YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson568
  読者たちが見た「ノンアルコールビール社会」



先週の「ノンアルコールビール社会」に、
とてもたくさんのおたよりをありがとう。

タイトルの「社会」に込めた意味を、
ほぼ日の読者たちが、
みごとに読み取ってくれていたことに感動した。

まず、3通、一気にお読みください。


<買ったばかりのビールがずっしり重たく‥‥>

先週の「本物」と「リスク」の話、
苦い思いを噛み締めながら
じっくりと読ませていただきました。

その問題は、ここ数日、
私の心を占領して離れずにいました。

同年代で、同性の私から見ても非常に魅力的な人で、
ぜひお話ししたい、
友だちとしてお話しできるようになったらいいな、
と思っている方がいました。
そして、先日、
彼女がある集まりに参加すると聞いて
出かけて行ったのです。

他の人たちが彼女と話しているのを気長に待ち続け
声をかけたところ、
とても話が盛り上がり、
もう少し飲みながら話しましょうと彼女が提案。
一緒に追加のビールを頼みにカウンターへ向かいました。

ビールを買い、先に席に戻った彼女の方を振り返ると
他の方が声をかけ談笑されている。

そこで、私はつい足が止まり‥‥
なぜか彼女のいるテーブルに戻らずに
会場にいた他の知り合いのところへ
向かってしまったのです。
そして、そのまま彼女と話すことはなく、集まりは終了。

あの時、なぜそんな行動をしたのか
自分でもわからなかったのです。

彼女と話したくてわざわざ会場へ行ったのに。
とても楽しく話していたのに。
他の人と話していたとしても、
そこに戻って一緒に話せばよかったのに。

「私は少しだけど彼女と話をすることができたのだから、
 彼女と話したくて声をかけた方の邪魔をしちゃいけない」
と、思ったのは事実で、
それを自分の不可解な行動の理由だと思っていました。

しかし、その理由だけではどうにも納得がいかない。
なんとも後味の悪い気持ちを引きずって
数日を過ごしていました。

ビール、と聞くだけで
他の人と話す彼女を見たときに、
買ったばかりのビールがずっしり重たく感じたことや
彼女と一緒に楽しく飲むはずだったビールを
チビチビと気持ちを持て余しながら
飲んでいたことを思い出し、胸が痛みます。

ズーニーさんのコラムは、
胸をズキズキさせながら読みました。

そして、読みながら途中でハッと気づいたのです。
私が不可解な行動をしたのはなぜだったのか。

あのとき、私は傷つくことを恐れたのです。
「リスク」を負いたくなくて、少し話せてそれで満足、
という安心に逃げ込みたかったのだと思い至ったのです。

かつて、とても仲良くしていた友人が
とてもエネルギッシュで魅力的だったため
話せば話すほど、
自分が自信を失っていくのを感じたことがあります。
友人が次々といろいろなことに挑戦している話を
聞きながら、応援していると言いつつも
嫉妬のような嫌な感情が抑えきれず、苦しかったのです。
そして、あまりこちらから連絡したり会うことが
なくなってしまいました。

あの集まりで話した時、想像していた以上に魅力的で、
嬉しそうに話をする彼女に
私はその友人の姿を一瞬重ねていました。
(その時は、あれ? 誰かに似てる?
 と思った程度でしたが‥‥)

あの時、彼女と、もっと話をしたら、
また私は嫌な思いをして傷ついてしまうと
反射的に感じたのでは、と思うのです。

そう思うと、自分の不可解な行動にも納得がいきます。

『本物を手にするにはリスクを
 引き受けなければならない。』

あの後、それでもやはり彼女ともっと話したい、
と思っている自分がいます。

もしかしたら、私はまた傷つくのかもしれない。

でも、過去の想いに囚われて、
自分の気持ちに蓋をしてしまうよりも
もう一歩前に踏み出してみようと思っています。

「返事がこなかったらどうしよう」と、
書いたものの送信ボタンを押す勇気を
持てずにいた彼女へのメールを、今日、送ってみます。

そう決めるとまた胸がズキズキし始めるのですが‥‥
それも、本物を手にするための「リスク」なのだと、
引き受けようと思います。
(PaoPao)


<わたしが手にしたい本物>

ノンアルコールビールのお話
わたしも同じような事を
疑問に感じています。

「あそこの店なら
 味に間違いがないから」
とか
「この人が言うのなら
 そうだろう」
とか
「このお店で売っているものなら
 大丈夫」
とか
わたし最近
そうした安直な自分の判断に
イライラを覚えています。

