YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson653  生きてるほうが面白い

ふしぎなことに、
このところ、ふるさとに帰るたび、
受けとるのは「希望」だ。

私たちは、
坂を下るように、
20代、30代、40代、50代‥‥と
老い衰えて、死ぬ、と思いがちだ。

でもそうじゃない。

「まきかえす。」

8月のお盆、
帰省して、父の「まきかえし」に驚いた。

6月下旬に、
2度目の脳梗塞の発作で入院した父は、

「できるほうが、動かんようになった‥‥」

と、失望をあらわにしていた。
1度目の発作で、
右手・右足にマヒがでた父は、
左手・左足の動くほうをたよりに、やってきた。

ところが、
2度目の発作で、なんと、
できるほうの左手・左足が動かなくなってしまった。

しゃべることにも障害が出た。

これまで不自由だったほうの右手が、
利き手として、やむなくがんばることになり、
その不自由な手で、
ゆっくりゆっくりオレンジを食べていた父が
いつまでも頭から離れなかった。

だから、8月のお盆に帰ったとき、
まさか、
すらすらとしゃべり、歩ける父に会えるとは!!!

命はまきかえす。

母は、
いちだんと疲れやすくなった。

たまに娘の私が帰っても、
話し続けると疲れるのだろう、
すぐに別室にいって、ひとり、
ごろり、横になることが多くなった。

ふつうに考えたら、
この体力では、家事も、父の世話も、むずかしい。

でも、母は、自分たちの食べる分は、
つつましやかに三食ごはんをつくり、
入院した父の世話もちゃんとやっていた。
細々と、でも、しっかりした生活があった。

母も、体力の下降をしのぐ「なにか」で
まきかえしている。

私自身、人生はじめて「老い」を感じたのは
39歳のとき、

朝、鏡を見ると、ガクンと老けたオバサンがいた。
「終わった…」という言葉が間髪入れず浮かんだ。

老いはまず肌に、
それから心にきた。

「お肌の曲がり角」とはよく言ったものだ。

33歳のとき、
頬にぽつんと、シミを見つけた。
それから下降一直線だった。

シミは、点から、諸島に、大陸になった。
右目の下に皺を見つけた。
若いときのニキビあとが陥没した。
毛穴がひらいた。

肌体力が20代のときより明らかに落ちた。

それまであたりまえにつけていた化粧品が合わなくなり、
高い化粧品に変えろと言われ、
しばらく良いが、すぐ合わなくなり、
どんどん高い化粧品に買い換えていき、
それでも合わなくなり、

無添加に変え、
無添加も合わなくなり、
30代後半、
なにをつけてもだめになった。

私は、30代のときがいちばん、
「自分はもう歳だ」と思って生きていた。

ところが、思いがけず、
40歳すぎて、初めてテレビに出ることになり、

出られたもんではないこの顔を、
なんとか見せられる状態にせねば、と追い込まれた。

肌について正しい知識を学ぶ
4回連続講座に通った。

化粧品は、CMやイメージでなく、
配合成分・配合率で判断して買うようになった。

化粧品という「ぬる物」だけでなく、
「ぬる物」「食べ物」「顔の筋トレ」
「マッサージなど血やリンパの循環」の
4方向から、総合的に考えるようになった。

独立してまだ収入の無い時期で、
コツコツ地道なホームケアを、
自力のみで続けていった。

美容師さんが、毎月カットにいくたびに、
「肌、きれいになってません?!」
「色、白くなってません?!」
と驚くようになった。

30代まで、
お世辞にも肌がきれいと言われたことが無かった私が、
40代中盤から、頻繁に言われるようになった。

思えば30代は、
20代と同じことしかしていなかった。

ほっといても上昇の一途をたどる20代のときと、
おんなじように、ろくな手入れもせず、
おんなじように、太陽は浴び放題、
おんなじように、食べ物には気をつかわず、

それでは自然が、死に向かって引っぱる引力に従って、
どんどん下降していくのは、あたりまえだ。

老化の引力で、下降する分、
40代の私は、知恵と努力と持久力、
何より「考える」ことによって、

まきかえした。

父母は、私より老いが顕著な分、
まきかえしも鮮やかだ。

昭和2年生まれの父は、

人生の大半を、
船員として、外国航路の海で過ごした。

定年退職して、家に戻ってきてからの父は、
ひと言で言って、「孤立」だ。

「カッパの丘上がり」

だと父は自分のことを言う。
ふるさとと言っても、大半を海に出て
ふるさとで生活してきていないのだから、
ネットワークがなく、することもなく、
大変、変わり者のため友だちもおらず、
一日中、えんえんとテレビを見るだけの生活だった。

老いの引力に沿って、
下降していかざるをえない日々。

そこへ脳梗塞。

「老い × 病気」で、
下降の角度はガクン!と急になった。

でも人間、急に下降した時こそ、まきかえしの時。

父の生活は一変した。

ケアマネージャーの、
20代の女性が、父をサポートしてくれるようになった。
リハビリ担当の青年や、医師や、
週3回のデイサービスで会う高齢者たちやスタッフや、
以前の暮らしからは考えられない、老若男女、
たくさんの外の人と、会話したり、交流するようになった。

病気をする前、社会から「孤立」していた父が、
病気をきっかけに、再び「社会」に入って行った。

「医療」と「福祉」と「家族」の連携、
その真ん中に父がいる。

それまで父は、自分の命は自分で支えていた。
それが今度は、プロや家族の「チーム」で
支えるようになった。

チームになることで、まきかえした。

母は、

若いころから、身近な人が病気になると、
それが親戚であろうと、ご近所であろうと、
あまり仲良くない人であろうと、
親身になってお世話をした。
そしてお世話がとてもうまい。

いま、母には、困ったときに「助けて」と言い合える、
すぐかけつけて親身になって動きあえる
人のネットワークがある。

母のまきかえしの秘訣は、このふるさとの
「人の絆」だ。

母は、がくんと下降するたびに、
支え合って、何度もまきかえしてきた。

こんなふうに、自然が、引力で、
死の方向に人間を引っぱっても、

人は、知恵や、努力や、出会いや、創意や、運や、
引力をしのぐ何かをつかんでまきかえす。

父のように、病気という
一見マイナスにみえるものでさえも、
まきかえしの機会になる。

40代でまきかえした私も、
いずれいまのやり方は通用しなくなるときがくる。

「肌の曲がり角」とか、「物忘れ」とかではすまない、
そのとき、ガクンと、私は老けるだろう。
どうしていいかわからずしばらく落ち込むことだろう。

でも、そのときこそ、まきかえし時、

経験と知恵を総動員したり、
新たな出会いつかんだり、人に支えられたり、
考えたり、創意を働かせたりして、
生活を変え、また、まきかえす。

その先に、またガクンと下降しても、
また、まきかえす。

人は、一直線には老い衰えない。

人は、生きてる限り、
いつからでも、何度でも、まきかえし、
螺旋を描いて上昇する。

下降のエネルギーに、
まきかえしのエネルギーが追い付かなくなったとき、
そのとき人は、自然に死を向かえるのだろう。

死を美化する向きもある、
たしかに潔い死もあるし、美しい死もある。
死の尊厳も認める。

でも、生きてるってことは、それだけで、
人生後半の人間にとって、
知恵か、創意か、人間関係か、はたまた運か、
引力に勝る「なにか」が働きあっているということだ。

だから私は思う。
やっぱり人は、死んでしまうより、

生きてるほうが面白い!

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2013-09-18-WED
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