YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson626
  現実はどうやって受けとめる?


「現実を受けとめる」、
というと、なにか
引き受ける感覚を持つ人が多い。
でも、

私にとって、「手放す感覚」だ。

握りしめている思いをスパーン! と手放す。
現実受けとめる度に、身軽になれる。

手放す時は、たしかにへこむ。けど、
へこんだ分は、もともと現実に幻想があった分。

へこむたびに等身大の自分に近づく。

たとえば、こんな場合。
前々回への読者メールだ。


<こわくて受け入れられない>

「嫌い」って思うことは、
自分に罰が当たるようでビクビクしてしまいます。

嫌われていることも辛く、
全否定されたように感じます。

とにかく対人における「嫌い」って感情は、
理屈ではあっていいと思うのですが、
なかなか納得できません。
(アオヒ)



わかる、わかる。
私もとくに、自分が嫌われているのでは、
と疑いはじめてから、受け入れるまでが大変だ。

えたいのしれない恐れがおしよせる。

なんか自分はまちがってるんじゃないか、
このままじゃ自分はだめなんじゃないか、

やたら自己否定が襲ってきたり、
やたら仕事や勉強や成長を頑張ると宣言してみたり、
以前の自分は、そっち方向、つまり、

「頑張って自分に身につけたり、伸ばしたり、
 大きくなることで現実を受けとめていける」

としていた。
いまも、ほっとくとそんな感じになってしまうので、
あえて、振り子を反対に振るような感じで、

「スパッ! と手放す」

とイメージしてみる。

たぶん、自分はなにか必死で握りしめている。
嫌われたくない思いとか、
認められたい思いとか、
自分はすべての人間に愛されるという幻想とか。

「ええいっ!」

と手放す、肩の荷をおろして軽くする感覚だ。
読者の2人は言う。


<「きらいからはじまる」を読んで>

自分は彼女のことが好きでした。
しかし、彼女には彼氏がいました。

結果的にはフラれたのですが、
しばらく付き合っているような曖昧な時期が続きました。

彼氏は他国にいるため、彼女も寂しかったのでしょう。

しかし、しばらくして、彼女は気づきました。
彼氏が大事なのだと。
彼女は彼氏への罪悪感に蝕まれていきました。

そして私は、彼女にとって“彼氏を裏切った証拠”
となってしまったのです。

関係を修復しようと話し合いをしました。

表面上は、お互い良い関係をつくるようにしよう、
ということで話はまとまりました。

ですが、彼女から出ている自分への拒絶は明らかでした。
もうそこに、前のように笑顔を向けてくれる彼女は
いませんでした。

何回か話をしました。
それでも、関係は良い方向に向かいませんでした。

“話し合えばわかるはず”
“誤解が解ければお互いわかりあえるはず”
だって、お互い楽しく過ごせた日々があるのだから。

そう思っていましたが、ズーニーさんの記事を読んで、
ハッとさせられました。

彼女は単に自分を嫌いになってしまったのだと。

何が原因というわけではなく、
いろんなことが積み重なって、こんがらがって、
ほどけなくなって。

“これが嫌だ”と言えるようなものは
たくさんの小さなゴタゴタに埋もれてしまい、
もう何が嫌なのかもわからない。

ただ、“嫌だ”という感情だけがそこには残った。

そして、もうひとつ気づいたことがあります。

自分も彼女が“嫌い”なんだと。

“好きだった人を嫌いだなんて思いたくない”
“どんなに悪態つかれても愛していたい”
そう思っていました。
だけど、そう思おうとしていただけなんです。

“そんな黒い自分は認めたくない”

とそう思っていただけなんです。
もうどんな話をしようと、
この黒い気持ちはどこにも行ってくれない。

消えてくれずに心に居座り続ける。

それはきっと、
自分も彼女にもう耐えられないからではないか。

悲しいですね、
好きだった人を結局こんなふうにしか思えなくなるなんて。
(KEN)


