YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson570 希望


希望がある。

2012年、
まず実感したのはそれだ。

なんだろう、この感覚?

「幸せ」という感覚とは違う。
「夢がある」というのとも全然違う。
「楽観」しているのでもない。

希望という言葉でしか表現しようのない感覚、

地に足のついた、
地味だけれど一筋、疑いようのない感覚が、
昨年暮れからずっと続いている。

昨年暮れ、
姉から珍しく手紙がきた。

「正月は実家では過ごせない。
 おかんは、心も体も疲れてしまったんだろう」と。

生まれてから今まで、
あたりまえすぎて意識もしないほど、

「1月1日は、実家に帰るもの」

と決まっていた。
それが、父が脳梗塞になり、
母は介護疲れで急に老いが進み、

いまの母には、正月に大人数をむかえ、
もてなす気力・体力がない。

ごはんがつくれなくなった母のことは、
昨年5月11日付けのこのコラム
「おかんの昼ごはん」に詳しく書いた。

私は、
「正月に帰る場所を失うのか」
と淋しくはあった。
だが、「おかんの昼ごはん」を書いたころのような、
愕然とした感覚、おろおろとどうしていいかわからない感覚
ではなかった。

「とうとうきたか」と覚悟を決める感じだった。

それで、1月1日は、姉の家で、
父母も田舎から出てきてもらって、
みんなで過ごすことになった。

生まれて初めて正月をしきることになった
姉夫婦のプレッシャーは相当なもので、

姉は、4日前から準備し、
その疲れとプレッシャーからか、
宴会がはじまって、ほどなくして、
酔ってひっくりかえってしまい、
せっかくくろうした宴会に復帰できなかった。

私は私で、
酒などの買出し担当でしかなかったにもかかわらず。
なぜかピリピリしており、
あげく、せっかく買ったワインを忘れていき、
自分が忘れたにもかかわらず、
自分で怒り、
行くやいなや、場をピリピリさせた。

最悪の宴会になったか? といえば、
そうではなく、
ほんとうに心温まる、
いつまでも想い出にのこるような宴会になった。

「わかっている」からだ。

姉がなぜ体調が悪くなったか?
私がなぜ、めでたい席なのに行くなり怒り出すのか?

姉も、私も、母も、
おたがいのことを、とてもよく「わかっている」。

宴会の席には、
おでんや、おさしみ、かにの鍋など、
心づくしの手料理が、
いたれりつくせりでならんでいた。

元気なころのおかんの料理を思わせる。
姉が、この準備にどれだけ心をくだいたか、
言わなくても、伝わってきた。

私は私で、たかがビールやシャンペンを買うにも
3件も店をまわり、うるさく吟味し、奮発し、心を砕いた。

姉も、私も、母のことがとても大切で、
母とともにいる時間がとても愛おしくて、

大切で大切で、いとおしすぎて、
ついついがんばりすぎて、

姉は、体調を崩すし、
私は、なぜか怒り出してしまう。

母も姉も私も、そのことをおたがい、
よくわかっている。

根っこの気持ちは「愛情」。
だから、何かあってもあとを引かない。温かい。

母・姉・私、女3人で、
身を寄せ合うように育ってきた。
そして、一緒にいる幸せは、
進学や、結婚や、入院などの不可抗力で、
永遠には続かない、はかないものだと、
3人ともよく知っていた。

切なくも、あったかい、
泣けるようだが、笑うしかない、
考えてみれば、「いつもの正月」がそこにあった。

そのなかで何があっても動じない、
終始どっしりしたおかんがいた。

思えば、おかんは、
何十年とこの大変な正月のもてなしを、
ほぼ一人で、こともなげにやってきたのだ。

姉の世代でも倒れるくらい大変で、
姉の子、姪にいたっては、
大晦日のカウントダウンに疲れて
寝てしまい、手伝いさえもできない。

そんな、うちら以降の世代がなかなか難しい、
手づくりのもてなしを、母の世代は、まったく自然に、
何人おしよせても、あたりまえにやってきた。

やっぱり、温水器も炊飯器も無い時代、
真冬に手で米を研ぎ、飯を炊いてきた
おかんの世代は、鍛え方がすさまじい。

1月3日、父母について実家に帰った。

脳梗塞の父と、介護に疲れた母が、
どんな暮らしぶりをしているか、帰るのに覚悟がいった。

しかし、意外にもしっかりした生活があった。

ふとした瞬間、瞬間に、
母が父にみせる愛情、
それにいちばん心を救われた。

以前は、父が山にいってしまって捜索したり、
変わり果てた言動をし、
そのたびに、心えぐられ、すりへっていくおかんがいた。

父への愛情が強い分、
やってあげたい思い、
やらなければならないことが多すぎ、
空回りして、へとへとになるおかんがいた。

けれど、治療がはやかったので、
父はずいぶんと状態がよくなり、
ひとりで買い物にも行って帰れるようになった。

デイサービスに週に2回いけるようになり、
どうしても母がつらいときは、泊まりでケアも
してくれるようになり、
ケアマネージャーさんに
あれこれ相談できるようになった。