もちろんそれぞれ
「このお店が好き」
だから行くのであり
「この人の思考が好き」
だから耳を傾けるのであり
「このお店を信頼している」
から買い物をするのです。

でも
考えぬいた結果ならともかく
考えるのが面倒だから
という理由で
というか
そんな無意識で
世の中のスタンダードや
自分のスタンダードを選ぶと
後味悪いです。

あまのじゃくに
無理矢理でも
ステレオタイプを選ばず
ずいぶん回り道をしたり
後ろ指さされたり。
そうやって積み重ねてきた
自分自身の判断を
自分で破壊しているような。
しかも無意識に。
タチが悪い。

ズーニーさんの
話を読みながら
とても自分が情けなく。

どんなことでも
飛び込んで
そこから
何か流れを見つけて
そこに乗っかることも
必要なことがあるけれど
ちょっとでも
可能性を思ったら
あえて乗っからず
自分で流れを生み出す。

それって
生きていくには
とっても力が必要だし
やっぱり時には反感買うし
ぜんぜん万人受けしない。
自分の生き様
そこが嫌だったけれど
そこを何よりの強みにしてきたのに。

それなのに
いつの間に手放してしまったんだろう。

確かに
無限に生きられもしないのだから
やっぱりどこかで効率よく
手にしたいものはある。
あれもこれもと
欲を持つ事は
悪いとばかりは思わない。
それがあるから
がんばれることもあるから。

それでも
見失ってはいけないことは
自分にとっての本物。

ふと思った
ぜんぜん横道な話ですが。

「無縁仏」と書かれた墓や塚。
あの「無縁」って
どうにか他の言葉に変えられないかと
本当にいま
ふと感じました。

「墓の面倒を見る人が
この世にいないから」
とか
「この世にはもう
血のつながった人間がいないから」
という意味で「無縁仏」と
ひとくくりにされているのなら
死んだ人をバカにしているなぁ〜と。

縁もゆかりもあって生まれてきたのに。
「袖すり合うも他生の縁」とか
言っときながら
なんだよ! と
ふと思いました。

すみません。
本当に横道で。

わたしにとってのリスクは
なんだろう。
自分自身が傷を負う事は
やっぱりリスク。
人にバカにされるのもリスク。
う〜ん
ひょっとして
バカにされる事が一番嫌かも。

わたしが手にしたい本物は
友人とか
物とか
というより
生き抜く力とか
動く力とか
感じる力とか
そういった力かな。

それらは
「いいとこ取り」していては
絶対手に入らない。

ひょっとしてわたしは
本物の縁を手にしたいのかな?
人とも
物とも。
苦言も言い合える人に
あらゆる不都合も全部ひっくるめて愛せる
そんな物との縁。
それかな?
(泉鈴)


<「っぽい」だけでは、何も得られない>

「Lesson567 ノンアルコールビール社会」を
読んで

日本の社会は「動機」が減ってきているな。

ということを強く感じます。

「将来の目標は、安定した会社に入って、家族を持つこと」
という若者が増えています。

「で?」

これは、目標でしょうか?
単なる状態、現象ではないのでしょうか?
「その状態で、何をしたいの?」

民主党を見ていても「動機」が見えない。
「与党であること」「政権第一党であること」
を務め上げることで精一杯で、
「与党として、政権第一党として、何をやりたいのか」
見えない。

米軍基地問題、TPP、立場によって功罪がある。
全員がハッピイなんて有り得ない。
そんな中で動機がなかったら、何も決められない。
決められるわけががない。

「政権を取ったら、全部自民党の逆をやってやる!」
純粋か、不純かはともかく「動機」がないと進めない。
他国とも交渉できない。
他国も動機が見えない相手を利用することはできない。

「管理職だから管理職っぽく務めなければ‥‥」
そんな上司の下で面白いだろうか?
「ついて行きます!」なんて論外。

自分独りでは出来ないことを、
部下の力を借りて、より大きなことを成し遂げる。
だから、「部下の動機付けだ、育成だ」
「いっしょに謝りに行く」「部長と部下の板挟みになる」
「注意して、疎まれる」
そんな諸々の面倒があることもしょうがない。

安定した家庭も、政権を取ることも、管理職であることも
全て「動機のための『手段』」のはず。

「っぽい」ことで、リスクは避けられるかもしれないが、
そこから何も得られないと思う。

冷や汗や涙も含めた、流した汗が、ビールを美味しくする。

『One Piece』というコミックスの1巻が300万部も
売れる理由は、ここなんじゃないかと思う。

実は、沢山流した汗の先のビールを
みんなは求めている。
(森 智貴)



