YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson590  イカリとむきあう


小さなことに怒って、
相手を糾弾しているとき、
結局、相手や周りに伝わっているのは、
その人間の小ささだ。

先日、そう思い知らされる出来事があった。

ひごろ私は、
感情は豊かでいい、
でもふりまわされてはいけない、
自分は感情の主(あるじ)でいたい、
と念じてきた。

にも関わらず、
つまらぬ怒りにふりまわされて、
人を傷つけたり、
大事なものを失ったり、
自分でなんとかしなければとわかっていても、
自分でなかなか制御できず、
苦しんでもきた。

そんな矢先、反面教師にあった。

いわゆる「キレる中年」というのに、
たまたま遭遇した。

周りの人が、必死でとりなし、
なだめ、もちあげ、している様子から察するに、
立場のある人そうだった。

ここではかりに「シャチョウさん」と呼ぼう。

彼は、本筋とは関係のない、
さまつな、ささいなことで、瞬時に腹を立て、
怒りをまき散らした。

「怒りは、結局、他者にくれくれとせがむ、
 “くれ文”だ。」
といった生徒さんがいた。

その言葉どおり、
シャチョウさんは、怒って何度も、
「わしゃあ、帰る!」と席を立ち、
でもそのたびに、

「シャチョウさんあっての私たちですから」
「私たちどんなにシャチョウさんに感謝しているか」
と、まわりの人みんなから、褒めや認めや賛辞を
シャワーのようにわんわんと浴び、
まんざらでもない様子で席についた。

しかし、席について、ほどなくして、
まわりが話を本筋に戻そうとすると、
また怒って席を立とうとする。

彼は、怒ることで、無自覚に、
問題と向き合うことから逃げているようにも見えた。

そうかとおもうと、彼は、
ふいに上機嫌になって
まったく関係ない昔話などした。

もう機嫌が直ったかと、
周囲が本題に入ろうとすると、
また思い出したように怒りはじめる。

彼は、怒ることで、思考停止に安住し、
問題解決にむかう脳の重労働を
かわしているかのようにも見えた。

それでも、どうにかこうにか周囲が落ち着かせ、
話が終わり、帰る間際、

シャチョウさんは、なんと、
いちばん最初にあげつらった、さまつで小さなことを
また蒸し返し、
ふたたびプンプン怒りをまき散らしはじめたのだ。

人は、はじめは理由をつけて怒り、
そのうちに、怒るために怒り、
しまいには、理由などなく、
ただ怒りたいから怒る。

その姿を見ながら、
自分も小さなことで怒っているとき、
周囲からは、ああ見えるのかと、
イタく、げんなりした。

結局、まわりに伝わっているのは、
「私は、怒りという感情にふりまわされ、
 その支配下に入ってしまい、
 自分の身ひとつ自由にできない小さい人間です。」
というメッセージなのだ。

怒りにはいろいろな側面があり、
「憤り」とか、「大腹をたてる」とか、
怒りのエネルギーがなにかを生む場合も
あるのかもしれない。

しかし、私がここで問題にしているのは、
そんな大きな怒りの全容ではなく、
自分でも主観的に、つまらない、のりこえたい
と思う、小さなことへの怒りだ。

それをここでは「イカリ」と、
かっこつきのカタカナで表記したい。

それにしても、「イカリ」はどうしてこんなに
場を硬直させるのか。

シャチョウさんの「イカリ」に遭遇した日、
夜になっても私は、内臓がセメントに固められたような
ショックがなかなか消えなかった。

「イカリ」は場を支配する。

シャチョウさんがイカリをまき散らしたとき、
ものすごい威圧感とともに、
すべては硬直し、
何かが止まってしまった感覚、
もうおしまいという感覚、
ここにはぺんぺん草も生えない、
もう何も生まれないという
失望のシャッターが降りた。

その思いを、
私が所属するメーリングリストになげかけたところ、

建築事務所で働く女性が、
「小さい怒りをこんなふうに乗り越えた」と、
ご自身の経験を話してくれた。

ご自身は、内田樹さんに影響を受けての見解で、
ゼロからのオリジナルではないと謙遜されるが、
自分の経験に照らしての噛み砕き方、
伝わるチカラが素晴らしいので、
許可を得て、全文を紹介したい。


