YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson668
   アートのチカラ2.読者メール


アートについて書いた前回、
読者はどう感じ、何を考えた?

きょうは読者メールを紹介しよう!


<感覚の扉をひらく>

私は美術家です。
自分の作品を作ったり、
子供向けのワークショップのプログラムを考えたり、
子供たちと一緒に作品を考えたり作ったりしています。

作品は見る人にとって
「普段つかっていない感覚の扉を開く」
「いつも見ているモノを別の方向から見据える」
事になればいいな、と思って制作しています。
先週のコラムは大変励まされるモノでした。

教室やワークショップはともかくとして、
作品を作って発表していても、見る人の思いが
なかなか作っている側には直接届いてこないことが
多いのです。

続けていて「こんな事何でやってんのかなぁ。」と
思ったりもします。
作っている人(作家という言い方をしますが)は
誰しも一度は考えることです。

「美術」って何か役にたっているんだろうか?

自信のなさからそんなことも
頭をかすめることもあります。
三年前、たまたま私は機会を得て、
ワークショップ作品を発表しました。
タイトルは

「美術って何の役に立つんですか?」

作品の内容は
五感を研ぎ澄ましメモ程度に絵を描く、
というモノでした。
何もワークショップのスタイルをとらなくても、
作品を飾るだけでもよかったのですが
より深く体感して欲しくてこの形にしました。

ズーニーさんが体験したように、美術は
見るだけでも「考えたり、感じたり」出来ます。
でも自分の手を動かす、
五感を使って感じることに集中する、ことでもっと
「自分の生活に役に立っている」ところまで
感じてもらえるのではないだろうか。

「役に立つ」というと、
「便利で暮らしが楽になるもの」
「それがはっきり目に見えるモノ」
と言うとらえ方をされているのではないでしょうか。
実際、自分が考えたり、
手を動かして手間をかけたりしなくてもいいように

どんどん世の中が「親切」で「楽」に
「便利」になっています。
(もちろん体が不自由でそれが必要な人はいます)

ところがこの「便利」さは子供からも大人からも
様々な刺激と体験を奪ってしまう。
考えなくても、もう準備が出来ている。
「考えさせない」「感じさせない」ことは
身体の虐待のように恐ろしい。

考えないこと、感じないことで荒廃していく精神。

私見ですが、
美術は「心を育成するのに不可欠な要素」だと思います。
「美術」に限らず「音楽」「文学」など
「アート」でくくられているモノすべてが。
実際、虐待などで愛情や教育を受けられず
心がやせていくと
体も発達が遅い、と聞いたことがあります。

ズーニーさんの
「カーン! ととてつもないはるか彼方の距離から、
 そんな角度があるのかと予想さえしなかった方向から、
 自分のいる狭い世界の壁をぶち抜く強さで
 パワーを放つ。」
「アートは、はるかその「外」、「先」からくる。」
という一文は、

「心をやせさせないための栄養(作品)を作る」
「普段つかっていない感覚の扉を開く」
普段自分が考えていたことと
合致したところが多かったです。

ズーニーさんやご家族が優れた美術作品に触れることで
何かしらの生活のお役に立っている。
自分の作品を見てもらったわけでもないのに
嬉しくなりました。

美術作品は考えたり感じたりしないと
作ることが出来ません。
同時に見る人がいなければ完成はしない。

美術に関わる一人としてそれを実感できました。
ありがとうございます。
作品やワークショップのプログラムを
作っていてよかった。

これからも作り続けます。
(Momo)


<一度規制の枠をとっぱらって>

私は年齢は山田さんより上です。
「オーヴァー50」は親の介護のことや
自分の先行きのこと。
考えると重いです。

これから職場の環境が変わる2年後をどうするのか。

勢いで先々のことを色々考えたのですが、
上司に相談すると、
「それではなくて、これはどうか」と。
正直、それからは仕事が手につかなくて、
途方に暮れた状態になりました。

で、「アート」です。

ちょうど、「なんか既製の枠からはみ出して、どうよ!」
というものに触れた方がいいのかも。
そう考えていました。

先週の話は、
私にとっては「きれいな水」みたいなお話、
考えるのでなくて、エネルギーや気配や、
もっと大きなものに触れた感慨が表現されていて、
読んでいても気持ちよかった。

まずは、近場の美術館の
常設展示でも見に行こうかと思いました。
(いとう)


<質量と熱量>

凝り固まった左脳が支配している、
論理、文章、常識でがちがちになった心。
そこを芸術という音や視覚でほどいて解放して、
圧倒して、右脳を活性化して、
ぽかーんと理屈がからっぽになると、
自己治癒や自己活性するのではないか。
(ひとそれぞれ)


<これしかないという線>

芸術系列の高校、大学に進み、
でも全く関係ない仕事をしています。

幼少の頃より芸術に親しみ、
なんていうより、ただただ自分の世界に入り込み、
ただただ描くことに没頭していました。

線を描くにしても、なんにしても、
これしかないっていうのがあって、
それは上手いとか下手とかでなく、それしかない、
という感じなのです。

自分の湧き上がる気持ちでも、
外からの影響であっても、
自分が描いているのに自分がなくなる。

そういう線はもう、それでいい、という感じです。

自分の意図とか、上手に、
なんて思ったらすぐにばれる。

そういう「超えたもの」がアートの力なのかな、
と思いました。
(リョーコ)



