」「そう思うんなら思え」
「もう別れる!」と、
思ってもない悪態をついて、放り出す。

すると妻の方は、
「私のことがどうでもいいのね」「愛してないのね」
と受け取ってしまう。

ここで2つ、疑問がある。

1つは、加齢によりキャパが減り、
妻への愛情を全く、言葉にも態度にも表せない夫が、
なぜ、若い女には、ロコツに
顔や態度を変化させてしまうのか?

私は学者じゃないので科学的にはなんともいえないが、
経験上、年とると人は、
「むき出し」になるんじゃないか、と思う。

若い人に気が行くのは、男も女も同じだけど、
理性を鍛え、TPOをわきまえることを
常にやり続けている人は、
いくつになっても露骨な態度に出ることはないけれど、
この筋肉も使わなければ、衰えてしまい、
本能、むき出しになる。

熟年になると、更年期をむかえた妻は、
女性としての衰えも実感するころなので、
夫が若い女に、むき出しになっているのを見せられると、
へこむ。

2つは、
「もしも、愛情を、顔にも態度にも言葉にも行動にも、
 いっさい表さない・表せない夫だとしたら、
 妻のほうは、どうやって愛を受け取ったらいいのか?」
ということだ。

むき出しで現れる本能とはちがって、
長年つれそった絆・信頼・愛というものは、
伝えようと思えばチカラがいる。

だから妻のほうにすれば、

「自分には、まったく愛情をあらわさない。
 若い女には、ロコツに表す。
 それを指摘すれば、すぐキレ、放り出す。

 だから、愛がない」、になってしまう。

夫婦それぞれに、それぞれの事情があり、
上記のような単純な問題ではないのだろうし、
私が、外から、どうこう言える問題では
ないのかもしれない。

でも、もし、コミュニケーションの問題だとすれば、
ただ表せないだけで、

「そこに愛はある」

という可能性がある。

「言葉や顔や態度や行動に表してくれない、
 だから愛がない、と切り捨ててしまっても
 いいのだろうか?」

愛情を全く表さない夫に失望し、
離婚なり、家庭内冷戦なり、
それぞれの選択をすることは自由だと思う。

だけれども、

「もしそこに本物の愛があったとしたら?」

たとえば、夫の死後に遺品から、
妻に対する深い愛を表すものが出てきたり、
あるいは、陰で夫が妻のためにずっとお金を払い続けて
くれたことが発覚したり、
人づてに、妻のことをとても大事に思っていたことを
聞いたり、

本当はすごく愛していてくれたということがわかったら、
そこに後悔はないだろうか?

「愛」という目に見えないものを、
どう表すか、伝えるか、疎通するか、は
もちろん大問題だ。

その力はいつからでも、いくつでも、
鍛えられるし、鍛えれば鍛えるほど伝わるようになる。
ふだん、全く表せない人ほど、
キレず、放り出さず、伝えようとすれば、
その姿勢だけで、相手に大きな感動を生むと思う。

だけれども、それ以上に、

愛を言葉や態度に表せないどころか、
大事に思うあまりにすぐキャパ・オーバーになって、
キレたり、悪態をついたり、放り出したり、
逆、逆、の言葉や態度になってしまう人の、

見えない「愛」を、どう感受するか?

も大問題である。

熟年夫婦に限らず、
友人であれ、親子や、職場仲間であれ、
年とともに柔軟さを失い、表現力が硬化しがちな関係には、
大切な問題だと私は思う。

「もしも、表せないだけで、
 そこに自分への愛があったとしたら?」

そこを切り捨ててしまって後悔はないだろうか。


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2015-11-04-WED
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