YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson738
    未知のものが会話に出たとき
    ―2.読者の声


「安易なカテゴライズをつつしむ」
未知のものがでたときの
自分なりの尊重の表し方だ。

とくに相手が、
相手にとって大切な人・もの・ことについて
語っているとき
カンタンに分類されてオシマイにはされたくないだろう。

未知を未知として扱う不安から、
人は既に知ってるものに区分けしたがるが、

「それはそれとしてかけがえないかもしれない。」

未知のものが会話に出たとき、
どう面白がるか?

という前回のコラムにいただいた
「読者の声」を、1通ずつ「私の感想」とともに、
きょうは紹介していこう!


<信頼のカタチ>

先週の「未知のものが会話に出たとき」を
興味深く読ませていただきました。

「分かりたいようにしか聞けなくなってしまう」、

急いで分かろうとする時などによくあり、
自分の枠の中に
相手をはめ込みたくなっているのでしょうが、

人は常に自分の枠を超えているので、
拾いきれない部分が出てきます。

拾いきれない部分は、
「自分の枠を広げてくれる可能性」がある。

でも、そこを素通りして、
分かった感じに安住してしまいます。

なぜそんなに急がないといけないのか?

大体そういうときには、
相手とのよい関係を保ちたいなど、

「分かった先の何か」

に意識が向いているような気がします。
結果を求めるあまり、素通りしてしまうのでしょう。

素通りせず、かといって
自分の枠に無理に収めるのでもなく、

「分からないなりに関わっていく」。

聞いてもらう側も、
今分かってもらえないからといって、
絶望したり焦ったりすることはありません。

関係が終わったわけでもないし、
ふとしたことから分かってもらえるかもしれません。

そうやって変わっていく関係に身を任せておけるのも、
信頼の形としてありえるように思います。
(たまふろ)



ズーニーです。

「信頼」なんだな、

わからないものを、わからないままに扱い、
じっくりと時をかけて、

お互いの枠組みを、お互いが広げていくような
つきあいを成り立たせるものは。

相手に気に入られたくて、
ものわかりが良いと思われたくて、
私たちは、早飲み込みをしてしまいがちだけど、
皮相な理解は、そのうちバレる。

いま、わかれなくて、
ものわかりの悪いやつだと思われても、

時間をかけて、
自分の枠組みを広げて、
ほんとうの理解を示したならば、

相手は信頼して、より、遠く
より理解に時間のかかる「未知」を
自分に対して投げかけてくれるようになる。

そうなると、つきあいは刺激的だ。


<素直にカテゴライズされたい>

私は、大事なものについて話すとき
なんだか恥ずかしいので

カテゴライズをごまかしてしまって伝わらない

事がよくあります。
例えば、私の好きなバンドの話になって、

「ロック?」

と聞かれると、
自分がロックを聞くのは似合わないと、
なんだか恥ずかしくなって、

「ロックっぽいけど、もっと軽い感じかな〜?」
とか、ごまかして伝わらず
相手にイライラされることがよくあります。

なので私の場合は、逆に、
相手のカテゴライズを素直に受け止める
ことができたら、
もっと伝えることができるなと思いました。
(HARU)



ズーニーです。
これ、わかるー!!!

「自我が邪魔して」受け入れられない。

私も好きな俳優を言って、
相手に、

「その人って何? イケメン?」

と言われたら、
世間的には、イケメンにちがいないし、
あっさりそう認めて話を進めたほうがいいと
わかっているのに、

いい歳をして、外見ばかりに
とらわれてると思われないか、
自我が邪魔して、ごちゃごちゃ説明して、
相手に面倒くさがられる。

「はいイケメンです!
 私は、イケメンが大好きです!」

と堂々と
世間一般から観たカテゴライズを
受け止められるように、

私もなりたい。


<ほんとうに聴いているのは>

自分が好きなことを話している時、
相手に、話している内容よりも、

好きという気持ちをわかってもらたい。

仕事柄、
相手の好きなことの話を聴く機会も多いです。

その時に心がけているのは、
話している内容ではありません。

好きなことを話している人の
雰囲気とか口調だとか表情とかで。

聴いていると、
好きという感情が伝わってくるのです。

ただ、それを楽しむという感じ。

すると不思議なことに
相手の好きに共感したり、
面白そうだと僕自身も体験しにいったり、
相手と一緒に体験しにいったりします。

その後に会話すると
「相手の好きが何か」がようやくわかった
感じがするのです。

未知との遭遇をした時には、
自分自身の理解のためでなく、
ただ相手の感情を聴いて楽しもうと
改めて思いました。

それを面白がっている相手が面白いのだから。
(まぁちゃん)



リクツでわかろうとせず、心で聞く。

人間の心のチカラはすごい。
コミュニケーション力の実習をする時に、

「相手の話を、目で聞こう」

と指示すると、
小学生であっても、
コミュニケーション下手を自称する人でも、
良い聞き手になる。

それは、雰囲気とか口調とか表情に
注意を向けるから、
そして、

「心を働かせて聞く」

からだと思う。
心で聞き、共感し、ともに体験し、
そのあとなら、

カテゴライズしたり、
カテゴライズされたりのおしゃべりも
花が咲くのだろうなあ。


<感じる・伝える>

最近、カテゴライズはしたくない
と思うようになりました。

例えば興味がもてない話しでも、
「ひどい話し」などとカテゴライズすることによって
相手の話しを理解したつもりでいましたが、
それも出来る限りしないようにしています。

話しのどこかが自分の心に響いたなら、

それを相手に伝えます。
相手にとっては

「えっ、そこ? これはひどい話しでしょ?」

ということも多いですが、
それでもかまわないという心意気であります。

カテゴライズ癖は放置すると
私を支配して、

「今の話しのどこが心に響いたのか」

私にとって、とても大切なことが
分からなくなるからです。

カテゴライズにより
きれいに整頓された部屋の中にいて、
何か表れてもさっとどこかに収めて
またキレイな部屋に戻す
という作業は、
思考の整理整頓のようにも思えていましたが、

目の前に転がってきたものを
手に取り眺め、
心に響くところを見つけてこそ
出会うのだと思います。
(Sarah)



「しまう前に、感じよ。」

カテゴライズしきれなかったものは、
未消化感として、これまで私は
やっかいものとしてきたけれど、

心の部屋は、
少々、とっちらかってたほうが
ワクワク感があるのかも。

どの引き出しにもしまえないものが、
あちこちに、生のまま、

ごろん!

と、はみだしていて、
でも、そのどこが「キラッ!」と光るかは、
自分で感じ取っている。
そんな散らかり具合が面白いかもしれない。

ああ、人に会いたくなった。
会って、自分の知らない話を聞きたい。

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2015-06-24-WED
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