なにより、戦中戦後に育ち、
真冬に冷水で米をとぎ、手で洗濯をし、
コンビニもケータリングもない時代に、
正月の宴会を一人できりもりしてきた母の、
生活力の基礎。

それは、老いて、できないことが増えて行っても、
今の世代に真似のできない、筋金いりの基礎だった。

「医療」と「福祉」と「家庭」、

この三つが、しっかりと噛み合い、
リンクし、稼動し始めているのを感じた。

父母はこれからが大変だろうし、
日本の社会は老後が不安だといわれるし、
それも事実だろう。

けれども、ど田舎の私の故郷でさえ、
構造的に組まれた医療・福祉のサービスが
受けられている。

姉は高齢者を対象とした音楽療法士の仕事をしており、
姪も、社会福祉士で、高齢者の福祉を考えている。
新しく甥のお嫁さんになった人は看護師だ。

姉も、姪も、お嫁さんも、父のケアマネージャーさんも、
自分の人生を投じて、高齢者や病人のことを考えている。

実家で、
おもいがけず、
おかんの「雑煮」を食べた。

何年ぶりだろう?

こどものころから私は、岡山県北の、新見の流儀の、
おかんのつくった雑煮を、毎年食べて育ってきた。

「おもち何個たべるん?」

正月の朝は、おかんのこの質問で目覚め、
それをうっとうしく思った時期もあった。

また雑煮かとうんざりした時期もあった。

近年、わたしは、ダイエットのために
炭水化物をへらすといって、
正月に、もちを食わなくなった。
母は、いつものように、

「おもち何個たべるん?」

と聞き、私が、
「食べん。朝はコーヒーだけにする。」
と言い続けるのを、
妙に哀しそうな顔をしていたおかんが
いま思い出すと浮かぶ。

おかんはやがて気を使って、
「おもち何個たべるん?」とは、もう聞かず、
代わりにコーヒーをいれてくれるようになった。

そして、父の脳梗塞、
おかんが料理をつくれなくなってから、

むしょうに、おかんのつくった、ふるさとの雑煮が食べたい   
と思い続けた。

この正月、

おかんが雑煮をつくってくれた。
お醤油味のダシのきいたおつゆに、
ぶり、はまぐり、うっぷりという海苔、かつお、ねぎ、
はらにしみるおいしさだった。

この一杯のなかにふるさとがあった。

「おもち何個たべるん?」

2個!
と私が言うと、母はうれしそうだった。

ダイエットのへったくれの言わず、
感謝して、はらからおいしく、
この一杯のお雑煮を食べること。

去年までの人生で、
そんな単純なことが私はなぜできなかったのだろう?

そして、2012年正月、
やっと私は、ほんとうにおいしいこの一杯の雑煮を、
はらからおいしいと思って、感謝して食べる、
という自由を得た。

旅立つ日、ふるさとは大雪、

雪のなか、凛として、母は立って、
私のタクシーが見えなくなるまで見送ってくれた。

ふるさとの雪景色のなか私は思った。

希望がある。

昨年暮れの静岡での集中講義も、
まるで、「文章表現の歓び」の原型を観るような
感動だった。

そして私は正月に
一番食いたい雑煮を食べることができた。

希望は、人生の高値安定のときには無い。
それ以上なにか望む必要がないからだ。
それ以上なにか望もうとすれば、
ゆがんだ願望や、幻想になりやすい。

それ以上の夢にしがみついていたとき、
私に希望はなく、
なぜか苛立ちと不安ばかりが寄ってきた。

人生で、多くを失い、多くを手放し、
現実にやられ、受け入れ、明らめていった果てに、

「それでもこれだけは」

と湧き上がってくるもの、
それが「望み」だ。

望みは、
捨てても捨てても、失わないもの、
手放しても手放しても、自分のものである。
たいては、じぶんが気づかず、
ずっとがんばってきたところにある。

望みを自覚したとき、
人や社会のほうからも、
「やあ、それはいいね」と光が射すような瞬間がある。

そこに希望がある。

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2012-01-11-WED
YAMADA
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