YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson624
  きらいからはじまる


「嫌われている」ということを、
私たちはなかなか認めようとしない。でも、

「単に私をキライなんだな」

という単純な事実を認めると、
案外サッパリ! 解放されるんじゃないだろうか?

嫌われた経験というと、駅の改札を思い出す。

その日、話があると言われ、
私はAと待ち合わせた。

先に来ていたAが、
私の姿を見つけたとたん、

さーっ、と全身に嫌悪を滲ませた。

一瞬で表情が曇り、
目も、顔色も、立ち方も、なにもかも、
「いやーっ!」という感情が噴き出していた。

私とAは、ある協同作業をせねばならず、
そのために何度も顔つき合わせて
ミーティングをしなければならなかった。

Aは腰が低く、ふだんおとなしかったが、
ただ、最初からいつも、どことなく辛そう、元気がない
というのが気になってはいた。

その日、Aは、もう会うのは嫌だ、
今後は、それぞれでやろうという。

あんなAを見たことがない。
全身に拒否感がみなぎっていた。

理由として、Aがあげた私の非は、
たしかによくないと認めるが、
ひとつひとつがあまりにもささいだった。
まるで小学生のケンカのよう、
だれにでもあるし、Aにもそういうところはある。

社会人の話し合いとも思えないと、
頭で冷静に考えながらも、

なぜかAの言葉は、
ひと言ひと言、鉛の弾をぶちこまれるように、
からだに痛く、ひどくこたえた。

その日以来、ぐるぐるぐると私は考えた。

自分が悪いのか?

あのとき、ああしていれば、こうしていれば、と
自分にダメ出しをしては、つらくなり、
つらくなればなるほど、

でもそれほどのことか?

そもそも途中でシゴトを放り出すとは、
Aはなんて無責任なんだ、
と腹が立ってくる。

じゃあAが悪いのか?

ならなぜ自分はこんなにダメージを受けているのか?

そこで、一回くるっ、と振り出しに戻り、
またぜんぜんわからなくなる。
いっこうに思考は進まない。

そんなある日、家に帰る道すがら、
ぐるぐるとAのことを考えていて、
玄関まできたとき、なぜか、ぱっとこの言葉が浮かんだ。

「単に嫌気がさしたんだ。そういうこと、私にもある。」

その瞬間、さーっと霧が晴れ、
すべてのことに1本、筋が通った気がした。

Aがなぜあんな態度をとったのか、
初めから、なぜ、いつもどことなく辛そうだったのか、
すーっと納得できる気がした。

Aは出逢った日から、ずっと
私のことがニガテ、いや、もっと、
「キライ」だったのだ。
それを押し殺して押し殺して、とうとう我慢の糸がキレた。

私が受けたダメージはなんだったのか?

あの鉛の弾をぶちこまれるような苦痛は、
生まれてはじめて、嫌いという感情を
モロに激しく、生身に、受けた痛みだった。

人は、なかなか「嫌われている」と認めたがらない。

「私を嫌いなんでしょ」と言う人ほど、
根で、「好いていてほしい」と切望している。

私も、あれほどの態度、言葉を受けながらも、
「相手のトラウマのせいじゃないか」
「誤解してるんじゃないか、ちゃんと私を知ってもらえば」
とまだ回避しようとして苦しんでいた。

でも、「私をキライなんだな」という
単純な事実を認めたとき、おとずれたのは、意外にも、

サッパリ! とした解放感だった。

それどころか、
「私だってキライな人間は、顔見るのもいやなのに、
 Aはシゴトのためとはいえ、顔つき合わせたり、
 いっしょにごはん食べたり、よく耐えてたな」

と、なにかAをねぎらうような気持ちさえわいてきた。

以前、読者の「アメ」さんは言った。


会社で叱られたとき
相手が正しいのに、
わだかまりが消えないことがありました。
いまもその相手とはわだかまりが消えませんが、

「要するに相手を嫌いなんだ」

と認めたときから、
無意識に相手を好きになろうとしていた義務から解放され、
逆に相手の有能さが
素直に腑に落ちるようになりました。
Lesson616より アメさんのメール)



これは逆の立場で、
自分自身が嫌われたときにも通じる。

「社会人は、好きの嫌いの、言ってはならない」
という暗黙のおきてがある。

あってはならない、と私たちはそこに
もっともらしい他のリクツをつけて正当化しようとする。

だが理由がわからない「キライ」もある。

正確に言うと、理由がひと言で言えるような
単純なものではなく、感覚的な微細なものから、
記憶のように根の深いものまで
複雑にからみあっているようなときだ。

たとえば、物心つくまえ、
凄くいやなことをされ、
おとなになって、その人も事件も忘れたが、
ただ記憶の底の無意識に、その人の顔だけは残っていて、
以降の人生、自覚なく、似た顔の人を嫌ってしまう。

もし、そんな嫌いだったら、
もし、そういうものがいくつも折り重なっていたら、
どうしようもない。
嫌われるほうにも、嫌うほうにも罪はない。

罪があるとすれば、そういう相手を、
攻撃したり、責めたり、排除したりすることだ。

自分にも何かを嫌う自由を、相手にも自分を嫌う自由を、
許してあげて、

「そのうえで、人道的にどう接していくか?」

が問題なんだと思う。

「私は、この人から嫌われているんだな」

と認めることは、暗いようだけど、
そこからサッパリ!
はじめられるコミュニケーションがある。

「なぜ私を呼んでくれない?」
「なぜ別な人と私とで態度が違う?」
と、余計な詮索をする必要がなくなる。

仕事の問題にすり替えたり、
相手の非を探したり、の徒労から解放される。

変節して好かれる自分にならねばという縛りから
解き放たれる。

「私だって、キライなものを食べるのでさえ辛いのに、
 相手は仕事とはいえ、
 よく嫌いな私とがんばって接しているな」
「キライと一言えば済むところを、
 相手もキライとは言えないよなあ、辛いよなあ」
と相手に共感すら生まれてくる。

「嫌われたなりに、通じ合える道はある!」

その道を探していこう、
と私は考える。

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2013-02-13-WED
YAMADA
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