YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson596
  くだらないことこそ、ちゃんとやれ。



おかんが、「富士山を見たい」という。

この梅雨のさなか。

ことのほったんは、
先日、スーツケースを片付けようと、
ポケット深く、手をつっこんだら、
1万円札が3枚出てきたことだった。

「こんなことをするのは、おかんしかいない。」

おとなになってからも、母は時々お金をくれる。

正面切って渡すと、
私が「いらない」と言うので、
いつからか、バッグのポケットなどに
そっと入れて置くようになった。

で、久々に、田舎にいる母に電話をすると、

やはり、私が連休に帰省したときに、
母が入れたものだった。

あまりにひかえめ、不器用な愛情表現のため、
私は2か月、まったく気づかず、
このスーツケースで、あちこち講演の旅に出て、
あやうく気づかずじまいになるとこだった。

ひとしきり、確認やらお礼やらいって
電話を切ろうとすると、
母は、もぞもぞと、まだ、なにか言いたげだった。

それで聞き出すと、

まったくあきらめたように、独り言のように、
消え入りそうな声で、ひかえめに、

「温泉いきたい。富士山が見たい。」

と言った。

これが、母のなにかの記念日とか、
前々から計画してとかだったら、
私は億劫がったかもしれない。

でも、万札発見という、偶然から、
母が思いもよらずもらした、
もれてしまった本音だったので、
つい聞いてしまった私の、スイッチが入った。

「このような願いこそ叶えなければならない。」

やりたいことは理不尽にくる。

いざ、実行に移すとなると、
母のやりたいことには、こまかい、
踏み越えなければいけない
マイナス要因がいっぱいあった。

1つあげれば、片道10時間かかること。

次に、片道10時間かけても、この梅雨で、
富士山は見えない確率のほうが高いこと。

家族に電話をすると、たしなめられた。

「あんまり無理せんほうがいいんじゃない?
 もっとラクなところにしたら‥‥」

昭和9年生まれの母は、
ここ数年、高齢と、持病の心臓と、
なにより脳梗塞をわずらった父の介護疲れで、
どっと出不精になった。

私のいる東京にさえ、もう7年も来てないのだ。

その母が、岡山県の鳥取県境にちかい山奥から、
電車でえっちらおっちら、岡山に出て、
そこから新幹線にのり、
トータル5時間かけて、
東京にくるだけでもたいへんなのに、
そこからさらに富士山まで、片道10時間など、
高齢者でなくとも、ぐったりなのだ。

旅館の人につっこんで聞いてみても、
どんな手段でも9時間以上、1泊2日はムリと断言された。

だれか同行者を頼んでみたが、
平日だし、急なことだし、だれもついてこれず、
母ひとりで移動するしかない。

日程は、父が泊まりのケアサービスに行く3日間のみ、
ここをずらすことはできない。

「もっと近場のラクに行けるところにしなさい」
とは、すごく、まっとうだ。

でも、

もっとラクに行けるところへ、
もっと安全に行けるところへ、
富士山は遠くからちらっとみえればいいやとか、
いや、それならどうせ梅雨で見えないんだから、
料理がおいしいとか、宿のセンスがいいとこがいいやとか、

ほんの1ミリ、やりたいことをすりかえ、妥協する、

その1ミリが、
決定的に何か大事なものを損なう気がした。

「だめ、富士山が見える温泉でなければだめ!
 遠くに見えるのではだめ!
 山や建物ごしに見えるのでもだめ!

 目の前にどどーんと、おーきな富士山が見えること。

 部屋の窓からも、露天風呂からも、
 あっとうてきに大きく豊かな富士山が見えるところ。
 そうでなきゃ、行かない!」

私は、そこだけは死守しようと心に決めた。

なにか決めることは、なにかをあきらめることだ。

富士山を近場で見たいなら、
それはやっぱり不便なところにあり、
不便をおかして、えっちらおっちら行かなきゃならない。

ラクに行ける所では、やっぱり富士は遠くにしか見えない。

2つは取れない。

どちらか1つを選び、他を諦めなきゃならない。

労力をつぎこめばつぎこんだだけ、
だめだったときの失望は大きくなる。
だから、十中八九、富士山が見えないということに対して
事前に諦め、腹をくくっておかねばならない。

「くだらないことこそ、ちゃんとやれ。」

私はつねひごろ、そう思ってきた。

どんなささいなことでも、
自分が心から、それをやりたいとおもったら、
くだらないことだと自分で却下してはいけない。

それは自分で自分を疎外することになる。

どんなにくだらなくても、
心からやりたいことが授かったら、
きちんとやりとおすべきだ。

母には、まず東京に来て1泊してもらい、
次の日、河口湖の富士山が見える温泉旅館へ1泊、
翌日、東京に帰って1泊、
4日目の朝、ふるさとに帰るという計画を立てた。

いつもはあれこれ引っ込み思案なことを言う母が、
この申し出には1ミリの難色もみせず、2つ返事だった。

なにしろ、富士山は、いまの母の心が向くことだ。

一ヵ月は変わっているかもしれない、
理由などないし、それで利益も得もない、
やらなかったからとて、とりたてて困る人などいない、
くだらないことだ。

でもだからこそ、母の心が、「いま」、確実にそこにある!