<“怒り”の反対は“創造”。(仮定)>

私は建築事務所(仮にA事務所とします)で働いて
5年になりますが、

その間に印象に残った、
自分にとって財産となる出来事の一つが
怒りと関係しています。

あるとき海外の設計競技
(=建築家たちが特定の敷地、
 プログラムに対しそれぞれ案を提案し、
 審査を受け、選ばれた案が実際に建設される)に
現地の地元建築事務所(仮にOffice Bとします)と
チームを組んで、参加しました。

アイデア自体が決まった後は
最終的な成果物として説明を、
数枚の紙面にまとめます。

A事務所とOffice Bで
それぞれが作業を担当する図面や絵、
文章、図表等を割り振り、
バラバラに作業をし、
共有のサーバーにUploadし、お互いに意見を交換する、
ということを毎日繰り返します。

締め切りも近づいたある数日間、
Office Bからの連絡が途絶え、
いままで毎日されていたファイルの更新もされない、
ということが起こりました。

さらに、連絡が取れた時には、
彼らが進めているべき作業が大幅に遅れており、
そしてなぜか、謝るのではなく、
その遅延が私たちA事務所のせいだ、
とOffice Bは逆に怒っている、
というようなトラブルに陥りました。

私は
「私たちはやる事をやっているのに、
 どうして怒られなければならないんだ!
 悪いのはやるべき事をやらないそっちじゃないか!」
というような、
まさに小さな怒りの気持ちとともに、
事務所の所長に相談をしました。

そこで、私が所長に期待していたのは、
「うちの事務所は間違っていない。
 そもそもやるべき事をやっていなかったのはOffice Bだ。
 まずは、その誤解を解いて、
 やるべき事やってもらおう。」
というような対応でした。
自分の正しさを肯定してほしかったのだと思います。

でも所長が言及したのは
「今何が出来ているの?
 なにが終わってないの?
 残りの時間でうちが出来る最大の事はなに?
 どれは省ける?
 逆にいまだから変更できる事はある?」
といった、
現状把握と現実的な対応についてのみでした。

その対応を聞いているうちに、
私の怒りは恥ずかしい気持ちに変化して、
そして自分の出来る事はなにか、
という思考が生まれてきました。

所長の見ている先にあるのは、
責任の所在ではなく、
“自分達が面白いと思える建築を提案する事”でした。
そして、私がこの事務所で働いている目的も、まさに。

小さな怒り = 自己顕示欲、
肯定されたい気持ち = 受け身、過去
創造 = 自分から関わる事、
差し出す事 = 自発的、常にスタートライン

所長の対応は私にとって
「創造的、creativeとはこういう事なんだな」
という強い印象を与えました。

創造的、の一つの在り方は、
すでにある現実を、どんな風に楽しめるか、
別の回答を出せるか、
という事だと思います。

創造は始まりだと思います。

反対に怒りは、なにも始める事が出来ない。

始まるには、怒りをまず鎮めなくてはならない、
白黒をはっきりさせるしか無い。
逆に何か関係のないものを壊す恐れもはらんでいる。

そこに矛盾とか、妥協とか、合意とか、疎通とか、
そういったものは見いだせない。

ちょっとややこしい出来事を
小さな怒りで積み重ねるのではなく、
創造的に乗り越える事。

遠くにある目的。
を大事にしたいと思います。

(ペンネーム “あはは”)



怒りは白黒をはっきりさせるしかなく、
関係のないものを壊す恐れもある
というところが
とくに、耳痛く、胸にしみた。

これを読みながら、
あの日、シャチョウさんの「イカリ」が
場にもたらしたものが腑に落ちた。

「クリエイティブの死」だ。

そして、「イカリ」を乗り越えるとは、
飲み込んだり、おさめ込んだり、
体を悪くするような我慢ではなく、

クリエイティブを養い
花開かせることだ、と教えられた。

頭をなんとか、
しなやかに、クリエイティブに
もっていかなければ、
キレる中年に自分もなるし、

逆に言えば、
問いと思考、工夫のベクトルを
切り替える訓練で、
「イカリ」は、「つくる」に変えていける!

「イカリ」について次週も引き続き考えたい。

小さな「イカリ」、あなたはどうやって乗り越えますか?

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2012-06-06-WED
YAMADA
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