YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson701
  ひらく鍵とざす鍵 ―2.読者メール紹介



好きになるとは、
「ひらく鍵」を手にする行為。
好きという想いが、
新しい次なる扉をどんどんひらいていく。

嫌うとは、
「とざす鍵」を手にする行為。
一人の人間を嫌う、
それはそれだけに留まらない。
必ず波及していくつもの扉を閉ざすことになる。

「それでも自分はこの人を嫌ってしまうのか?」

そんな先週のコラムに、
読者はどう考えたのか?

さっそく読者メールを紹介しよう!


<その人の眼で見る景色>

先週の「ひらく鍵とざす鍵」を読んで、
ある友人のことを思い出しました。

その友人はよく街角で写真を撮ったり、
絵を書いたりを趣味にしていました。

私はそういったものに全然関心がなかったのですが、
京都の街角を撮った写真を見てびっくり、

同じ街を歩いているはずなのに、
写真を通じてみると素敵な街並が広がってました。

「見ておくだけでは惜しい風景があるから、
 写真に撮っておくの」

と友人は言いました。
そういう眼で見ているのか。
それから写真を見るときには、
前とは違う見方になりました。

その人が残しておきたいという思いと風景が、
そこにはあります。

写真の向こうにいる、
撮った人に思いをはせるようになりました。

友人への思いが、
写真への興味を開くきっかけになりました。

好きになることで、
自分がそれまでつながっていなかった人とも
つながれるし、
関心がなかった世界にもつながれます。
それは二個一で、切り離せないように思えます。

生活の中で色んなものを素通りしてしまっていますが、
だからこそ、自分を開く可能性がある、
好きになる気持ちは持ち続けていたいなと思います。
(たまふろ)


<どうしても嫌いな人がいました>

30代後半の働く女性、既婚です。
私は高校生のころどうしても嫌いな友人がいました。

その子=A子ちゃんは、
男子にもモテて、話がおもしろく、基本人気者、
運動できて、部活でも部長さん、
なんとなくセンスもよし。
でも、アンチA子派が少なからずいる、という存在。

私はアンチA子派と話が盛り上がって、
嫌いだなあと思ってました。

私はA子ちゃんと同じ部活で、
毎日のように一緒に帰ったりしていた近い存在なのに、
A子嫌いオーラを出していました。

他の子には、普通なのに
A子ちゃんには、そっけなく返事したり、
あからさまな態度をしていたのです。

今思うとやっぱり嫉妬だったのでしょうか、

運動神経悪い私に比べ、運動できるA子ちゃん、
センスの良いA子ちゃんが
羨ましかったのかなあと思います。
私は、自分の感情を態度に出さないようにするなどの
コントロールが全然つけられませんでした。

そんなこんなで高校を卒業し、

A子ちゃんはモテる系な女子大生となり、
私はやりたいことを探して大学に入って、
まったく違う道へ進みました。
A子ちゃんと連絡もとることもありませんでした。

ある日、手紙が届きました、A子ちゃんからです。

人生の節目に、
高校の時の私の態度が
どうしても気になるというものでした。

A子ちゃんは、短大卒業後、
結婚することになったそうです。

私は衝撃を受けました、

あんなにモテて運動神経もよく、
人生順調なA子ちゃんが、
わざわざ手紙を書いて来たことに。

そこまでに、私はひどいことをして
傷つけてきたんだなあ
と思いました。

悩んだ末、
若かったので自分の感情が
コントロールできなかったこと、
嫉妬心もあったこと、
本当にごめんなさい、
と返事を出しました。

数年後、誰かの結婚式二次会で、
A子ちゃんと再会したとき、めちゃくちゃ緊張しました。

が、高校の時と変わらず、
ちょっとちゃらけた感じで、変わってないねーと
話してくれました。

許してくれたとは思わないし、
これからも距離が劇的に縮まることもなく、
偶然になにかの集まりで会うくらいと思うけど、
あの時手紙をくれたことに、いまでは感謝しています。

その後も人を嫌ってしまうことはあるのだけど、
完全シャットアウトはしないように、心がけています。

今でも夫や職場の人に、
顔にすぐ出ると言われてしまうので、
治ってないんですが、、、。
人を嫌うことの怖さを
先週のコラムで再認識することができました。
(R)


<ひとまずやってみる>

私は「あんまり好きじゃないかも」と
思ったことについても、
「ひとまずやってみる」ことにしています。

そして、一度始めたことは、「ひとまず続けてみる」。

これは、単位制高校に勤めた経験から学んだことです。

私が勤めていたところでは、授業のお試し期間があって、
「これ難しい」とか、「自分に合ってないかも」とか
思ったら、その授業をやめることができました。

教える側に立って、初めて思ったのです。

まだ「さわり」のとこしかやってないのに、
まだ何にも突っ込んでないのに、やめちゃうの?

って。そして、自分もそうやって扉を閉ざしてきたことが
たくさんあったんじゃないかと気づいたんです。

何事も、ちょっとやったくらいじゃ
好きか嫌いかなんてわからない。

まずは何事にも

チャレンジすることから始めよう。
興味が湧いたらひとまずやってみよう。
誘われたらひとまず行ってみよう。

運動音痴の、走るのが苦手な私が、
この春、気づいたらハーフマラソンを完走していました。

これから出会うたくさんのことにも「開いた姿勢」で
向かっていきたいと思います。
(つぼんぬ)


<「あわない」と「嫌い」>

苦手な人は、
自分と合わない人と思い直すことにしている。
嫌な気持ちは伝わってしまう。
それではお互い不幸になる。
「合わない」は相手も自分も悪くない。
マッチングの問題だ。
嫌い! と言う前に、合わない! と言ってみて。
(仁左平)