心が向くことに、言葉や体を向けていくというのは、
不便や労力が苦にならず、
実に気持ちよいものだと、母を見て思った。

不安になったのは2度。

東京に来る3時間15分の新幹線の冷房で、
母が冷え切って、青い顔でホームに降り立ったときと、

河口湖に向かう長時間のバスのなかで、
数分間、体調の悪そうな顔をしたときだ。

でも事前にそういうことも想定し、
覚悟し、腹をくくっていた私は動揺しなかった。

当日は、雲の切れ間に見えたり、
隠れたりしていた富士山が、

一晩泊まって翌朝には、
一点の曇りもなく、圧倒的に美しい姿をあらわした。

宿は湖にあり、窓から、河口湖、そのむこうに、
おおきなおおきな富士山。

おかんと私は、観光に出ることも、テレビを見る気も失せ、
ろくに話もせず、ただただ、
うっとりと富士山に見とれて過ごした。

ずっと見続けていても、まったくあきない。

刻々と空の色、陽のあたり具合で、ニュアンスが変わる。

部屋から見るのと、露天風呂から眺めるのでもちがう。

富士山を形容するのに、「美しい」ではとてもたりない、
なにか専用の言葉を生み出してほしい。
なんだろう、富士山にむかったときの、
この胸や腹がすっと澄みわたるような感覚は。

心が洗われる。
生きててよかったという歓びが自然に湧き出てくる。
あとからあとから、つきることなく。

おかんも同じきもちだった。

湖には、雪を頂いた逆さ富士がうつっていた。

宿の人からは、
ここ最近で、富士山が全体像を表したのは
今日だけだと、口々に言われた。

富士山が見えない日は、お客さんたちも失望して帰る、
すると旅館の従業員も、お客さんを喜ばせられなくて
とても苦しいと。
だから、きょうは、きれいに富士山が見えて
ほんとうによかったと晴れやかな笑顔で言った。

母は見る見る元気になっていった。

来るときには新幹線の冷房でよろよろと青い顔をした母が、
東京から新幹線で岡山駅まで帰ったとき、
これからふるさとに帰る電車に乗る前に、
岡山の地下街をひさびさに観て歩くんだと、
嬉々として電話をくれた。

母は、大雨のため岡山駅で足止めをくらい、
通常2時間で帰るふるさとの駅まで5時間かかったと
あとで聞いた。

にもかかわらず、母は翌日、
あちこちおみやげを配って歩いた。

旅の疲れが出ていないどころか、むしろ、
行く前より元気になってる。

それは、以前の元気な母を彷彿とさせた。

「やりたいことは理不尽に降る。」

私もこの歳になって、スタンディングの
ロックのライブに行きたくなったり、

昭和の生まれで親にもらった体に傷つけるなんてと、
ずっと開けていなかったピアスを
とうとつにあけたいと思い立ったり、

まじめで、臆病で、石橋をたたいて割る性分なので、
そのたびに、怖気づいたり、考えすぎたり、

でも考えれば考えるほど、そこにまっとうな理由などなく、
あまりにくだらなく、
だれに言われるまでもなく、
自分の想いを自分で却下しそうになる。
でも、

「くだらないことこそ、ちゃんとやれ!」

くだらないこと、

使命とか、貢献とか、目的とか、
そういうこととまったく無縁だからこそ、それは、
「自分らしさ」なのだ。

「こんなちいせえこともやれねえで、
 いざ人生の選択だ、自己表現だというとき
 どうして自分で自分を表現できるんだ?」 とも思う。

くだらないことこそ、自己表現。

こんなくだらないこと、自分が自分で聞き届け、
やり遂げてあげなければ、
いったいだれが支援してくれるというのか?

私は、中年の体に喝をいれ、ロックのライブに向かう。

ハードなロックのライブ会場の、
前のほうには、「死んでもいい」という気持ちで
臨んでいる人たちがいる。

たかが音楽だ、くだらない、命を粗末にするなと、
人は目くじらを立てるだろうか?

でも、「はだか祭り」とか、日本の伝統の祭りには、
命を危険にさらすものも多く、それでも男たちは、
歴代、挑んできつづけた。

粗末にしているのではない、

「命を燃やす」のだ。

慎重で、臆病な私は、
ピアスをあけずじまいだろうか?

人に説明できる理由などない。

ある日、心が向くピアスに出逢い、
気がついたら、ついつい探していた。
店頭にはなく、どこにもなく、
それでも諦めきれず探していたら、
ある日とうとう見つかった。

もっているだけで、ながめるだけでよいと、即決で買った。

見ているうちに、心から「つけたい」と思った。

いい歳をして‥‥、
親にもらった体に傷をつけるのか‥‥、
教育関係の固い仕事をしているのに‥‥、
皮膚が弱いのに‥‥、

考えれば考えるほど、くだらなく、
どうでもよく、
自分で自分の願いを却下しそうになる。

でも、ピアスぐらい、
自分の心が向くように、
自分の耳につけさせてやりたいとも思う。

心からやりたいことが授かったとき、
どんなささいなことでも、馬鹿にせず、
くだらないと却下せず、
きちんと聞き届け、やり遂げてやろうとする。

「自分が自分のみかたである」とは、
そういうことではないだろうか。

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2012-07-18-WED
YAMADA
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