YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson567
  ノンアルコールビール社会



ノンアルコールビールに、
ノンアルコールカクテル、

アルコールもなければ、
カロリーもない。

酔わない、
太らない、
体になんにも害がない。

現代人の人づきあいも、
だんだんこういうものになっていくのかな。

友情も、恋愛も、職場仲間も、

みかけそっくり、
危険フリー、

でも考えれば考えるほど飲む意味がわからなくなる。

きょうは、
「ともだちのようで、ともだちでない」
ビールによく似たノンアルコール飲料のような人づきあい
について考えてみたい。

まず、ノンアルコールビールには、
ほんとうに感謝していることを伝えておきたい。

妊娠中・授乳中の友人との宴会や、
なんといっても、
脳梗塞をわずらっている父との晩ごはんに、
私は、心の中で何度、
ノンアルコールビールに御礼を言っただろう。

昔、ノンアルコールビールが無かったとき、
あってもまずくて飲めたシロモノではなかった時代、

宴会に「飲みたくても飲めない人」がいると、
その人は飲みたくてストレスがたまるし、
そんな人の目の前で酒を飲むほうも気が引けて、
飲んだ気がせず、
ほんとに、みんな、とってもツラかったのだ。

いまや、本物そっくりの、とってもおいしい、
ノンアルコールビールや、ワインや、カクテルや
シャンパンがあって、

まるで夢のようだ。

わたし自身も、夏の暑い日、
「このあと原稿を書かなければ」というとき、
冷たいノンアルコールビールを一杯やって、
すっきり晩酌をしたようなリフレッシュができるし。

また、ダイエット中、
飲んだら飲んだ分だけ、
正直に体重計に反映されるビールだけど、
カロリーゼロのノンアルコールビールに替えただけで、
ほんとに翌朝1グラムも増えない。

「こりゃあ便利だ。常備しなきゃ」
ともりあがって、
きゅうに、ハタ、と立ち止まった。

「アルコールもない、
 カロリーもない、
 からだになんにも作用しない。
 だったら、なんで私は、コレを飲んでいるのだろう?」

味が好きかと問われれば、
もともと私は個人的にビールの苦い味が好きではなかった。
味だけなら、梅昆布茶とか、
グレープフルーツジュースとか、
甘酒のほうが好きだ。

なんで、ニガいのを押してもビールを飲むか?

あの、
アルコールによる独特の解放感がほしくて。

ふわっといい気持ちになりたくて、
いい気持ちになって、
まわりの人と解放されあいたくて。

だったら、私は、なぜ、その肝心のアルコールを
わざわざ抜いて飲んでいるのか?

リスクがあるからだ。

思考力が弱まったり、
気が大きくなってヘンなことを言ってしまったり、
酔ってケンカになったり、
太ったり、
胃や肝臓をいためたり、

飲みすぎて、はめをはずしすぎた翌朝の、
あのなんとも言えない罪悪感。

ノンアルコールビールは
リスクを排除してくれている。

安全で、安心。だけど、でも、

吐いたり、
罪悪感にかられたり、
二日酔いになったり、

リスクをしょって、
失敗を繰り返しながら手にしていく「何か」
が無い。

妊婦や運転する人、病気の人、飲めない人には、
うたがいようのない必需品だけど、

どんな必需品でも、
たとえば、いい大人がオムツをしていたらおかしいように、
頼るべきでない人間が依存すると、なにかがおかしくなる。

人間関係とおなじだ。

「ともだち風味。
 けど、ともだちとは何かが決定的に違う」

そんな人間関係に依存しかけた時期が
私にはある。

プライバシーに抵触しないように、
人物や設定に大幅な改変を加えてお話しする。

その年、私は寂しかった。

私には、とてもいい友人がいるのだが、
その年はたまたま、結婚や、出産や、留学や、転勤やで、
ふだん遊んでくれていた友人が、
一気に遊べなくなってしまった。

加えて、10年来、しょっちゅう一緒に遊んでいた親友と
大ゲンカのすえに、絶交を言い渡されてしまった。
これがいちばん傷ついた。自信をなくした。

そんなときに、
地域のコミュニティーにお誘いがあった。

要は、同じ町内の人が、
集まって、食事会をしたり、
七夕などのちょっとしたイベントをしたりする。

町のコミュニティーづくりに熱心な発起人が、
がんばって定例で会をもよおしていた。

ふだんの私ならいかない。

私は、宴会するなら、
好きな友だちどうしとか、
あるいは、仕事仲間と打ち上げとか、
あるいは、社会人の生徒さんたちと
ワークショップがうまくいったあとに宴会とか、
「なにか通じ合うもの」があるから愉しいとおもうからだ。