<そろそろ次の景色を見てもいい>

ものすごくドキッとしてしまいました。

今、気になる人がいるからです。

私は、恋愛をして実ることなんてない者だと
自分に言い聞かせてきたところがあります。

同性に対してはひらく鍵をいくらでも用意でき、
扉を開ける事ができるのできますし、
異性でも人としての付き合いは同じ様に出来るのですが、

恋愛になりそうになると閉じてしまいます。

けれど、年を重ねて
こういったことにしがみついている必要があるのか、
手放して素直に認めて
自分のために恋愛してもいいんじゃないかと
思えてきた時、

ふと気になる人が出来ました。本当に突然。

でも、長年恋愛になりそうになると閉ざしてきた癖は
そう簡単にぬけず、
今もまだ、スッキリと素直に認めてられてはいないです。

けれど、先週のコラムをみて、
この想いが実るかどうかは別にして、

「扉を開けて新しい世界をみてもいいのでは」

と思うようになりました。

自分のために。
ときめいてもいいのではと。
(ペンギン)


<離れて、また戻ってきて>

好きは開く鍵になるという話、
とても共感します!

祖母や母がそのことを
小さいうちに教えてくれていました。

「みんななんか事情があるんやから、
 よう話し聞けば悪いひとはおらん」

と。この教えから、関わる人で、深く知る努力をすれば、
みんな事情があって色々あるなかで
頑張っていることはだいたいわかり、
みんな好きになれてきました。

そのおかげで、今まで結構たのしく生きて来られたなあ、
と思っています。

しかし‥‥

体の事情でこどもを授かることが難しいことがわかり、
自分が強く実現を願っているにも関わらず、
努力では叶い辛いことができて、

少し見える景色が変わりました。

辛いのは次々と妊娠していく友達の報告や、
何気なく立ち入った話をされること、です。

はじめて本気でいろんなひとを
嫌いになりそうになりました。

そうなっちゃいけないのになー、と
心の底では思いながらも。

欲しいものはひとの心の余裕も
うばってしまうのですね‥‥。

余裕が物理的にない今は、
辛いことからは「遠ざかる、離れる」
ということをしようとしています。

そのなかで欲しすぎる執着のこころが落ち着く方法‥‥
自分の力で作れる幸せのほかのカタチを探しています。

わたしの場合はやっぱり仕事の進化と、
からだと信念づくりかなあ、と模索をしています。

いつかのタイミングで、それがうまくいって、
余裕ができたら、また
いま離れているところとも、

好きの鍵でもどって繋がれるように。

嫌いになって鍵をして開かなくならないように、
気をつけようと改めて思いました。
(はる)



好きな人の好きなものを、
自分も好きになってしまうというのは
よく聞く話だけど、

「その人の眼で世界を見る」

こともできるんだなあ、と
たまふろさんのメールに教えられる。

好きという気持ちが、
ものを見る眼、そのものも広げていく。

改めて、1人の人間の持つ影響力は大きい。

人生には、職場でも、学校でも、世の中にも、
1人の友だちもいない、孤立無援の、
辛い、トンネルの中のような時期もあるかもしれない。

そういうとき、いきなり
「つきあいを広げよう」とか、「みんなになじもう」とか
「人々を好きになろう」とかしても、
ハードルが高く、
なかなかうまくいかないかもしれないけれど、

まずは1人、

「この人間が好きだ」と思える人が見つかるまで、
やけをおこさず、心をひらいてがんばってみるのも
いいんじゃないか。

たった1人ならハードルは低く、
なんとかなりそうだ。

たった1人でも、
その人の持つネットワークはけっこう広く、
その人とつながりのある1人が、
さらにネットワークを持つ。

たった1人、いるかいないかで大ちがい。

その1人を見つけ、
大切にコミュニケーションしてみることで、
意外に大きくひらかれていくのではないか。

それだけに、
たった1人を嫌うことも、
たった1人から嫌われることも、
失うものは大きい。

それでも人を嫌うとき、どうしたらいいのか?

最後に、たまふろさんのメールの続きを紹介して
終わりたい。メールには、

「嫌いをこじらせると憎しみになります」

とある。
Rさんが高校時代、嫌いだったAちゃんも、
お嫁に行くにあたり、
新しく家庭をつくっていくにあたり、
憎しみの種は、持っていくまいとしたんじゃないか。

手紙を書いたAちゃんも
お返事を書いたRさんも、素敵だ。
扉は全開でなくとも、
鍵はひらいた状態にもっていった。


<自分もだれかの扉に>

嫌いになることで、
つながりの可能性を閉じてしまうことは、
哀しいことです。
自分の生きる可能性を、自ら閉じることになります。

ですが嫌いという感情に振り回されている時には、
そのことには気づけません。

どうやって嫌いという感情に支配されず、
しかも否定することもなく、自分に立ち返るのか。

そこで有効なのが、先週書かれていた、
「いくつもの扉を閉じてしまうことになっても、
 この人を嫌うのか」
という問いかけなのだと思います。
理由はなんであれ、

嫌うのは自分、
そのリスクを背負うのも自分なのだ

と思えれば、
もし嫌いになってもその自分を受け止められるでしょう。
そして、自分にとって大事なことを思い起こせることで、
立ち返るきっかけを得られます。

嫌いになるのは仕方がないかもしれませんが、
嫌いをこじらせると憎しみになります。
そうなるとなかなか抜けられません。

ひとりでは脱出できない時、
周りの人に助けてもらわなければならないことも
あります、
そのためにも開いた自分でありたいのです。

開いた自分は、
他の人の扉にもなれるでしょうから。
(たまふろ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2014-09-24-WED
YAMADA
戻る