YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson732 曇りの教室


表現教育を通して、
老若男女の生徒さんの文章の向こうに、
世相を垣間見ることがある。

ここ一年、よく目にするようになって、
気になっているテーマがある。

私はそれを「曇りの教室」と呼んでいる。

独特の価値観を持った先生が、
その独特の価値観を強く押し出して、
厳しく生徒を統括する教室だ。

昔から、
たとえば、服装も髪型も自由な学校なのに、
自分の入っていた運動部だけ「丸刈り」にしなければ
ならなくて恥ずかしかった人とか、

男女共学で、みな学園恋愛を楽しんでいるのに、
自分の部活だけ、先生が厳しくて、
「恋愛絶対禁止」で辛かった人とか、

これは躾かどうか、
人によって見解が分かれるようなことで、
たまたま厳しい先生にあたってしまい辛かった、
というような体験は、世代を問わず
生徒さんの文章に見られていた。

ここで私が、「曇りの教室」と呼んでいるのは、
そういう先生独自の価値観が、
さらに独特に、より癖が強くなっていったような
ケースで、

たまたまそういう先生にあたり、
独特の価値観を押しつけられてしまった生徒は、
受け止めきれずに苦しむ。

「先生がやってはいけない、ということは、
 やっぱりやってはいけないんだろうと思う。
 でも、他のクラスなり、他の部活なり、を見ると、
 許されて、皆、自由にやっていることだ。

 先生に説明を求めようとしても
 怖くてとても聞けないし、
 自分で考えてみてもさっぱり理由がわからない。
 従わないと、独特の厳しい罰が課される。」

先生は指導力がないのか、というと、
そうではなく、それなりの指導成果を出している。

罰が厳しい、と言っても、
叩いたり殴ったりするわけではないので問題にならない。

悪い教師かというと、勤務態度もまじめで
どちらかというと子供思いの熱心な先生の方になる。

でも生徒のほうからは、
ひどく癖のある先生が、自分の癖を押しつけて
いるように感じられしまうし、
罰せられる理由がよくわからない人が、
厳しく罰せられているように感じられてしまう。

とりたてて事件が起こっているわけではない。
問題が表面化しないので、話し合うことも、解決もない。

生徒は罰が恐くて従うしかない。

ひたすら先生の気に障らないように、
はみださないように、と
びくびくとした空気が蔓延し、閉塞感を生んでいく。

こういう状態が1年、場合によっては
2年、3年‥‥と続いていく。

雨、つまり事件や衝突があるわけではない。
かといって、晴れ、つまり解放される日もない。
ひたすら「抑圧」が続いていくから、

「曇りの教室」。

こういう状態は、人間にとって、
予想以上にストレスだと気づかされる。

小さなことでも、
納得できないことで自由を制限され続けたり、
理不尽に思える罰を受け続けたりすると、
人は閉塞し、思いもしなかったところにハケ口を求める。

曇りの教室で、不穏な出来事が相次いで起きる。

だれかの物がなくなって、
しばらくたって、意外なところから出てくる。
これが繰り返される。

順番に、だれかが仲間外れにされて、
また何事もなかったように元に戻される。
これが繰り返される。

盗難事件とまではいかない、
いじめとまでもいかない、
表面化しない程度のガス抜きで、
誰かが、どうにか、抑圧や閉塞感をしのごうともがく。

そのことがさらなる閉塞感を生んでいく。

もちろん、私が目にする文章は、
いま「曇りの教室」にいる人たちのものではない。
そこを乗り越えて成人し、振り返っている人の
文章ばかりだ。

「乗り越え方」の主なものに2つある。

部活であれば、「辞める」という選択。

スポーツならスポーツで、
どうしてもその種目が好きだという気持ちと、
納得いかない抑圧にどうしても耐えられない
という気持ちと、せめぎあって生徒は悩むのだが、
悩んだ末に辞めるという選択も少なくない。

