YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson652
 「誰かのせいで何かができない」と言わない自立
   ー9.ネットの中の自分という他人


ネットの中の「死ね」というカキコミ、
そこにどんな心理が働いているのだろうか?

読者のサクさんは言う。


<もはや他人>

自立の話を読んで、
「自立や自分って一体なんなんだ」
と考え直したくなりました。

大学の情報社会の講義で、
先生が言っていたのですが、

人間は人と話すときに
無意識のうちに、その人との関係において、

「自分の顔」や
「自分の学歴」や
「自分の職業」などのうち、
重要なものから選び出して話をしていると
(うろ覚えでちょっと自信ないんですが)。

たとえば相手が、
ただ単に通りすがりに道を聞いてきた人なら、
その人と話す自分は、
学歴がないなどのコンプレックスを感じることは
ないでしょうし、

異性が相手だと、
自分の顔が気になるかもしれません。

相手と話す時に、
その相手との関係性から、
自分の何に重要度を置くかを
人は選び取っており、
そしてその行為自体がその人たるゆえんである
みたいな話を聞きました。さらに、

「ネットにおける書き込みや
 匿名での誹謗中傷というのは、

 書き込んでる人が、
 普段人と話すときにしている
 関係性から重要なものを引っ張り出す作業を
 していないので、

 普段会う時と明らかに発言が違う。
 よってもはや他人といってもいい」

という話を聞いて衝撃を受けました

そうかネットの「その人」は「その人ではない」
という考えもあるんだと思いました。

NHKで爆笑問題の太田さんが
ネットの匿名の書きこみに
「太田死ね」っていっぱい書き込まれたことに
いちいち傷ついていたという話をしていました。

「世間は俺にこんなに悪意を持っているんだ」
と落ち込んでしまったそうです。

でもそこで「死ね」じゃなくて
「殺す」って書き込んだ人がいて、
その時に太田さんは、

「“殺す”には、
 “自分が”っていうのが入ってる。

 そこから、

 そいつが悩んでるんだろうか? とか
 書き込んだ瞬間以外で
 ずっと俺のことを憎んでいる訳がないぞ、とか
 想像力が働いて、
 誹謗中傷への免疫ができた」

という話をしていました。

「死ね」には主体性がないと思います、

自我がないというか自分がほとんどない。
実際に会った時のその人は、書き込んだ人とは

同じ人 でも、たぶん違う人。

じゃあ自分っていったいなんだ?

と考えると、
「自分なりに、相手や環境との関係性において、
 何が重要なのかを考えていること」
だと思いました

「誰かのせいで何かができない」
といって考えることをやめている状態は

ネットで死ねと吐き捨てているようなもので
ほとんど自分じゃない、
自立できていない。

そこからどうするか、どう考えるのか
まで想像力を働かせて
初めて自立できるんだと思います

僕にとっての自立は
「自分なりにしっかり考えること」
だと思います。

考えないと
家族や友達や仕事場の人やネットの意見に
溶けてしまいそうで、
それは自分にも周りにも
あんまり良くないかなぁと思いました。

自分なりの考え方をしていくことで
初めて自立できるような気がします
(サク)



