YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson610
   素人さんの本気の文章は、プロをも凌駕する



「素人の本気に勝るものなし」

と、私は表現教育で、
なんども痛感させられてきた。

以前、大学のプレゼンテーションの授業で、
学生全員に2分スピーチをしてもらったとき、
聞いていた学生アシスタントが、感動して、

「この2分が、映画の2時間より重い」

と言った。
私もまったく同感だった。

「表現に不慣れな素人さんが、なぜ、
 ときにプロをも凌ぐ、揺さぶる表現をするのか?」

生徒さんが、
最初からどんづまって、
どうにもこうにも文章が書けなくなるとき、

たいてい「大きすぎる問い」を握っている。

たとえば「自己紹介」の文章を
800字で書く場合。

ゆきづまっている生徒さんに
ありがちなのは、このようなくだりだ。

「私という人間をひと言でいうと‥‥」

「本当の自分を隠していままで生きてきたので‥‥」

「これからさまざまなところへ行き、
 さまざまな人に会い、さまざまな経験をつんで、
 やりたいことを見つけたい‥‥」

上記の文章から「論点」、つまり
書き手の中心にある問いを割り出すと、

「自分とは?」

「本当の自分とは?」

「あるべき自分とは?」

どれをとっても、この上なく大きい問いだ。

「自分とは?」

と問うてみても、
たったいま、ここに、こうしている自分だけでも、
仕事、家庭、趣味の側面、
知的、心的、肉体的‥‥、いろんな側面があり、
美醜、善悪、優劣、怠惰・勤勉‥‥、矛盾も多く抱え、
とても答えが出るものではない。

「本当の自分とは?」

となると、
いまここにこうしている自分だけでも、
とてもじゃないが、つかみきれないのに、
一段と問いが深く、抽象的になり、難しくなる。
さらに問いが、

「あるべき自分とは?」

と「自分探し」の方向に行ってしまうと、
たとえば、
「いまここで毎日怠けている私は、私ではない。
 ここではないどこかに本来の自分が見つかるはず‥‥」
と、どこかへ探しに出てしまうと、
もうバクゼンとしすぎてしまい、収集がつかず、
「自己を紹介」するどころではない。

「大きすぎる問いを、大上段にふりかぶってしまう」

これが、文章に不慣れな人の、
書けない原因の筆頭だ。

「自己紹介」のテーマである「自己」。

このままでは「問い」が大きすぎて文章が書けない。

そこでプロは、
制限時間内に、800字で、
自分の実力で書ける、ギリギリ面白い問いを
絞り込む。

「大問の切り出し」といって、
意識的に論点を絞り込む人もいれば、
経験からくるカンで無意識にやる人もいる。
試行錯誤で魅力ある問いをつかみ出す人もいる。

いずれにしても、
「自己」という大きすぎる問いを
丸ごとふりかぶって沈没することはない。
実力で浮上できる問いを、選んで書きはじめる。

問いは大きすぎても小さすぎてもいけない。
「等身大の問い」が必要だ。

たとえば、

「自分の原体験と言えるような体験は何か?」

「自分が人生の中でいちばん大きく変化したのはいつか?
 その分岐点になった経験は何か?」

自分の全部を言おうとせず、
自分の本質を語るのでもなく、
たった一つの経験で象徴的に、
自分という人間を人に伝える。

あるいは、
1つ1つの問いは、小さく平凡だが、
問いの組み合わせや、組み立て方が上手な人もいる。

たとえば、

「自分の過去を語る上で欠かせないものを
 1つだけ上げるとすれば何か?」

「自分の現在を語る上で欠かせないものを
 1つだけ上げるとすれば何か?」

「自分の未来を語る上で欠かせないものを
 1つだけ上げるとすれば何か?」

「過去、現在、未来と自分は変化し続けるが、
 そこで変わらないものは何か?」

以上、4つの問いの組み合わせで、
自分という人間の主旋律を浮かび上がらせている。

このように、
自分で扱えるサイズの問いを切り出したり、
小さな問いをうまく組み合わせて
テーマに対する自分の考えを構築していったり
する方法をサポートすると、
文章に不慣れな人も、
生き生きと文章を書く。

就活生はその典型だ。

「やりたいことは?」

と聞かれて、すくんで文章が書けなくなってしまう人は、
「一生変わらない自分の天職は?」のような
大きすぎる問いを、無意識に抱えている。

そこで、この大問から、

「現時点で、いちばん興味ある仕事は?」
「その仕事に生かせる自分の長所は?」
「その業界をめぐる社会背景は?」

と、いまの自分で答えられるサイズの問いを
いくつも切り出し、
その等身大の問いから出てきた、等身大の答えを、
うまく組み合わせ、組み立てることで、
「やりたいこと」に対する自分の意見を構築していくすべ、
面接官に伝えるすべをサポートすると、
わずか、3〜4時間のワークでも、
実感と説得力ある志望理由が書けるようになる。

「大きすぎる問いを、大上段にふりかぶってしまう」

ここが素人さんの未熟さである、と同時に、
経験ズレしてしまったプロがかなわない凄さでもある。

思い出すだけでも、ブルッ、と身震いがする。

これまでに生徒さんの、
つまり職業作家ではないことはおろか、
ほとんどまとまった文章さえ書いたことがない人の、
物凄い文章に、なんど出逢ってきたことか。

過去に一度も小説を書いたことがないのに、
いきなり大作の小説を書き上げてきて、
みんなを号泣させた素人さんもいる。

たった800字とは思えないほど濃く、
多面的な自分の半生を、
自己紹介に書いてしまった人もいる。

わずか2分のスピーチで、
講義室中の学生を、私も含めて、感動させ、
奮い立たせ、解放した学生もいる。

「自分とは何か?」

プロなら経験上避ける、
あるいはうまくかわす問いに、

逃げ方も、かわし方も知らず、
まっこうから挑み、
いや、自分が大きな問いに挑んでいる、
ということにさえ気づかず、
それゆえ恐れを知らず、

人生永遠の問いのような問いに
まるごと食らいついてもがき、

プロならあきらめたり、軌道修正したりもするが、
そんな術さえ知らず、

とてつもない時間をかけ、
いや時間をかけていることさえ自覚なく、
苦労を苦労とも思わず、無心に挑み続け、

とうとう「伝えたいもの」が出てきてしまった、

というときの、素人さんの凄さ。

ブルブルと震えるように感動し、
その表現に、畏敬の念を抱かずにはおられない。

周囲はそうした突出した素人さんを見て、
「センスだ、才能だ」というけれど、
私は知っている。
絶対に、プロはそこまでやらない、
経験から技があるのでできないというくらいの
すさまじい努力がそこにある。

最初から文章が光っていると思う人ほど、
陰で、ほかの生徒の何倍も努力している。

努力しない天才など私は知らない。

効率的に文章を書くということが、
流行っているようだ。

私も小論文試験や、就活のエントリーシートの文章を、
効率的に書く、かたぼうをかつぐ人間かもしれない。

でも、上記のような、
素人さんの本気に触れるたび、
言葉を失い、こうべをたれる。

私がいま、いちばん尊敬するものは、
その人の一生にたった一回かもしれない、
素人さんの本気の表現なのだ。

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2012-10-31-WED
YAMADA
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