YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson591
  イカリとむきあう − 2.感情の代理人



「イカリにふりまわされて、
 大切なものを失うのは、もういやだ。
 自分は感情の主(あるじ)でいたい。
 イカリをのりこえたい!」

と思う私に、
読者のこんな言葉が飛び込んできた。


「“怒り”は、感情ではない。
 なにか別の感情の“代理人”だ。」
(ひげおやじ)


イカリって、
喜び、哀しみなどの「感情」じゃないの?

代理人って、なんの?

先週にひきつづき、
イカリをのりこえる道を考えたい。

ここでいう「イカリ」は、
多様な側面を持つ「怒り」の全容などではない。
自分でも、つまらない・のりこえたいと感じる
小さい怒りだ。

「イカリをのりこえないと、
 つぎつぎ友だちを失って、
寂しい老後になるぞ‥‥」

バクゼンとそう思っていた矢先、
胸を刺すようなメールが飛び込んできた。
以前、「仕事の選択3」で、
老人ホームを辞めるというメールをくれた
読者の「蓮」さんだ。


<プライドの高い、よく怒る人だった>

突然、老人ホームに
いつも往診で来てくれるドクターの
訃報が届いた。

プライドのとても高い、
つまらないことでもよく怒る人だった。

ただ他界されてわかったのは
彼はとてもとても

寂しかったのだということ。

彼の部屋がそれを物語っていたらしい。

禁止されていたお菓子が
ゴミ屋敷のように封を開けて積み上げられ
パソコンが最後にアクセスしていたのは
風俗のサイトだった。

医者という仕事は社会的にも
経済的にも安定し、
そんな寂しい最期になるとは
余り想像できないのが普通だ。

亡くなったドクターは
老人ホームの入居者さんに
あまり愛情を注いでくれているように
思えなかった。

たんたんと事務的に
仕事をされているように見えた。

お爺ちゃん、お婆ちゃんの話を
丁寧に聞いてくれているとは思えず
聴診器をちょっと当てて
さっさと帰るだけに見えた。

しかし、スタッフさんが撮ってくれた
入居者さんのお婆ちゃんとの写真は
いい笑顔で遺影にまでなっていた。

これ以外に、笑顔の写真は
一枚もなかったらしい。

もちろん入居者さんが中心なので
彼の頭は写真上で見事に切れているのを
葬儀社さんで修正して使っているらしい。

その写真を嬉しそうに
仕事部屋に飾られていたことも
亡くなられて初めて知った。

両親や勤務先の病院のナースや事務員が
泣き崩れている姿をみて
私が知らないだけで

この人はとても不器用で
きっと優しい人だったんだろうと

そう思った。
誰もかれも愛想がいいわけではないし
不器用な人もたくさんいる。

言葉足らずで誤解されたり
表情が乏しくて良くわからなくても
優しい人や判りあえる人は
気付かないだけできっと
周りにいくらでもいるのだ。
(蓮)



「プライドの高い、
 つまらないことでもよく怒る人だった。
 ただ彼はとても寂しかったのだ」

というところに自分を重ね、

「誰もかれも愛想がいいわけではない。
 言葉足らずで誤解されたり、
 表情が乏しくて良くわからなくても、
 判りあえる人は、
 気付かないだけできっといる!」

のくだりを読んで、
なぜか涙がこみあげた。
私自身が許されたような気がした。

冒頭で取り上げた
読者の「ひげおやじ」さんは言う。


<怒りは感情の代理人>

医師だった僕の父は、
8年前に他界しました。

医師として、最後まで「志」ある人生でした。

ですが、普段、
僕たちに良く見せていた父の印象は

「いつもムスっとして不機嫌」な姿

でした。
自分が大学生になって、
ゆっくりと「不機嫌な父」の
話を本人にしたことがあるのですが、
そのとき本人が言っていたのは、

「人の死」に立ち会うストレスを
自分で消化できなかった、

という振り返りでした。
特に放射線科(つまり癌患者専門)の医師だった父は、
本当に沢山の患者さんを見送ってきたわけで、
その重みは大変なものだったのだと思います。