でも、そのときはよっぽど寂しかったのだろう。
また、自信を失ってもいた。
なので、自分でもよくわからない集まりに、顔を出した。

行ってみると、以外に若い人も多く、
人あたりの良い人が多くて、温かい感じがした。

なにより、一人暮らしのごはんより、
大勢で食べるごはんはおいしかった。

なにかがちがうな、とはおもったが、
やっぱり人恋しさが先に立ち、
私は、定例で顔を出すようになった。

この会のシステムにのっかってると、便利で安心だ。

誘う苦労も、誘って断られる寂しさもない、
とにかく定例で顔をだせば、自動的に、ウエルカムで
アットホームな継続した関係がそこに用意されている。

でも、何かが違う。

違うというのは、地域の集まりがいけないとか、
そんな意味ではなく、

寂しさと親友に嫌われた弱気から、
地域の集まりに、「ともだち」のようなものを
期待してしまった自分が、
やはり決定的になにかちがうんだと思った。

人は、属性でくくられても、
そうカンタンにはつながれない。

たとえば、同じ町内にいるから仲良くなれるかというと、
そうでもなくて、かえって、
すごく遠くに離れた友人のほうが、
仲良くなれたりすることもある。

「ママ友」も、同じ幼稚園に通う子どもがいるから、
という属性だけでひとくくりにされたら、
ともだちになれるかというと、難しいだろう。

属性だけで集められているから、
良い意味でも、悪い意味でも、会話が浅い。
それ以上、踏み込もうとしても、かわされてしまう。

深まらないのだ。

自立して、友人や、恋人や、仲間をつくれる人は、
しだいに、他の関係に忙しくなり、会にこなくなった。

「このままでは、自立して友だちをつくれない人、
 私のように、傷ついて人に対して臆病になってしまった
 弱いものの温床になるな」

そう考えて、勇気はいったがその集まりから足を抜いた。

自分がほしいのは「ともだち」なのだ。

そのためには、勇気を出し、
傷つくのを恐れず、失敗を重ねながら、
自ら人に向かっていくしかないと、気づかされた。

ともだちをつくるというのは、
仕事や勉強のように、
努力だけではどうにもならないところがある。

自分が相手を、おもしろい、好きだ、
友達になりたいと思っても、
相手のほうが、自分のことを、つまらない、嫌いだ、
友達になりたくないとおもうこともある。

だから、傷つくこともあるし、
自分を磨かなければならないし、磨いたって、
不条理で、つかみどころがない。

だから、そうしたリスクの一切ないところで、
安心・安全に人とつながれたらと考える人もいるけど、

安心・安全でリスクのないつながりは、
「ともだち風味」。
ノンアルコールビールのようなもので、
表面上そっくりでも、決定的に「何か」がない。

「好きだ」と言う気持ち、心のあり方だけで、
純粋につながっているのがともだちで、

心が求めるからこそ、大切だからこそ、
その関係のなかには、どこか緊張感があるし、
ぶつかったり、すれちがったりするし、
引き合ったり、離れたりするし、
残酷な現実をみせられたりもするけれど、

そうしたリスクを全部引き受けて、
失敗を繰り返しながら本物を目指そうと
そのとき強く思った。

ちいさくても勇気から出た行為か?
それとも臆病から出た行為か?

人の輪に入っていくときに、このふたつはずいぶん違う。

人に向かっていくときには勇気が要る。

そして、好きな人には勇気を出して
自分から向かっていかなければだめなのだ。

おいしい味だけ味わえて、いっさいのリスクはない。
そんな便利なものが次々でてくる世の中で、

友情も、恋愛も、職場仲間も、
おいしいとこだけ味わいたい、
面倒なことは避けて通りたい、
傷つくのはまっぴらだ、と、つい、思ってしまう。

でも、そこに本物は無い。

本物を手にするにはリスクを
引き受けなければならない。

いま、自分が手にしたい「本物」とはなんだろうか?
引き受けなければならない「リスク」とはなんだろうか?

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2011-12-07-WED
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