「考えさせない・感じさせないことは
 身体の虐待のように恐ろしい」
というMomoさんの言葉がずっしりと響き、

「直島」に行ったとき、
ちょっとおもしろいガイドをしてもらったことを
思い出した。

アートに不慣れな人間が、
いきなり作品に向かうのはハードルが高い。

「解説なんかいらない、五感を研ぎ澄ませて
 むき身でアートに向き合え! 感じろ!」
という考えは、私自身とても好きだし、理想だ。

でも現実、なかなかそうもいかない。

その日、その美術館でも、
作品の大半が「石」であるため、鈍感な私は、
「感じる」どころか、エントランスにある作品にさえ
気づかず通り過ぎてしまっていた。

こんな見せ甲斐のない素人を相手に、
学芸員の人たちも、
「何を伝えるか、何は伝えないでおくか」
悩むと思う。

アートに親しんでもらうために「説明」をすれば、
私のようなアートに不慣れな素人は、
その説明の見方しかできなくなる。

かといって何も説明しなければ、
作品と出逢うことさえできず、
文字どおり、「通り過ぎて」しまうかもしれない。

その日のガイドは、一味ちがっていた。

「この作品、どこが正面だと思いますか?」

学芸員のほうが、
お客さんに質問を投げかける。

私とあと2組、計3組の客がいて、
めいめいに思った答えを話してみる。

私の番が来た。

正面って言われても、
なにしろ、巨大な「石」と「鉄板」が、
青天井の中庭に、ドドーン!と置いてあるだけ。

それでも無心に360度ぐるりまわってみると、
自分で「ここだ!」と感じた角度があった。

嬉しくて、さっそく、
「ここです! 私はここが正面だと思います!!」

と答えると学芸員さんは、

「どうしてそう思います?」

とたずねる。
その角度が来たとき、私には初めて
巨大な「石」と「鉄板」が話しているように感じたのだ。
他の角度からは「石」と「鉄板」の
意志の疎通が感じられない。

3組のお客は、めいめいに感じたことを話していき、
みんな答えは違っていた。
学芸員さんは、ひとつひとつを傾聴し、そして、

「この作品には“合図”というタイトルが
 ついています。」

答えや見方は言わず、もともと答えなんかないのだが、
客の話を尊重したうえで、
控えめに、作品の背景や、作家情報を
絶妙なタイミングで示してくれる。

私はなんだか、心がはずんできて、
もっともっと、学芸員さんに感じたことを
話したくなった。

別の部屋で、こんどは屋内に、
またも巨大な「石」と「鉄板」が置かれているのだが、
青天井の下のものとは、
ガラッと表情がちがっていた。
こんどは私のほうから学芸員さんに話を聞いてもらった。

“こんどは「石」と「鉄板」がぜんぜん話していません。
 はじめは両方とも死んだのかと思いました。
 でも、よくよく見るとそうじゃない。
 未来にまた、「石」と「鉄板」は話しをする、
 そういう予感があります!”

学芸員さんは、どんなへんなことを言っても
まっすぐ目を見て、興味深げに聞いてくれる。そして、

「この作品は“沈黙”というタイトルがついています。」
と。

それは「ギャラリートーク」というガイド方法で、
学芸員が解説をするのではなく、
お客さんと「会話」をしようという趣旨の案内だった。

45分の学芸員さんや他のお客さんとの会話の後、
「石」と「鉄板」を見ると、
もう、最初作品の前を気づかず通り過ぎたときと、
ぜんぜん見え方がちがう。

「石」と「鉄板」の精神が自分に語りかけてくる。

私は、巨大な「石」と「鉄板」のその後を
知りたくてたまらなくなった。

「感じた想いを外に出す行為が、考えることだ。」

以前、読者の学校の先生が言った。さらに、
「考えることをしなければ、
 感じた想いは外に出ることをせず、ただ腐って
 不快として溜まっていくだけだ」と。

私は、大抵は一人で美術館に行くので、
いつも言葉がたまっていた。

芸術に造詣の深い学芸員さんから見れば、
私の話は滑稽だったり、浅薄だったり、
「それはちがう」と明らかなハズレも多々あったと思う。
それでも、一瞬も嫌な顔をせず、馬鹿にせず、
体ごと耳にして傾聴してくださった。
感じた想いを引き出してくださった。
あの学芸員さんに、心から感謝だ。

この日は爽快な、なんか駆け出したい想いで
美術館を出た。

もちろん、アートと言っても、モノにより
状況により、アプローチの方法はまるで違うのだけれど。

アートがなかなか自分に語りかけてこないなら、
まずは、感じたことを外に出す、ことから
始めてみようと思う。

最後に読者のこのメールを紹介して
きょうは終わりたい。

<アートのチカラ>

先週のコラム読ませて頂いて、
そのチカラがどんなものか、
それは触れた人にしか知りえないことでしょうが、
そのチカラを信じる者にとっては、
とても有難い言葉です。

人間の限りない想像力は、
見えない世界も見ようとし、
宇宙の果てともつながることも出来れば、
過去へも未来へも縦横に翼を広げ、
飛んでいけたりします。
人間の深い心の底へも、
言葉を持たない動物や生物たちとも、通じ合い繋がれる。
無機物な石ころや空の雲とでも、話が出来る。

創造し作り出すカタチは、その一端のようにも思う。
そして、それを造り出す時の流れは、
日常の小刻みな時間とは違う、悠久の時。

人に理解されようが、されまいが、
単なる自己満足かもしれないが、
カタチのないものをカタチにすること、
カタチを与えることは喜びでしかない。

一方、社会の中でアーティストとして生きていくことが
如何に大変なことか、
その葛藤もまた、無視することの出来ない現実です。

僕は、アーティストなどと名乗れる立場では
ありませんが、仕事の傍ら、
創作活動をしている身として、何か書きたくなって
創作の喜びについてキーを叩きました。
(iwata)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2014-01-15-WED
YAMADA
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