YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson673
    演技と表現 3.演じる自由・表す自由


私が、日頃、心がけているのは、

「表現を強制してはならない。」

ということだ。
例えば大学の授業などで、
ひと時期に800人も表現の実習をすると、
1人か2人くらいは、
「表現したくない」という人が出てくる。

なかば、泣くような感じで、
私のもとに、
自分の想いを人に言いたくないのだと
うったえてくるようなときに、

私が、
「そのままでもいいのではないでしょうか。
 想いを言葉や態度に表さず、
 じっと内に秘めている人が、
 好感をもって受け入れられるシーンも
 日本では多いですよ」
と答えると、

学生はキョトンとしている。

おそらく私が表現寄りの人間だから、
表現しなくてはダメと
叱咤激励すると思ったのだろう。

私の仕事は、
本人が、いざ、表現したいと思ったときに、
表現できるようにすることだ。

したくない人に表現を強いることではない。

例えば、就活で、
ずっと憧れていた会社に、
自分の考えを伝えたいというときに。

あるいは、
自分の想いをぴたっとした言葉に
言い表して、家族に伝えたいというときに。

自分の考え・想いを
言葉で表現し、伝えることができるようにする。

そのために方法を知らせ、
表現する筋肉と
話す書く前提となる、考える筋肉を、
実践しながら、着実にトレーニングしていくのみ。

表現は特別なものでもなんでもない。

もともと私たちは持って生まれているし、
学生の場合は、半期15コマ、
社会人の場合は、4時間×6回
の基礎トレーニングをさぼらずやれば、
だれでも、表現できるようになる。

人はもともと、演技力と表現力を兼ね備えている。

かなり小さい女の子、幼稚園くらいの子でも、
好きな男の気を引こうと、
もう演技するそぶりが見受けられる。
おませで、微笑ましい、かわいらしい女優さんだ。

人は自分の求めに応じて、
演技でも、表現でも、その両方でも、
使い分けていける。

自由なのがいい。

にもかかわらず、
演じること、即、自他をあざむく悪い行為だと、
自己嫌悪になったり。
(食物がないとき、空腹でも、子どもの前で
 ママはお腹がいっぱいなのと言う演技に
 代表されるように
 演技それ自体が悪いわけではない。)

表現をする以上、
演技はやめなければならないという強迫感があったり。
(どんな人にも演技する部分と表現する部分はある。
 人はそんなにきれいに1つに
 割り切れるものではない。)

表現しない・できない自分を悪いと決めつけたり。
(表現しない自由は認められると私は思っている。)

こうした硬直した考えがあるのはなぜか?

一つには、

演じてきたにしろ、表現してきたにしろ、
あるいは両者を使い分けてきたにしろ、

本人が自由に自然に選んだ、というよりは、

「強いられた感」があるからかもしれない。

私は表現を強制しない。

したくない、という人がいたら、
「いいですよ。
 無理せずに見ていてください」と言う。

表現をする前提となる、
テーマについて考えるための問いを
体系立てて用意はするが、

それすら、

「答えたくないことは答えなくていい。
 あなたが言いたくないことを、
 無理に言わせるような、そんな授業では
 決してありません」

と、むしろ
表現しなくとも許される環境を先につくる。

現場感覚として、
しないと言っている人間に、強いると、
どうもよくない。
無理にやらせても、それはたぶん、
表現とは程遠いもの
(伝えたいことを他者に通じるように表すのでなく、
 露悪的なカミングアウト大会みたいなもの)
になるんじゃないかと思う。

不思議なもので、むりしてしなくていいよ、
言うと、自ら進んで表現しようとしてくる。

表現を強制してはならない。

これは自分にいつも戒めていることで、
それと同様に、

演技も強要してはならない。

もちろん、だれも鎖でつなぐわけではないので、
最終的には、自分で自分に強制しているのだが。

たとえば、偉ぶって、
尊大に見られようとふるまう人の
「俺をありがたがれ」という無言の圧力に、
そしらぬふりはなかなかできない。
こういうのは、こびる演技の強要だ。

そこまで行かなくても、
私たちは無自覚に人に演技を強要してしまうことがある。

先日、ある女性が、
「彼氏のメールの返信が少ない。
 自分に関心がないのでは」
と責めていた。

責められて困っている彼氏側の気持ちが
なんとなくわかる気がした。

彼氏が関心がないのは、
彼女という女性そのものでなく、
長四角の手のひらサイズの機械に、
ちまちまと文字を打って、
送ったり送られたりする行為そのものではないだろうか。

朝、「おはよう」とメールしたら、
「おはよう」と帰ってくる、
この行為が好きな人にはたまらない、
一日が楽しくなる行為だが、

そこにそんなに意味を見いだせない、
それほど楽しくない、むしろ苦痛だ、と言う人には、

「演技を強いられる」行為になるかもしれない。

「おはよう」と言われて、何を返せばいいのか。
返信しないという選択肢は、
あるけどないに限りなく等しい。
きょうは、「おはよう」という気分でなくったって、
それを書けば長くなる、角が立つ。

すると実質、
「あかるくおはようと、そんなに待たせずに返信する」
しかない、となって、不本意ながら演じるより他ない人も
出てくるのではないだろうか。

同様に、
「私に関心がないの? 私のことどう思ってるの?
 だまってないでほんとの気持ちを言ってよ」
というような、表現の強要も、
なかなか思う結果を得られない。

たとえ、彼のほうが、本当に好きで、関心はあって、
メールのやりとりは苦痛だけど、
そうじゃなくて、一緒にごはん食べたり、
彼女の手を握ったりするのは大好きという場合でも、
「関心はある。きみのことが好きだ。
 ほんとうにそうだと思いをこめて言う」しか、
なかなか他に選択肢が見つけられないので、

