YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson655
「照れてる」の一言で済まされてきた私たちへ 2


人前で、自分の考えを、
照れずにちゃんと伝えることについて、
いま、若い人の意識が高まっていることを
教育現場で、ひしひしと感じる。

先日、東京、

社会人向けの表現力ワークショップで、
参加者のこんな発表が相次いだ。

話しはじめる前に、

「えー、緊張してます‥‥」

「頭真っ白になってしまって、
 なにを言っていいか忘れてしまったんですけど‥‥」

「まさか、みんなの前で発表することになろうとは、
 思ってもみなかったので‥‥」

しかたがないんだとは思う。
だけど、これは、つきつめていくと「言い訳」になる。

緊張してるから…、
頭が真っ白になったから‥‥、
やらされているから‥‥、

だからうまくできない、と。

話は、どの内容もとても、すばらしかった。

だからこそ、私は、もったいなくて
いてもたってもおれず、心で叫んでいた。

「よけいな前置き・言い訳を取って、
 いきなり本題にはいったら、
 それだけでも、この話は、倍、伝わる!」

「聞き手がもっとも集中し、
 話のゆくえを左右する、最初の一文で
 勇気を出したら、
 この5倍、10倍は伝わる!」

臆病は連鎖する。

一人が「あがってます」と言えば、
次の人も、次の人も、また次の人も、
話す前に、ひと言、何かよけいな言い訳をしてしまう。

私は、
「注意すべきか‥‥」
「いや、自発的に表現している最中に、
 講師から、教育的指導が入ったら、流れが萎縮する。
 内容がいいのだから、
 まず自由にやってもらうべきでは‥‥」

と葛藤し続けた。

また次の人も、
言い訳からはじめて、
その日の発表はすごく内容がよかっただけに
とうとう私の「もったいないメーター」の
限界が来てしまった。

そのとき、

次の発表者の女性が、流れを変えた。

彼女は、「あがってます」も、
「うまくいえないかも」も、
よけいな前置きをいっさいすることなく、
いきなり本題からズバッ!と切り出した!

「私は、自分に言い訳するのをやめようと思う。」

奇しくも、テーマは
「言い訳をやめる」ことだった。

彼女はごく最近、
自分に言い訳をしないと決めた。

その結果、お母さんと、
自分史上に残る、長い、激しい「ケンカ」となった。

あまりの激しさにお父さんが口を出せず、
妹さんを仲介に立てて、おそるおそる
彼女に様子をうかがってくるほどだった。

家族というのは、
あまり正面切って、話しあうことをしない。

見て見ぬふりをして、済ませてしまうことが多い。

「自分に言い訳をしない」と決めた彼女は、
お母さんにも直球で向き合っていった。

ケンカは終わった。

「いわゆる円満解決という着地ではなかったが、
 お互いが、お互いの思っていることを
 言えたし、知ることができたのがよかった。

 長い間、自分の中で見て見ぬふりをして
 済ませてきたことに、
 言い訳をせず、向かっていくのは、

 ほんとうに、つらく、苦しかった。
 でも、そこに一切の言い訳をせず、向かっていって、
 互いの考えを知ることができて、よかった」
と彼女は言った。

「いっさいの言い訳をしないということは、
 ひたすらそれを伸ばし続けること」

という彼女の言葉が一生忘れられそうにない。

「自分に言い訳をしない」

このたった一言をつかみとるまでに、
どれだけの葛藤、思考、勇気がいっただろうか。

全身から「本気」が漂っていた。

おそらくテクニックとか、展開方法とか、
ぜんぜんそういう外側からじゃなくて、
彼女は、よけいな前置きをしなかった。

彼女の「本気」が、
本気の表現が、
言い訳が入る余地を、弾き飛ばした!