おもしろいなあ。これ、よくわかる。

たとえば、現実に、
1人の高校生が目の前にあらわれて
話をするとする。

わたしは、つい、しっかりしてしまうだろう。

「教育者としての自分」
が引き出されるからだ。

目の前に、作家の人があらわれて、
しばらく顔をあわせて話すとする。

わたしは、帰る道すがら、
自分が面白いことが言えたかどうか、
を気にしてしまうだろう。

「もの書き」としての自分が
引き出されていたからだ。

好みのタイプの男性と会って話すなら、
「女としての自分」が引き出されるだろう。

非人間的な行為、
たとえば極悪犯罪などをする人と、
実際に会って話さなければならないとしたら、

私は、「人としての自分」を見失うまいと、
心がけるだろう。

先生である自分、
書き手である自分、
女である自分、
人としての自分、

顔をあわす人ごとに、ちがう側面が出され、その人ごとに、

「育てるチカラ」を最重視したり、
「表現力」を重んじたり、
「かわいく見えるか」がいちばん重要なことだったり、
「倫理観」に重きをおいたり。

関係性によって、
何に重要度を置くかが違ってきて、
その選ぶ行為自体に、「自分」があるのだと、
サクさんは伝えてくれる。

匿名の誹謗中傷を書きこんでいるときの、その人は、
どんな自分もひきだされない。

だから、能力も、クリエイティビティも、
顔の美しさも、モラルも、自分に備わっていても、
重要度を選択できない。

自分であって、自分になれない。

でも、もし、その人が、
実際に私と顔を合わせて話すとしたら、

その人は私の姿や言動に触れて、
「あ、おばさんだ」と思うか、
「あ、文章の仕事をしてる人だ」と思うか、

とにかくその瞬間、
「おばさんに向かい合っている自分」とか、
「文章のことを教わりたいと思っていた自分」とか、
関係性から自分が引き出されて、

そこから、
「親切心」とか、「向学心」とか、
一番重要にすべきものを選んで話し出す。

もうそうなると「その人」は、
匿名で誹謗中傷を書いていた自分になれない人とは、
他人と言っていいほどちがう。

私自身は、誹謗中傷されたことは、
ほぼない。
自分の頭で考える読者が多いので、
嫌なカキコミをされたことさえ、
ごくわずかだ。

でも、あるにはあった。

私にいやな書き込みをした「その人」は、
文章から察するに、
たぶん、未成年の、女の子、らしかった。

読んだ私は、いい気はしなかった、
が、傷つきはしなかった。

というのも、傷つく一歩手前で、
強烈な違和感が走ったからだ。

「なぜその人は、私のことを
 “ズーニー”と呼ぶのだろう?」

私のことを文章に書くとき、ほとんどの人が、
「山田ズーニー」と
フルネームで呼び捨てにするか、
「ズーニーさん」と
下の名前に“さん”をつけるかだ。

「バカにされてるからだよ、
 “さん付け”する価値もないほど」
と言われるかもしれないが、

心根に軽蔑がある人の言葉はわかる。
「山田ズーニー先生」とせんせいをつけられたって、
バカにされた感がある。
文章を仕事にしてきた私にはわかる。

軽蔑ではなく、嫌悪でもない、親しみとももちろん違う。

私の感じた違和感は何なのだろう?

もう一人の読者は言う。


<彼女が求めたもの>

大学時代からの大親友は、
リストカットを繰り返し、不眠に悩み、
根本は親子関係に悩み、
もし自殺したらこれが理由だと、
親への恨みを綴ったメールを送ってきました。

その親子関係とは全く変わったものではないのです。

サラリーマンの父に、専業主婦の母。

少し人生に対してこだわりがある昭和らしい父に、
優しく主人と子供達のことを第一に考える母なのですが、

彼女は自分の中にある親の希望に
沿って生きなければと、ずっと苦しんでいたのです。
親の敷いたレールから外れられないと。

でも、私から見れば、
彼女は高校時代から茶髪で、
行きたい大学に行かせて貰い、
まともな就職もせず、
やりたい放題なのですが。

このコラムで、自立の記事を読んではっとしました。

やっと分かりました。

彼女はもっと親に甘えたかったか、
誉めて貰いたかったか、

大学に入ってちゃんと目標や夢に向かって
努力している学生や、
自分より本当の意味で自立している学生を
目の当たりにして、
挫折した、それを親の問題にすり替えた、か。

そういうことだったのでしょう。
(a)



ついさいきんのこと、

NHKをつけると、
お母さんらしき人が、
小学生くらいの自分の娘に、
勉強を教えていた。

ところが、娘は、
いっこうに集中しない。

そこで専門家のアドバイス。

「お母さん」を、
「先生」に変身させるのだと。

お母さんに、勉強を教える時間だけ、あえて、
フチの太いメガネをかけさせ、
「です、ます調」で他人行儀に話させる。

すると、効果てきめん!

娘は初めて、時間いっぱい
集中して勉強した。

どうして、お母さんが、お母さんのままでは、
わが子に勉強が教えられないのかというと、

「心の距離の近さ」だ。

距離が近いから、こどもは、甘えて、
文句をいったり、ワガママがでたり、怠けたりする。

そこで意図的に「距離を離す」。

私は、テレビの途中、
娘さんが、いっこうに勉強に集中せず、
お母さんに、甘えたり、
わがままを言ったりしている姿をみていて

「あれ、これ、どっかでみた」

「何かに似ている」

とザワザワもぞもぞ、記憶が揺さぶられた。
そして、「心の距離の近さ」という言葉が出たとたん、
気づいた。

私を“ズーニー”と呼んでカキコミをした
「その人」と似ている!

次の瞬間、わかった。

「その人は、ズーニーに、甘えたがっていたのだ」

電気が走ったような気がした。

それは、あまりにも意外な
当然、その人は無自覚だろうし、
書き手の本意を読みとるのが仕事の私にも、
よぎりもしなかった心根だった。

どうして甘えが起きたかというと、

「その人にとって“ズーニー”は、
 心の距離が近い、からだ」

でも、その遠近感にはズレがある。

わたしにとって、その人は、
距離ある他人だ。

私の感じた違和感の正体は、
その人と、私との、「距離感のねじれ」だった。

文章の奥に「甘え」を読み取ったとき、
太田光さんではないが、私も、
すーっと霧が晴れるのを感じた。

「恐れるに足りない。」

もう、その人のカキコミを思い出しても、
傷つかないし、別の感情も、何もわかない、

「無」だ。

顔をあわせていないからといって、
読み手との関係性を考えない、
それゆえ自分の中から引きだされるもののない、
自分になれない、

その状態は「白紙」ではない。

そこに、ゆがんだ関係性のとらえかたや、
ねじれた人との距離感が入り込む。

ならば人と会ってるように書いてはどうだろう?

