YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson631 傷つけないでと言う前に

先日、
地雷を踏まれ、ツラかった。

でも、顔で笑って、心で泣いて、
グッと我慢した。

だから相手は気づかずに、
傷跡を、ずかずか、ぐいぐい、
何度も何度も、しつこく、踏み続ける。

とうとう我慢の限界が切れ、

「私がどんなに傷ついているか、
 なぜ傷ついたか、
 あなたは私にどんなひどいことをしたか、
 だから今後はこういうことはしないで、
 あれはやめて、これはやめて‥‥」
とまくしたてようとした矢先、
心の中で、こんな声がした。

「その方向、なんか、つまんなくない?」

意外な声に、
感情は高ぶっているにもかかわらず、
私は一瞬で押し黙った。
次の瞬間、こんな声がした。

「これくらいの傷なら、
 自分でのりこえられるんじゃない?」

地雷を踏まれたとき、

傷ついた、傷つけられたと、
自分の傷を披露したり、

相手を責めたり、

相手に、今後一切、
あれを言うな、これをするな、と
禁止をつくる解決法、

これって、どうなんだろう?

良いか悪いかでいうと、悪くない。

嫌なことは嫌だと、相手にはっきり言う。
言えない人だって多いのだから、
これはまっとうだ。

でも、面白いか面白くないか、
自由か自由でないか、
で考えると、どうだろう?

「ここに傷があるから踏むな」と、
今後、相手やまわりに禁止をつくる。

どこまでも他力本願、
解決できるかどうかは相手にかかっている。

相手は、言葉や行動にタブーをつくられ、
つまり自由が制限され、窮屈だ。

それに、また新たな地雷が出てきたらどうする?

また、新たな禁止をつくるつもり?

まわりの人はどんどん、
言ってはいけないこと、やってはいけない行為が
増えていく。

自分といると窮屈を感じ、イキイキできない。
離れていく人も出てくるかもしれない。

それに自分も、
まわりの腫れ物に触るような空気に囲まれて、
心地いいか、というと、

そんなの自由じゃないし、面白くもない。

「怒りの反対は創造。」

頭だけで理解していたこのことが、
最近腑に落ちることがあった。
以前、このコラムで、シリーズで
読者と考え続けてきたことだ。

ある出版物をつくっていたときのこと。

出版物は、
編集する人、中身をつくる人、
校正する人、デザインする人‥‥、
予想以上にたくさんの人の仕事のリレーで
成り立っている。

きついスケジュールの中、
一人一人が力を発揮し、バトンをつなぎ、
やっとのことでゴールというときに、
ある人にバトンを放り出されてしまった。

以前の私なら、無責任な! と怒るだろう。

ところが、どうしてかそのときは、
まったく、全然、1ミリも腹が立たなかった。

不謹慎かもしれないが、
ワクワクさえしている自分がいた。

困ったことに、自分の中に、
不測な事態とか、もうだめだ、という困難に見まわれた時、
生き生きしてくる分子がいる。

自分の中の、この異分子は、
窮地をのり超えてどう創っていくかが面白いんだろう。
なるべくコイツがしゃしゃりでないよう
順調に行った方がいいのだが、
思えば会社に勤めていたころからずっと、
私は窮地で、この異分子に助けられてきた。

残されたのは、あと24時間程度。

その間、編集者さんと考え、動き、
協力者を求め、知恵を絞り、
なんと出版物は驚くべきスピードで、
ピンチはチャンスの言葉どおり、
以前考えていたものより、ずっと会心に
創れてしまったのだ!

もうだめだ、というところで、

「どんなことをしてでもやる!」

と思える、それくらい
やりたいこと、創りたいものがあるというのは、
ほんとに強いと思った。

「怒るか? 創るか?」

崖っぷちで「創る」を選んだら、
そこに気力も知力も体力も全エネルギーを
結集させなければ、とてもではないが創りあげられない。
まるで火事場にいるようなものだ。

だから、怒りなんて1ミリも湧かないし、湧く暇もない。

この経験に照らしたとき、
傷ついたと怒っていた私は、自分でも、

「余裕か?!」

とツッコミたくなる。なんて甘えていたんだろう。
なぜつまらなく思えたか、よーくわかる。

「創る」を選ばないから、「怒る」のだ。

創ろうとさえしていないんだもの、
それは自分で生きててつまらないわ。

被害者ぶった座にいるのは、
けっこう何もしなくてよくて、ラクだ。
傷だ、傷だ、と言っていれば、
まわりが気を遣い、動いてくれる。

でもこの座にいる限り、何も、
創りはじめられないし、動きだせない。

「もっと創りたいものとかないの?」

と私は自分に問うてみる。

「相手とどんな関係をつくりたい?」

「地雷の件、もしも、のりこえられるなら。
 相手やまわりとどんな関係をつくっていきたい?」

「どんな面白いことしたい?」

「なんか、かけらでも、ビジョンとかないの?」

「そのために、なんか自分にできることとか、
 アイデアとか、動けることとか、ほんとにないの?」

そう考えると、
なんだか、全然そっちのほうが面白そうで、
傷さえ縮む想いがした。

傷はレントゲンとか客観的な測定器が
あるわけではない。
自分の考えようで大きく感じたり、小さく感じたりする。

自分からは何も動かないで、
「踏まないで」と人に頼り、
いつ踏まれるかとびくびくしている限り、
傷は一生自分に嫌な想いをもたらすもの、
それこそ地雷になる。でも、

「これくらいのサイズの傷なら自分でのりこえられる!」

と思ったとたん、
さっきまでうずいていたはずの傷が、
どんどん小さく、ハハハ! と笑えるくらいに
縮んでくるから不思議だ。

たとえ自分という畑からはやした
ぺんぺん草のようなものでも、
書くことを通して、コツコツと、
創る、創る、創る‥‥、を続けてきた果てに、
自分の中で何かがいま変わりつつある。

創るか? 怒るか?

土壇場でもう、本能が創るをつかんじゃってる、
というくらい、それくらい創る習性を、
これからも体に刻んでいきたい。

傷つけないで、
と相手に言う前に、
これからは自分にこう言って、
信じてみたい。

「これくらいの傷なら自分でのりこえられる!」

「自分にはできる!」

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2013-04-03-WED
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