東京のワークショップに
彼女は、宮城から参加した理由をこう言った。

「自分の想いをちゃんと言葉で伝えなきゃいけないから、
 このワークショップにこようと思った。

 宮城からでは、高い電車賃がいるから、とか
 翌日は朝から仕事だからとか、
 自分に言い訳しようと思えばいくらでもできる。

 でも私は、言い訳しないと決めた。

 だから、私は今日、ここに来た!」

一人の人間が、全身全霊をかけて、
「自分に言い訳をしない」と決め、実行している。

ただそれだけなのに、
ものすごく揺さぶられ、突き動かされた。

驚いたのは、それ以降の発表だ。

彼女の次の発表者も、
次も、そのまた次も、次も、
最後の、最後の1人まで、全員が、
よけいな前置きや言い訳を一切せず、
勇気を持って、本題を切り出したのだ!

講師はひと言も言っていない。
テクニックも、カタチも、一切教えずして、
全員の発表の切り出しが、グン! と届くようになった。

あげく、用意していた話がどこか上っ面だったからと、
その場で、より伝えたい想いを表現してみると、
「挑む」人まで現れた。

たった一人の勇気が、
臆病を断ち切り、
勇気の連鎖を巻き起こし、
新たな挑戦へと背中を押した。

結果、
「これが素人が原稿なくできるスピーチか」と疑うほどに、
胸を揺さぶる表現の続出となった。

先週の、
「恥ずかしがっている自分を見せるほうが、恥ずかしい」
と、的確な表現で、
学生全員の照れずに表現する意欲を引き出した
静岡の女子学生や、

この、宮城からやってきて、
勇気の旋風をおこし、
私たちの内気を吹き飛ばしていった女性、

表現下手だとずっと言われてきた日本人だけど、
表現の教育現場で、確実に、
新しい、強い、旋風が巻き起こっている。

最後に、照れ屋から脱却して踏み出した
読者たちのメールを紹介したい。


<周りの反応が変わった>

私も恥ずかしがり屋として
20年くらい生きてました。

その考えが変わったのが3年ほど前です。

大学で活発なサークルに入り、
100人以上の人たちと協力しなければならない
状況になりました。

13人ほどの会議、
一人ずつ本音を言っていこうという流れで
自分の番が来た時、
自分でもびっくりするくらいたくさん話しました。
勢い余って涙も流しました。

その晩めちゃくちゃ恥ずかしくて、寝付けませんでした。

でもその後、周囲の態度が変わりました。

私にいろいろ言ってくれる人が増えました。
本音で言い合える分、衝突も増えました。
でも、その衝突だって前へ進むためのもの。

めんどくさがらずぶつかりあった同期とは
卒業した今も連絡を取りあってます。
(みそら)


<こっちは真剣に向き合っている>

先週の
「恥ずかしがっている自分を見せる方が
 よっぽど恥ずかしい」

スカッとする言葉でした!

言ってることよくわかります。

よく「照れ隠し」って言いますよね。

照れて何を隠してるんでしょう。

本当の自分を自分で認めたくないという
思いなのでしょうか?
自分の本性でしょうか?
甘えている自分でしょうか。

そういう人を見て感じるのは、
その人の甘えです。
自分で主張できないから、なんとなくわかってほしい、
スルーして突っ込まないでほしい、そんな感じです。

だから、日常的に、
たいしたことがないときには照れるのは、別にいいんです。
触れられたくないという意思表示に使ってもかまわない。

でも、ちょっと腹が立つのは、
こちらが真剣に向き合っているときです。

「お前、照れてる場合じゃないだろう」、
「みんな、あなたの意見を聞きたいと思っています」、
「ちゃんと自分の主張をしてください」、
って思ってしまいます。

その場に参加する責任を持ってない、
そんな気が私はしてしまいます。

でも、照れることで逃げてしまう気持ちは
わたしもとってもよくわかります。
と同時に、その時に、
自分の中に残るモヤモヤ感も知っています。

だからこそ、どんな時でも自分に向き合って、
表現できる自分でいられるといいな〜って思います。
(潔子)