先日、よる、一人でワインを飲みながら、
「きょうは、このくらいにしておこう。」
とグラスを置いた。

次の日の仕事を大事にしたいので、
コンディションを考えてのことだ。

「ここでやめておこう」
と思った瞬間、

「まだグラスにのこっているじゃないか。
 捨ててしまうのか、もったいない。」
と責める自分や、

「もうちょっと飲みたい。」
と思う自分や、

「いいじゃん、飲んじゃえよ。」
と悪に誘う自分が、
わっと出てきて、

「いかんいかん、絶対、ここでやめる!」
と自制するのに、
心と体の筋肉が、ぐっ、とふんばった。

もし、これが代用ワインなら、

がぶがぶと、気の済むまで飲んでいられて
なんにも問題はないのだ。

「代用ワインに活躍してもらって、
 自分の心と体の筋肉はラクをするか?」

「本物のワインで、
 自分のほうが、加減を考えたり、自制したりして、
 心と体の筋肉を使うか?」

日々、コツコツと積み重なると、大きな差だと思った。

ほんのちょっとだけラクをしたくて、
あるいは、ほんのちょっとだけ面倒で、
一時的に、便利な代用品を使ったつもりが、

いつのまにか、
大事なものを一滴一滴と失ってしまっている。

そういう危険は、
今の社会、すぐそばに、
パックリ口をあけて、あるなあと、
読者のおたよりに改めて感じた。

そして、そこから抜け出す鍵も、
実は、日々ちょっとした積み重ねなんだと
読者のメールが教えてくれる。

ヒントをくれる読者メールを紹介して
きょうは終わりたい。

これなら自分にもできるんではないかな?


<ほんとに小さなことだけど>

本物とリスクは連動しているということを
考えさせられました。

本物は綺麗事とは違うし嫌な部分もある。
人から心配されるリスクももちろんある。
そして、勇気も沢山沢山使う。

一つ事例を挙げて見ると、
一回の飲み会に参加した時、
(断られる可能性があるけど)自分から誘ってみる、
(のってこない可能性があるけど)自分から話題を
振って見る、
(好きなものが一緒じゃないかもしれないけれど)
自分でこれが食べたいなと言ってみる、

本当に小さなことだけれど、
自分から勇気を持ってアクションを起こした時の飲み会と
そうじゃなかったときの飲み会の後味は全然違う。
(水波)


<ラクチンな関係はラクにほどけてしまう>

人一倍のさみしがり屋を自認しているわたしにとって
今回のテーマはとても興味深く、胸にせまるもので、
メールを書かずにはいられませんでした。

ともだち風味な人間関係は
わたしにとってとても居心地の悪いものです。

でも簡単に手に入れられるから、
安易に飛びついたことが何度もありますが、
そこで本当に求めていることを得られたことは
ありませんでした。

人との関わりでわたしが求めているのは、
「むきだし」です。

時間を共有して楽しい。理解が深まってうれしい。
必要とされて満たされた気持ちになる。

でもその過程では自分自身が
むきだしにならずにはいられません。

そしておそらく相手にも
むきだしになって欲しいと望んでいます。

むきだしは不安でもろく時に苦痛を伴うものだけれど、
でもそれをリスクと感じたことはありません。

わたしがリスクだと思うのは、勘違いです。

自分の求めているものを相手から与えられないとき、

「相手が気づいていないのかな。
 自分の求め方が間違っているのかも。
 タイミングの問題?」

などと思って、あきらめることをせず
執拗に求め続けてしまうこと。

でもそんな時、相手はわたしが欲しいものを
もともと持っていないことがほとんどです。

与えないのではなく与えることができないのだ
という可能性を考えることを忘れてしまっているのです。

最終的にそのことに気づくまでに、
力や時間をたっぷり使い、
悲しい思いや怒りさえ生まれて、
心が折れてしまうこともしばしばです。

でもそれがあってこそ相手を理解でき、
否定的ではなくより肯定的に相手を見ることが
できるようになるのだと感じています。

ともだち風味とそうでない関係は、
心のそこから気に入って、
でもお金が足りなくて何度もあきらめようと思ったけど、

頑張ってお金を貯めて
やっと手に入れた物は大切にするけれど、
安いからと安易に買った物はなんとなく雑に、
なんとなく適当に使ってしまうのと似ています。

誰もが簡単に出入りできる環境は楽ちんで安全で簡単。

でも同時にお互いの結びつきも簡単。
すぐほどけてしまう。
(マイ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2011-12-14-WED
YAMADA
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