表現を強いられた感がある。

人がもともと持っている表現力にしても、
演技力にしても、他から強制されたとき、
何かが硬直する。

相手にリアクションを求めるとき、
できるだけ自由にしてあげられるといい。

演技と表現について、
読者のおたよりを紹介して今日は、おわろう。


<仕事を始めたときの私の選択>

かつて、仕事を始めたとき、
人を治療するという立場で、
どうすればいいか分からず戸惑っていました。

そこで手がかりになったのが、
「先生を演じる」ことでした。

患者さんに先生と呼ばれることに
はじめは違和感がありましたが、

そこに徹してみようと。

自分に何もない状態で、
出来ることはそれしかありませんでした。

先生である自分に、何を患者さんは求めているのか。

それを聞きながら、試行錯誤していくうちに、
まがりなりに先生として認められるようになり、
自分自身もまた、先生である自分になじんでいきました。

いったん自分を捨てて、
患者さんの期待に出来る限り合わせていく。
そのための枠として、先生を演じる作業がありました。

今では、先生と呼ばれる立場で、
自分に出来る治療は何かを考えていますが、
それが自分の表現です。

演技であれ、表現であれ、
そのつど自分で選んでいる自覚があれば、
ベストの表現が出来るのではないでしょうか。
それを支えるのは、

誰のために? 何のために?

という問いだと思います。
(たまふろ)


<3つのグラデーション>

わざわざ似ているものを見る時間は、
本物を見る時間よりどうしても少ない。

似ているものを見ている時間でさえ、
本物を見る為の時間のうちかもしれない。

透明であるものは、
本物と観客の間で透明であるからこそ、
観客が飽きれば観客の記憶に残りにくい。

それは仕事としては安定した稼ぎになりにくい、
だから他のモノマネ芸人の人は、
演技(似る技術)と
表現(本物のどこが面白いと自分は感じたか)の
バランスをとることへとチェンジするわけで。

青木さんは、だったら歌手としての方向が拓けるかな、
という選択だったのでしょう。

商売の話はこれくらいにして、

人として演技の上手い人というのは、
確かに《いい人》です。

それは他人にとって、都合の《いい人》という意味
だともよくききます。

そして本人にも、結果都合が良い場合もあるでしょう。
これは勿論悪い事ではないです。

都合の《いい人》は
他人と引っかかりというか摩擦が少なく、
透明に近い潤滑油として
人と人の間にいてくれると助かる、
何故なら摩擦は少ないほうが楽だし、
それが良いことだと思っている人が多いから。

ただ本当に油ではないから、
他の人より摩擦されることが多くてしんどくなる、
逆に磨かれていくのがはやいという利点もある。

そして、都合の《いい人》に緩衝してもらっているのを
当たり前にしているひとは、
磨かれるのはとてもゆっくり。

また、表現する人達は、
お互いの摩擦の熱や振動、
その不快と快感を味わいながら、相手を感じながら、
磨くことを選んだ人。

この3つのグラデーションで
人はできているのだろうけど、

演技の人は、
早くツルツルと
ただただまるい美へと向かい、

表現の人は、
時間をかけて自分らしい歪さの美を留めるという
特徴をもつ。

(選ばない、選ぶ意識もない人はさておき、)
どちらの美を選ぶか。
というより、どっちなら自分は選べるのか。

そして、その、自分の選んでない方を認められず、
下に見てないか?
上にいると思って何か言動とることは、
卑しいよ、と、

あの金スマの番組で、寂聴さんは、
ズバズバとした物言いで青木さんをさとしながら、
研さんに向けて仰っていた。

そのことが個人的に1番あの番組で印象に残っています。
(はにここ)


<脳内制限>

有名店に行って 良くなかったという人がいる。
情報の方が先行していると言うのでしょうか?
本当は美味しいのに 美味しいと感じない不幸。

それと 演技は似てる気もします。
心からくる 表現ではなく。計算された演技。

もしかしたら、 その感じる所に
脳内で制限をつけてしまうと
それ以上の高見に行けない
価値を落としてしまうのかも知れません。
(空まめ)


<グッとくる何か>

ソチ五輪での、
上村愛子選手の姿に、「表現」を感じました。

「点数は点数。また4番だった。
 メダルは取れなかったが、
 攻めて滑りたいという思いで
 3本全部滑れたので清々しい。」
 自信を持ってスタートに立って、
 目の前のコースで
 最大のパフォーマンスで滑るということが
 私の理想だったが、
 今日はそれがたくさんできたので嬉しい。」
 
このソチオリンピックでの彼女のコメントを聞いたとき、

「表現したい場で、表現したいことが、
 表現できたんだなぁ」

と感じました。

インタビューの途中で、上村さんは何度も
「なんだろう」という言葉を発していました。

それくらい、その瞬間の自分の
「清々しさ」がどこから来ているのか
分からず、戸惑っているように、僕には見えました。

決勝レースでの彼女の滑り。
その滑りの映像を見たとき、何か分からないけど、
何かグッとくるものを感じました。

「これが今の私の滑りだ」と
主張しているかのようでした。

「一体どうすれば
 オリンピックの表彰台に乗れるのかが‥ナゾです‥」
前回のバンクーバーで上村さんはこうコメントしました。

恐らく、「どうすれば表彰台に上がれるのか?」と
考えながら滑ることは彼女にとって「演技」。

「全力の自分をコースに置いてくる」気持ちで
滑ることが、
上村さんにとっての「表現」だったのだと思います。

「全力で滑れたことで点数見ずに泣いてました」

僕は、出来る限り「表現」する方を選びたい、です。
(ひげおやじ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2014-02-19-WED
YAMADA
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