<人前に立つのは、何のため?>

何のために人前に立つのか、
ということを頭に置けば、
恥ずかしがりという「迷い」は払拭できるのかな、
と思います。

小学校で10分の読み聞かせをするにあたり、
練習しなきゃいけないのに、自信のなさからしたくない。
行きたくない、逃げ出したい気持ちと闘いながら、登校。

ここまで来たら、なりきってやろう、
中途半端が一番恥ずかしい、と。
精一杯の10分間のあと、

「どうもありがとうございました」

と、深々と頭を下げていった女の子がいました。

たいていの子が行きたいはずもない学校の朝10分を、
本の御馳走を届ける時間にしたいと、
人前に立ちました。

練習をして、恥を忘れて伝えることに没頭する。
それしかできないけれど、
(人それぞれ)


<勇気を出すうち、夫も、子供も>

物心ついた時に、私が住んでいたのは、外国でした。
そこでは、夫婦も親子も「大好きだよ」と伝えあう仲が
日常的に繰り広げられていました。

何故ウチは違うのかな。
私は、愛されていないからなのでは、という不安や寂しさが
いつもありました。
7歳で帰国してから、
日本人は、そういう気持ちを伝えあわないということは
段々わかっていきました。

でも、私は、自分の夫にも、子供にも、
「大好きだよ」という気持ちを伝えるようにしています。
いつの間にか、夫も子供も、伝えあう仲になっています。
条件付きの「好きだよ」にならないように、
何でもない時にも言うようにしています。
そして、怒ってしまった時、叱った時、傷つけた時には、
特に大事だと思っています。
うまくできない、なんでなのよ、腹が立つ、
なんてことしたのよ
などと苛立ってぶつける感情は
=だから嫌い、というわけではない、
ということだからです。
負の感情をぶつけあっても、
好きな気持ちは変わらないよ、という大事なメッセージ。

親や兄弟が、そういうことを伝えあわないことを
「私たちは照れ屋だから」と言って、逃げます。

心からの「ありがとう」や「ごめんなさい」も
ほとんど交わされない関係。
それに対してずっと不安を持っていたことを話しても、
やっぱり「照れ屋だからねぇ。」で済まされます。

以心伝心だって時にはある。
全部を言わなくて良いこともある。
言葉のない時間、瞬間が大事なこともあります。
言葉にならない気持ちもあります。
でも、親に対して

「どうしてその一歩を踏み出してくれないの?」

という思いがあるので
「照れ屋だから」で片づけられると、寂しい。

わざわざ「好き」という気持ちを伝えるのは、
私だって、ちょっと恥ずかしい。
でも、時には
その気持ちを超えて、勇気を出して
「好きだよ」と伝えてほしいのです。

何となく伝わっていたとしても、
その気持ちを、言葉で表現することも
大事だと思っています。
(ペリーニョ)


<聞く人の求めに、声は聞こえてこない>

僕も照れで隠してきた気持ちがずっとありました。

今思えば、
伝えたいという気持ちより、
周囲にどのように思われているかという気持ちを
優先させてきたような気がします。

さらに、
恥ずかしいとか、照れの表現は、
結果として、相手と何も生まれなかったような気がします。

今は、仕事で人前に立つ機会が増え、
正直で、堂々とした言葉に対して、
恥ずかしいという気持ちでいた時より、
ずっと大きなものが帰ってきます。

僕の部署では、毎朝、朝礼があります。

直径2、3メートルの円形に、
10数人が集まって話すのですが、

僕が気になるのは、
隣の人の顔色をうかがっているような素振りが
見えてしまうことです。
これでいいかな?という確認の素振り。

僕らに伝えたいことがあるのだろうか?

聞く立場になってみると、
話す人間が伝えたいことは何だろうか?
という気持ちで立っている。
でも聞こえてこない。

これは、
恥ずかしいという言葉や、
慣れていないという言葉や、
照れくさいという言葉を使って、

聞き手が望むものを拒絶し、
何も生まれない状況を作ってしまっているようです。
(鈴木)

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2013-10-09-WED
YAMADA
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