もっと、父と色々と語り合いたかったなぁ、と
しみじみ感じています。

「怒り」は、感情ではない。
何らか別の「感情」の「代理人」なんだと、
僕は思います。

以前読んだ本で
『暴走老人!』(藤原智美著)
のことを思い出しました。

この本で著者は
暴走する高齢者の立場に
寄り添おうとしています。

キレてしまう高齢者。

その背景には、IT化などドンドン変わっていく自分の
周囲に取り残されてしまうのではないか? という
不安感や、以前の自分なら出来ていたことが、上手く
出来なくなっていく老いへの恐怖感があるのでは、
と著者は考察しています。

「寂しい」「不安だ」

大人になると、こんな感情を素直に表現することが
出来なくなります。

その分、代理人として「怒り」を使ってしまうのだと
思います。

ズーニーさんが、
「イカリにふりまわされないで、
 自分はイカリの主(あるじ)でいたい」
と言っていました。
いわば、怒りの「名指揮者」でありたいと。

この意味は、きっと
「怒るな」という意味ではなく、

自分の中に「怒り」を感じたとき、
その感情を表に出す前に、
ちょっとだけ
「いま、何に対して自分は怒りを感じたのだろう?」
と自分に問いかけてみる。

きっと、「怒り」は感情ではなく、
「反応」なんだと思います。

「怒り」という「反応」を選択する前に、
きっと「裏切られた悲しさ」や
「軽く見られた悔しさ」や、
「寂しさ」のような「感情」が
自分の中に生まれていたはずで、
そこを見逃さないようにしましょう、と。

「本当に、その感情に見合った表現(反応)を
 選択しているか?」

と問う。
そういう意味なんだと、思います。
(ひげおやじ)



ひげおやじさんのメールを読んで、
ぱっと浮かんだのは、

私は、田舎から「おかん」が出てきたり、
「ここいちばんの親孝行をしよう」とはりきっていたり、
それが仕事のせいで十分にできなかったりしたとき、

なぜか怒りっぽくなってしまうことだった。

怒るのならむしろ、おかんのほうで、
わたしのほうが怒る筋合いではまったくない。

でも、なにかのメーターがふりきれたとき、
わたしは怒る。

まるで、台所で食材を量る「ハカリ」だ。

2キロなら2キロの容量を越えてしまうと、
そこが真っ赤に塗ってあり、
針は真っ赤なゾーンに達し、
ただ不器用にブルブル震えるだけ。

「せっかく、おかんがきてくれたのに、
 もうしわけない」が振り切れては怒り、

「仕事がうまくまわせなかった自分がふがいない」
がゆきすぎると、針が振り切れ、

「おかんが大切で大切で。
 せいいっぱい楽しんでほしいのに、
 かまってやれなくて不憫だ」が胸につのりすぎると、
針が振り切れ、私は怒る。

先週の「シャチョウさん」もそうだったのではないか?

先週は、シャチョウさんのことを、
「キレる中年、醜い、小さい、わずらわしい。
 ああはなりたくない」と、
ただただ、忌み嫌ってばかりだった。

でも、ひげおやじさんのメールを読んで変わった。

もしかしたら、
シャチョウさんは、
「久々に部下たちに会える」と、
「久々にいいとこ見せよう」と、
はりきって、楽しみに、いそいそと、来たのではないか?

それが思いもかけず、
部下たちに進言され、それが図星であり、

「ごめんなさい」と言えなくて、
「はずかしい」と言えなくて、
「自分ともあろうものが、部下にこんなことまで言わせて
 ふがいない」と言えなくて、

部下を大事に思うあまり、
責任感が強いあまり、

感情のメーターがふりきれ、
真っ赤な容量オーバーゾーンでブルブル震え、

その震えを、
イカリという代理人に表してもらっていたのではないか?

シャチョウさん、そしてイカったときのワタシ
に問いたい。

あの日、あのとき、

「本当は、もっと別の感情を、
 表したかったんじゃないの?」

「ほんとうは、
 どんな気持ちを表現したかったの?」

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2012-06-13-WED
YAMADA
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