<努力では埋まらない距離>

私は、嫌われやすい嫌味を言われやすい、
面倒臭い仕事をしています。

仕事柄、相手からすれば鬱陶しい事を、
理路整然と当たり前に伝えなければなりません。

私は、強がってはいますが、
本当は弱くいつも周りばかりを気にしています。
正義感とかそんなので自分をごまかしましたが、ある時、

「どう頑張ろうと共有できないから、
 嫌われても仕方がない」

って思ったら、何だかスッキリしました。
と同時に、嫌われたくないんじゃなくて、

「相手を敬うなど最大限努力しても、
 埋まらない距離みたいなのは、あるんだな」

と思いました。
(さあこ)



自分はどんな問題でも解決できる。
自分はどんな人とでも仲良くできる。

というような幻想を、ここで「全能感」と呼ぶとしたら、

これを手放していく作業は、
自分が削りとられるようで痛い、プライドも傷つく。

でも上の2人の読者を見ると、

一度好きになった人に一生美しい気持ちでありたい自分、
努力すればどんな距離でも埋められる自分、を、
手放すことで、現実を受け入れていっている。

さあこさんにいたっては、
手放した後、不思議なスッキリ感が訪れている。
現実に対する幻想がとれ、
等身大の自分に触れた清々しさではないだろうか。

「嫌いな人は自分のコンプレックスをみせてくれる鏡」、
「嫌いな人との関わり合いにこそ成長がある」、
という側面は、私も、このコラムで何度も書いてきたので、
ここでは、そこに議論を戻さない。

たしかに、嫌いの理由を考え、克服することで、
自己を成長させる側面はある。
ぜひ、これからもやっていってほしい。

とくに若いうちは、自分の輪郭を知るためにも、
どんな人間でも好きになれるという野心をもって、
どんどん働きかけていくのもいい。

だが、すべての嫌いに必ず理由があり、
克服できないのは、自分の努力が足りないからだと
してしまうと、
それはそれで現実から乖離してしまうのではないだろうか。
読者の「人それぞれ」さんは言う。


<五感が嫌う>

人柄に関係なく、声、とか、容姿とか、
「私は苦手」ということってあります。
感覚の問題だから、理性で制御できないものだと思う。
相性というか。

直感的に振り分けている無意識を、非難できません。
子供じみた「嫌いなわけ」はこじつけで、
本当は感覚的に「NO」サインが出ているんだと思う。

ただ自分の嫌われたつらさも、
無意識に閉じ込めないでやりたい。

距離感や接近する頻度について、
相手と自分にギャップがあると、
そこにも嫌悪感が付きまとうのかな。

ウマの合う人もきっといる。
だから、心を閉じない。委縮しない。

嫌われている相手とも、淡々と付き合っていく。
相性が合わないのは、どちらが悪いのでもないのだから。
(人それぞれ)



嫌い嫌われると言う感覚の中には、
言葉にできないものもある。
あると受け入れたうえで、人道的にどうふるまっていくか?
これは、なかなか若いうちは難しい、
きわめて「おとな」の、
現実に即した行き方ではないかと私は思う。

たとえば、ここに、自分を嫌うひとりの人間がいるとして、
現実を受けとめるとは、どうすることだろう?

「そんなはずはない」と、

わかってくれるまで相手に働きかけるとか、
自分磨きが足りないからだと尻を叩いて磨きに走ったり、
自分を変えたり、直したり、
諦めないということが、とかく美談ともてはやされる。

でもそれは、行き過ぎれば、

「目の前のたったひとつの現実から目をそむける」

ことにならないだろうか。
ちょうど思春期の少年少女が、
嫌われたくないために言いたいことも言えない自分を、
自分で受けとめることができず、
そこから逃れるうまい言い訳として、

「ああ、いま言いたいことも言えない自分、
 これは本当の自分ではない。
 本当の自分はどこかにいる。」

という幻想を抱いて、やたら「自分探し」に走るように。

見なければいけない現実とは、
ただひとつ、これだけかもしれない。

「自分を嫌う人間もいる」

そのために、自分の全能感の一部を、ぱっと手放す、
ただそれだけで済むことなのかもしれない。

手放して、へこんで、等身大になって、身軽になったとき、
現実に足がついている、なんてことも
あるんじゃないだろうか。

そこで手放すか、獲得してのりこえるか?

正解があるわけではないし、線引きも難しい、
でも手放すことで見えてくる新鮮な現実があると私は思う。

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2013-02-27-WED
YAMADA
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