YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson744
 創造性が弱ると、人はなぜボヤくのか?


SNSで、
私の言葉に反論してくる人がいた。

活発な議論の場ならしかたがないが、
そこは、「仲良しどうし安らぐ場」だったので、
私はかなりツラかった。

ちいさなことと、のり越えようとしたが、
我慢すればするほどするほどツラくなり、
私は、ついに勇気を出して、正直に、

「発言は自由なので、
 やめてくれとは言えないけれど、
 あのようなタイミングで、
 あのように書かれて私は悲しい。」

と、相手に言った。

すると、意外なことに相手は、

「正直に言ってくれたので、
 私も正直に言います。
 あなたの発信に反論しようとしたことなどない。
 それどころか、
 あなたの発信は、いつも優しくて
 どれも納得することばかりです。」

と、日ごろから、とても好意をもって、
私の発信を読んでくれている気持ちが、
まっすぐ伝わってきて、嬉しくなった。

私はベースのところで相手の人間性を
信頼しており、
とてもうそを言っているようには思えなかった。

1ヶ月以上、腹がグルグルするほど、
反論に悩んだ私と、

反論したつもりも、する気もなく、
それどころか好感・納得感をもって
読んでいたという相手、

これはいったい、どういうことなのだろう?

良くも悪くも、
「私の問いが、相手に響いた」
ということだ。

こんな経験をした人はいないだろうか。

何を書こうか、
と考えても
とりたてて言いたいことなど何もない、

‥‥と思っていたら、そこに、

友だちの発信が飛び込んできた。

ふーん、なるほどね、
と思って読んでその場は終わり、
でも、しばらくたって、
なにやらムズムズ、ふつふつと、

言いたいことが沸き起こり、

まったく書きたいことがないと思っていたのに、
いつのまにか熱い文章を書きあげてしまっていた。

上記のような経験、私自身もある。

自ら問いを起こせないとき、人は、
想いを外に出せず溜まる。

たとえば、
「自分はどこに行きたいのか?→安らげる所だ。」
のように、
「問いを発して→想いは引っぱり出せる。」

書くことは考えることであり、
考える力は論点、

自ら問いを起こせるかどうか、にかかっている。

しかし、問いを起こすには、
独特の自家発電力というか起動力が要る。

知的な体力が疲れていたり、
あるいは、「論点を起こす」ことをやりなれてなかったり、
少し考えることから遠ざかって億劫になっていたり、
ある方向の問いにとらわれ、
他がお留守になっている時期だったりすると、

新たな「問い」が立たなくなる。

すると、
クローゼットいっぱいに、
いい服や着たい服がつまっているというのに、
1着も取り出すことができず、
いつも同じ手あかにまみれた服ばかり着ている、
というような状態が、言葉にも起きる。

これが「書きたいことがない」の正体だ。

ほんとは、体験なり見聞なりで
溜まった想いや考えはたくさんある。
単に取り出せないだけで。

そんなとき、人が書いたものを読むと、

「それなら私も‥‥」と、つられて、
言いたいことがふつふつ出てくるのは、
その人の書いたものに潜んでいる
「問い」を無自覚に借用しているからだ。

「問い」には、考えさせる力がある。

その人の立てた「問い」の力を借りて、
溜まっていた想いや考えがひっぱり出せる。

私の発信に潜んでいた問いは、
相手の問題意識にはまる問いだったのであり、

かつ、相手が日ごろあんまり立てない
角度にあった問いだったのだろう。

それだけに、相手の深くに蓄積した想いを
勢いよく引き出してしまった。

相手と私は、良い意味で、同じ考えではない。

だから、結果的に、
私の発信に対して、相手が反論している、
ような恰好に映ってしまった。

いっぽうで、
言いたい放題に思えるほど、
かなりキツイことをSNSに書いていても、
ふしぎに人に好かれ、衝突を起こさない人がいる。
そういう人は、
人の書いたものにあれこれ言わず、無自覚に、

「自ら発した問い」で発信をしているように思う。

仕事の会議であったり、
顔を合わせてする会話だと、
「相手の論点を受けて話す」
のは原則である。
そうでないと会話がずれてゆく。

しかし、SNSで、人の発信を受けて、
それにちなんで、何か個性的な、
ありきたりではないことを言ってやろうとすると、
反論みたいになってしまうことがある。

ちいさなつぶやき1つでも、人によっては
ドキドキしながら勇気をもって発信しており、
それについてとやかく言われると、
言われたほうはけっこうツラいものだ。

だから、SNSで、
「人の書いたものを受けて、それにちなんで
 なにか独創的なことを言ってやろう」
とすると、
無自覚に人の問いを借用していて、
そこにいちゃもんをつけたような恰好になってしまい、
自分ではまったく意図せずして、
人を傷つけてしまうこともある。

独自性を発揮したいなら、独自の論点を起こすとこから。

私も今回の一件で初めて気づかされたことだが、
SNSで個性を出すなら、自家発の問いを心がけたい。
論点を起こす筋トレにもなり、一石二鳥だ。

もしも、ずっと使わなかったとして、
「問い」をまったく自ら立てられなくなってしまったら…、

とちょっと恐ろしいことを考えてみた。

想いは溜まっていく一方となり、
人間は溜まった想いを
何とかして外に出そうとするので、

そうなったら、
人の言動にばかりぴったりとはりついて、
人の問いを借りないと、
言葉が出ないという状況になる、
これが、

「ボヤく」

ということなのだろう。
自力で外に出せず溜りに溜まった想いを、
人が言葉や行動を起こす原動力になった問いを拝借し、
そこにいちゃもんをつけるカタチで、
1ミリ2ミリ、ちびちびと、独自性を外に出して快を得る。

自ら「問い」を起こすのは
大変エネルギーを必要とする、
これに比べると、
人が切り口を見つけ切って見せた文章に、
あれこれ言うことはずっとたやすい。

私自身、問いを起こすチカラだけは、
可能な限り自立していたい、これが切なる願いだ。

そのために、自分の経験の畑から、
ささやかでも自分の「問い」の芽をはやすことを
日ごろからやりつづけていきたい、と私は思う。

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2015-08-05-WED
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