YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson588  作品のおとうさん


「作者は好きなのに、作品は好きになれない」、

ぎゃくに、

「作品は好きなのに、
 つくった人間そのものは好きになれない」
という現象がある。

あれは何なんだろう?

正解はない問題なのだが、
わたしは、この10年来、
この問いに、ずっとひっかかり続けている。

わたしには、
この12年来、ずっと気になりつづけている
アーティストがいる。

自分の人生でもっとも「孤独」な時期の、
「心の支え」と言っても言い過ぎではない。

12年前、私は、
会社を辞め、編集者を辞め、
「自分は何者か」、喪失感にあえいでいた。

新しい仕事はそう簡単に見つからない。
何をやったらいいかわからず、
人からも、仕事からも干され、

孤独にさいなまれる日々のなかで、

ふと、NHKをつけると、
この人の特番をやっていた。

みるみるひきこまれ、
見終わった後、心が少し安らかだった。

再放送があると、また、観て。
録画したものをまた観て、
気がつくと、同じ番組を、
60回は観たと思う。

この人の声や言葉を聞いている間だけは、
キリキリ自分を締め上げている孤独が和らぐ。

ほかの人では、
くぐってこられない孤独の域まで、
この人の言葉は届くと感じた。

そこで、私は、多数、
この人のつくった作品を購入し、鑑賞した。

ところが、

「好きになれない。」

いっこうに、
作品がこっちにはいってこない感じで、
スルーしてしまう。

「そんなはずは」、と
ずいぶんがんばって、とりにいった。
けれども、

人物には出逢えても、作品には出逢えなかった。

あれから12年、いまだに、
私は、孤独の闇に沈む時、
ふと気が付くと、この人の番組の録画や、
インタビューを取り出しては、
繰り返し繰り返し、とりつかれたように見ている。

そういうとき、ほかの人ではだめで、
なぜか、この人でなければならない。

なにがあったかは、よく知らないけれど、
この人の言葉の根本に、
常人とは桁違いの孤独があるのを感じる。
それが、触れる人々癒すのではないかと。

では、それだけ深いかかわりなら、
「ファンか?」と言われると、
どうにも抵抗がある。

あいかわらず私は、
この人の作品に出逢えないままなのだ。

人も作品も、どっちも好きになれたら、
正直、どんなに楽だろう。

それまでの私の人生では、

「人物が好きなら作品も好き!」だった。

「作品から入って、大好きになり、
 これをつくったのはどんな人かと
 作者を知ると、やっぱり作者も大好き!」だった。

また、ファンになってしまうと、
恋した人が、アバタもエクボになるような感じで、
「少々ゲージツ性に難があったって、
 その人らしくて好き!」と思えた。

逆に、はじめに作者という人間に引かれ、
作品にあたってみて面白くなければ、
興ざめして、人間にも興味がなくなっていった。

それが私の常だったにも関わらず、

私はやっぱり、このアーティストだけは、
なんど繰り返してみても、おもしろい!と思うし、
にもかかわらず、なんどトライしても、
この人がつくった作品からは疎外され続ける。

これって、なんだ?

「みなさんには、
 作家は好きだけど、作品は好きになれない、
 あるいはその逆はないですか?」

とツイッターでつぶやいたところ、
ライターや、絵を描く人や、続々と意見が寄せられた。

「ある、ある!」と。

大なり小なり、
そういう経験がある人も多いと知った。

よく、作品は「こども」にたとえられ、
作家は「母」にたとえられる。

だから、母と子は似ていてあたりまえ
思われがちだけど、

「母と子が別人格って、けっこうあるのでは?」

という意見をもらった。
たしかに、私の場合も、
山田ズーニーは女だけど、
山田ズーニーの作品=本は、
いまも過半数の人間が「男性が書いたもの」
だと思っている。

「作家と作品にはズレがある。」

問題は、ズレがあるかないかということよりも、
ズレ方が、それぞれちがっていて、
そのズレ方にこそ、その人の作家性、
表現姿勢が垣間見えるのではないか、
という意見をフォロワーの方からいただいた。

ある作家は、豊かな作品にふさわしい、
豊かな人格の持ち主で、
まるで、母子が「生き写し」のような作品をつくる。

また、ある作家は、ジキルとハイドのように、
きわめて温厚な常識人でありながら、
残虐で、常軌を逸した作品をつくる。
あるいはその逆、というように……。

以前私は、
人はそんなに1つの人格できれいに割り切れる
存在ではなく、優しい・冷たい・勤勉・堕落など、
多面的な性質を持つ存在だと書いた。
(Lesson548 本当の「ワタシ」)

だとしたら、
実人生では出すことができない、
抑圧された自分の側面を
作品に出し切ろうとする人がいてもおかしくない。

「作品は無意識からくる。」

とは、たしか絵を描いているフォロワーの方が
言ってくれた言葉だ。

たとえば眠ったときに見る夢が、
これが自分のものかと疑うほどに、別人格で、
ぐちゃぐちゃだったりする。

ふだん、生きて、考え、人と関わる人間は、
意識の産物だし、作品は、もっと、
意識では制御できない無意識からくるのでないかと。

表現のあり方がひとりひとり違う表れとして、
ギャップの大小や、ズレ方がひとりひとり微妙に違う。

そんなフォロワーの見解にふれながら、
くだんのアーティストと作品は、
どんなズレがあるのだろうと考えた。

ライターをしているフォロワーの方がこう言った。

「作品は、化ける。」

さらに、「降りてくる。」とも。

たしかに、作品は、
もう、ズレとかギャップという範疇を越えて、
おそろしく「化ける」ときがある。

クローンではない。

ではなにか?
と考えたときに、
どうも、

「作品にはおとうさんがいる。」

ということに思い至った。
おとうさんとは、小説家なら編集者、
ミュージシャンならプロデューサーとか、
俳優さんなら監督とか、
母なる作者とはちがう、第三者の存在だ。

私自身も、たとえば、
女子高校生1000人に向けて講演をするというとき、
構想段階で、ふだんの自分では考えられないなにかが
降りてきたような感じがしたことがある。

さながら種のように、高校生の感性が、
私の中にやどり、化学反応を起こし、
ひとりでは生めないものが生まれた。

私は、例のアーティストのことは好きでも、
作品の「おとうさん」は、
好きになれないのではないか。

これが現時点での私の仮説なのだ。

さらに、このアーティストは天才すぎて、
つりあう「おとうさん」がなかなか無い。

どんな「おとうさん」と組んだとしても、
このアーティストのほうが、天才過ぎて、
結局、自分ひとりでやったほうがレベルが高い
ということになってしまうんじゃないか。

もしかすると、自分の力量に見合う、
化けさせてくれるような
対等なところまで来られる「おとうさん」に、
このアーティストは人生を通じて
まだ、めぐりあえていないんじゃないか。

それでも、この人は、
孤立して表現する道より、
人とつながる道を選んでいるんじゃないか。

だとすれば、ゆけども、ゆけども、
ますます孤独はつのる。

わたしはますます、この人物に
興味をひかれてやまなくなる。

天才がゆえの永遠の孤独。

想像の域をこえないけれど、
きょうは、そこまで考えた。

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2012-05-23-WED
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