YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson663
     意志が産まれるとき


芸術系の大学に
就活の表現サポートに行ったときのこと、

さすが芸術だけあって、
学生たちの志望する進路も、

アート・プロデューサー、
ゲームのキャラクター・デザイナー、
写真家、‥‥などなど

デザイン、アートに特化した職業ばかりが
ずらーっと、次々に発表された。

当然と言えば、とうぜんだ。
学生たちは、そのために、
わざわざ努力して、厳しい倍率をくぐって
芸術系に来ているのだから。

しかし、その中にたった1人、

まったく違う進路を発表した女子学生がいた。

彼女は進路について、
志望を洗い出し、絞り込み、考え、
文章のアウトラインをつくって、
小グループに発表するまで、
ずっとジュエリー・デザイナーになりたいと
言っていた。

だが、いよいよ最後の最後、
実際に、「文章を書く」段になって、
せき止めようなく、湧きあがってくるものがあった。

「ジュエリー・デザイナーになりたいと、
 グループの人に発表してみて、
 やっとわかった。

 わかったところで、
 どうしたらいいかわからないし、
 自分がどうするかもわからないのだけど、

 いま、はっきりと気づいた。
 自分の根に、どうしようもなく
 動かしがたい、やりたいことがある。

 私は、看護師になりたい。」

彼女は少し泣いておられた。

しーんと、その場にいた学生たちも、
キャリアセンターの職員も、聞き入っていた。
やがて「じーん」になり、共鳴、共感、
彼女に大きな拍手が注がれた。

「意志が産まれるとき、なぜどこか切ないのだろう?」

私は「言葉の産婆」として、
人が、自分の意志に気づく瞬間、
腹の中から言葉を産みあげるかのように、
初めて人前で表現する瞬間に立ち会ってきた。

本人さえも、それまで意識しなかった
やりたいことに、気づいて、表現するとき、
こちらまで感動し、嬉しいのだけど、
一抹の、哀しさ・切なさが混じっているのを感じ取る。

ほんとうの助産師として、赤ん坊の出産に
立ち会っている人はどうなのだろう。
産声の、喜ばしさの中に、
ほのかな「切なさ」は受け取らないのだろうか。

同じ時期、
私が、別の大学で担当していた女子学生が、
進路に悩んで、授業にくることができなくなっていた。

彼女は、看護師への道を歩んでいたのだけど、
途中から「アナウンサーになりたい」という意志が
芽生え、どうしてもその意志が消えず、
体調まで壊して休まざるをえなくなってしまった。

あの、芸術系を歩みながらも看護師になりたいと言った
女子学生の話をすると、
共鳴し、共感し、おおいに慰められたと言っていた。

看護師になりたいのに、
別の道を歩んできてしまったという人と、
看護師の道を歩んでいるのに、
他の道に行きたい人と、

それでも、深く共鳴できる。

同じ大学の同じ学部に通う学生も、
その意志はさまざまだ。

例えば薬学部。

薬剤師になりたくて薬学部に来たくて、
きびしい受験を突破して、
薬学部に来られたことを心から歓んでいる人がいる。

一方で、医学部に行きたくて、
浪人して再受験しても受からなくて、
薬学部に来る人もいる。

一方で、あこがれの薬学部に行きたくて、
薬によって人の健康に役立つ仕事につきたくて、
でも難度の問題から行けなくて、食品の学部に、
ある種の挫折感をもってやってきた学生もいた。

でも、いざ食品のことを学び始めたら
意外に面白くて、はまって、
学んでいるうちに、この学生は気づいた。

「そうか、薬でなくても、食品を通して
 人の健康に貢献していけるんだ!」

それからは、学業も、人間関係も
おどろくほど楽しくなり、充実してきた。

レッテルは、蓋をあけたら本当に関係ない。
そこに心が向くかどうか。

Aくんは、

医者になりたかった男子学生だ。

しかし、その夢は叶わず
薬学部に来た。

就活の進路表現のワークショップで、
あらためて薬学部という自分の立ち位置を見直したとき、
つきあげてくる原点があった。

「考え続けて気づいたのは、
 自分の根本に、人を救いたい、
 という想いがあることです。

 薬により人を救うことはできます。
 でも正直、僕はそこに魅力を感じることができません。

 もっと直接的に、自分のこの手で、
 自分が救われたように、人を救いたい。

 せっかくだからレールを外れようと思います。

 音楽家としてステージに立ち、
 人を救うことを目指したい。

 音楽を通して、人間の心の機微に触れ、
 気分を変え、勇気を与える音楽家を、
 自分の将来やりたい仕事にあげます!」

すでに、ミュージシャンとして
プロではないものの、
ライブの場数を踏んでいるAくんだけあって、
文章だけではない、声に、抑揚に、リズムに、
まるでライブを聞いているかのような説得力があり、

場にいるだれもが打たれた。

ともすれば、
学部の人の反感を買わないか、
「救う」という強い言葉が誤解されないか、
と躊躇しかねない表現だが、

そうした誤解さえ恐れないAくんの本気があった。

結果、同じ学部の学生たちも
誤解どころか、心から共鳴し、拍手を送っていた。

たとえ誤解されても、反感を買ったとしても、
Aくんはそれを書いただろう。

「覚悟をもった人間は、何かと決別せねばならない。」

芸術の大学にいる人が、看護師をめざすにも、
看護への道を歩んでいる人が、アナウンサーになるにも、
一度は医者を志した人間が、音楽の道を歩くにも、

覚悟したら、何かと決別しなければならない。

ともに学んできた学友や恩師と、
その瞬間から、進む道が違ってしまう。
それまでの自分の人生、
自分の想い、自分をとりまいてきた世界との決別。

この決別がなかなかできそうで、
できないものだからこそ、
人はくよくよと悩むし、私もくよくよと悩んだ。

先日、

ふいに、女子学生から声をかけられ、
見違えるような明るい表情に
最初は、しばらく誰なのかわからなかった。

進路に悩み、体調を崩して
授業を休んでいた女子学生だった。

彼女は、アナウンサーになるという意志のもとに、
学部を転向し、夢に向かって、もう歩み始めていた。

くよくよ悩んだ日は無駄ではない。

彼女の悩んで休んだ日々は、
覚悟を醸成するのに必要な日々だった。

「やりたいこと」を授かるとは、なかなか厳しいものだ。

自分の腹にあった意志が、言葉になって
産まれてきた!
そこまでだってけっこう大変なのに、
気づいたと思ったら、同時に何かと決別せねばならない。
別れの痛み。

だから、意志の産声は、
喜ばしく感動的で、それでいて、どこか切ない。

でも、そこに覚悟を持った人間は、
まるで「その人そのもの」、
ほんとうに生き生きするのだと、
学生たちに日々、教えられている。

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2013-12-04-WED
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