辞めて後悔はないのかと私は思ったのだが、
不思議に、やめて後悔したという文章はない。
別の部活に移って本当によかったという声も多い。

クラスの場合は辞めるわけにはいかないので、
クラスのしがらみがない人間関係に飛び込んで行って、
何か打ち込めるものを見つけて、自由を得る。

どちらも、「曇りの教室」の外に、違う世界を見つけ、
そこから相対化して見ることで、
心の余裕が生まれている。

振り返っても、みな、本当に先生を恨んでいないし、
先生の指導が間違っているとも思っていない。

乗り越えた人が、乗り越えられたから、
文章に書けるのだとも思う。
大多数の人は、抑圧に耐えるしかないのだろう
と思うとやるせない。

生徒のほうが振り返って恨んでいないくらいだから、
先生のほうも、悪気など1ミリもなく、
自分の思う教育観では、すべて理屈が通っていることで、
生徒のために、むしろ自己犠牲くらいの信念で
やっているのだろうと思う。

先生のほうは、まさか自分の指導が生徒に抑圧を
生んでいるとは思いもよらず、
ストレスがゆがんだ行動を起こすくらいなら、
言ってくれればよかったのに、と思うかもしれない。

一方で、閉塞と抑圧の空気の中で、
先生に意見はおろか、苦しい気持ちを伝えるなど、
とてもできない、という生徒の気持ちもわかる。

ではどうすればいいのだろう?

私自身は、学校でも、職場でも、
よい先生、よい上司に恵まれ、
いま仕事でお会いする先生方も、
とてもいい先生ばかりで、
自分の経験から解決策を提示できないのだけど、

「曇りの教室」を乗り越えた人の言葉から、
1つだけ、そうか! と思ったことがある。

その人は、部活の先生が独特の価値観を強要する人で、
高校までは、違和感と抑圧に苦しんだ。

大学に来て、別の指導者のもとで部活を始めたら、
それまでの抑圧が嘘のように、
のびのびできるようになった。

ところが、強い癖のある先生の縛りから解放されて、
やっと自由になれたというのに、
自分がまだ、元の先生の教えにとらわれていることに
気づき、愕然とする。

行動のはしばしで、無意識に
元の先生の教えに忠実であろうとする自分に出くわすし、
当時あんなに違和感があったやり方も、
いざやめて全く別のやり方をするとなると不安になる。

離れてしばらくたってもなお、
自分を支配する、元の先生の価値観。

そこから自由になるために、
彼は苦しんだ末

「自分の頭で考えるようにした。」

ここでは、どう行動するのが自分はよいと思うのか?
それはなぜか?
以前の方法は、どこか、なぜ間違っているのか?
ひとつひとつ自分で考え、自分が納得してから
行動するようにしたところ、
ひとつひとつ縛りが解けて、自由になっていった。

ならば、

いま、抑圧を感じている人も、
自分の頭で考えることで、
ほんの少しであっても自由は得られるのでは
ないだろうか。

自分が「なんかおかしい」と感じることを
強い力で上から押しつけられてしまったとき、
人は思考停止になりがちだ。

でも、そこで思考を止めてしまったら、
自分では何がよいのかもわからず、
なぜ従うかもわからず、
ただただ恐いから嫌々従うだけになってしまう。

力と恐怖に支配されることになり、
ますます抑圧がきつく感じてしまう。

でも、押しつけられた価値観を理不尽に感じるとき、
自分はどこがひっかかっているのか?
この問題を巡って社会に、なんなら世界に
視野を広げたときに、どんな考えがあるのか?
歴史の中で考えはどう変わってきたか?
自分個人は、どうあるのが良いと思うか?
それはなぜか? と考えてみる。

「少なくとも、自分では、
 自分がどうしたいかわかっている。
 自分のこの考えは、尊重できる」
と思ったとき、心は1ミリ自由になれる。

同じ従うにしても、

自分には、自分の思う「良い」「美しい」があり、
それを尊重できるように、

自分とは価値観の違うこの人にも、
この人の思う良い・美しいがある。

いったんそれを尊重して、ここは従ってみよう、

と思うことは、
思考停止と恐怖で相手に支配されるのとは、
自由度が違う。

考えることをあきらめてはいけない。

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2015-05-13-WED
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