伝わる文章のことを、よく、
「これを書いた、この人に会ってみたい」
などと言ってほめる。

逆に言えば、

伝わる文章を書く人は、
読み手とじかに顔を合わせてはいなくても、
じかに顔をあわせているように、
いやそれ以上に、リアルに読み手を感じ、
関係性をとらえられる人だ。

文章を書くとき、
それがネットであっても、就活の自己PRでも、
目の前に、具体的な一人の人間がいて、
その人と実際に顔をあわせて話している、ようなつもりで、
書いてはどうだろうか。

あるいは、自分が文章を書いているとき、
かたわらで、大好きな人が
じっと見ていると考えてはどうか。

あるいは、逆転して、

文章に書こうとしていることを、いったん、
生の人間に対して話してみて、
その反応を浴びてから書いてみてもいい。

自分と、自分の言葉を受け取る1人の人間との
関係を考えることから、
引き出される重要なもの。

私自身は、相手によって、
重要なものはかわるけれど、

その通奏低音に、いつも「相手が育つ」という
願いがあるように思う。

さいごに自立に向かう読者メールを紹介して
今日は終わろう。


<伝えたいことを、伝わるように>

私は、大学生時代からひとり暮らしし、
授業料も生活費も自分で稼いで卒業しました。

色々とつらいこともありましたが、
一言で言うと、楽しかったんです。

だけど、自活して来たことを、
就職試験の面談や、就職後に同僚に話すと、
皆、妙な顔をして、
「それは大変でしたね」
という反応しか返ってこない。
あれ、こんなこと話されたら迷惑なのかな?

私はいつしか、他人に、学生時代のことを
まったく話さなくなりました。

れんさんの文を読んで気づきました。

私は「創造するって楽しいよ!」
ということを言いたかった。

それだけが言いたかったのに、
うまく言えていなかったことに
気づきました。

今考えると、切り出し方も下手だった。
不幸自慢に聞こえるような切り出し方をしていて、
聴き手をひきつけるような冒頭部分を
提供していなかった。

私は困難に遭ったとき、
こうやって創造しました、
創造することは楽しいです、

それを、まわりの人にも広げていきたい。

私は今、再就職活動中です。

私が今まで創造してきたこと、
それを表現することに挑戦します。
(Y.K)


<わたしにとって自立とは>

一日中考えて、答えが出ました。
「自分がいま何を感じ」
「どうしたいか」
に忠実になれること。

それを邪魔する感情
(さぼりたいとか、恥ずかしいとか)や、
他人や、ルールや、そのほか色々なものに惑わされず、
あきらめない姿勢で、すなおにきちんとやること。

もっと大事なのは、
「自分がいま何を感じているのか」
これを正しく受信することで、
この部分に、親の考えとかそのほかの色々が混ざっている!
ということに、気がつくこと。

気がついてしまえば、許せるようになると思うのです。

距離がうまくとれるようになれば、
親のいうことや世の中のいうことにも
応じられたりするのではないかと。
(きんときまめ)


<目の前の景色をゆがめず見る>

例えば、きれいな青空が広がっていて。
沢山嫌なことがあって、悲しいときでも、
気分がだいなしで、灰色な気持ちのときでも、
きれいな空をみたら「そらが、きれい」
と言える素直さがないとじぶんがだめになる。

それは素直でいるために、空を見上げないで、
感じず、伝えようとしない、
そうやって傷つかないのとは違う。
灰色な気持ちだからといって、
目の前の景色をゆがめて、
灰色に見ることとも違う。
(今井たら)


<依存力>

親御さんなら、子供の行動に、
「自分でやったほうが早い」と思ったことがあるでしょう。

上司なら、部下に振った仕事が
思い通りにならないことにイラつき、
「どうしたら伝わるんだろう」と
困惑されることがあるでしょう。

自分でやることは、
実は自分の力に「依存」しているんだと思います。
(ひと、それぞれ)


<自分と相手の間の波に乗る>

私は、お年寄りの介護の仕事に就いて10年めになります。
36歳男性のメールにあるような、
介護を拒否され、ヘルパーさん達が大変な思いをする状況も
よくわかります。
介護を拒否され、スムーズにケア出来ない方は
一番困難です。

けれど、ヘルパーさん含む介護職の仕事は、
本来、介護職側のペースでするものではないのです。
相手にどれだけ上手く合わせられるか、
相手のペースや気持ちを汲んで
どれだけ良い結果に出来るか。

まるで、サーフィンのようだと感じています。

相手の波をよみ、
ここぞというタイミングで手を差し伸ばす。

上手く波に乗れた時は気持ちが通い合い、
良い結果があり、
波に乗り損ねた時はイヤな思いをしたりされたり
苦い結果となります。

介護職としてのプロフェッショナルさは、
波乗りのウマさにあると思うのです。

介護職側のペースだけで仕事をしているうちは、
まだまだ自己満足だけの未熟な状態だと思います。

上手く周りに依存して、
訳のわからない魅力で周りを虜にしている。
そんなおじいさん、おばあさんは人生の強者感があります。
「自立」なんて考えてなさそうですが、
立派に依存しながらその人らしさを発揮し輝いています。
(33歳 マス)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2013-09-11-WED
YAMADA
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