YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson566
  マニュアル本、使うべきか離れるべきか?



「こんまりさん」という、
片づけコンサルタントの本が、
大変評判になっている。

なにしろ、
どんな散らかった部屋でも必ず片づく。
いったんこの方法で片づけた部屋は一生リバウンド無し。

方法はシンプル。

捨てようかどうしようか迷うもの、
たとえば服なら服、本なら本を、手に持って、

「ときめくかどうか?」

ときめくならとっておくし、
ときめかないなら、
どんなに高価なモノだろうと、
どんな大事な人からの贈り物だろうと、
潔く捨てるというものだ。

この話を聞いたとき、
私は、なにかこれまでに無い、新しい感じがして、
「いいな」と直感した。

私はノウハウ本は読まない人間なのだが、
9月にたまたまこの人が出ているテレビ番組を見て、
ものは試しに、

「ときめくかどうか?」

とやってみたら、
ずっと片付けられなかったリビングが、
あっという間に片づいてしまった。

あんまり効果てきめんだったので、
こわくなって、ハタ、と考えた。

「モノサシを一元化してしまうこと、
 それはいいことなんだろうか?」

どうして部屋がなかなか片づかないかというと、
人間が、ひとつのモノサシでなく、
いろいろなモノサシで考えるからだ。

服なら服を捨てるかどうかで迷うとき、

「ときめくかどうか?」のモノサシもあるが、
「必要かどうか?」というモノサシでも考える。

この服はおばあちゃんからのプレゼントだ。
捨ててしまったら、おばあちゃんは悲しまないか、
というような、
「しがらみ」というモノサシも顔を出す。

多様なモノサシで考えるからこそ、人は悩む。

そこで、このモノサシを、
「ときめくかどうか?」という1本にして
後は捨ててしまえば、
おそろしく効率よく判断ができてしまう。

考えすぎる人間の私は、

「モノサシが一本化・単純化したら、
 人はもろいんじゃないか」とか、

「日本の何千万世帯が、
 全部、ときめくものだけになったら、
 それはそれでちょっと恐くもある」とか、

「ときめくというモノサシが席巻して、
 会社でも、ときめかない人材は切り捨て
 なんてことになったらどうしよう」とか、

「だったら、悩んでいたほうがいいんじゃないか?」

という結論になりかけていた。
でもなあ、

「ときめくかどうかのモノサシも大事」、
「必要かどうかのモノサシもいる」、
「しがらみのモノサシも捨てられない」、

「要はそのバランスだ」とか、
「配分だ」とか、
「ときめき7割、必要2割、しがらみは1割以内に‥‥」

なんて言っていては、
思考が複雑になって、めんどうくさくなって、
一生ちらかった部屋に住む、なんてことにもなりかねない。

ノウハウ本などの「加工品」抜きには
暮らしていけない時代にあって、

私たちは「加工品」とどうつきあったらいいんだろう?

悩んできたところへ、
読者からこんなおたよりがきた。


<こどもに出す道をつくっているか?>

中学校で非常勤講師をしております、金時豆子です。
横尾忠則さんの授業の話(Lesson 563)、
本当にワクワク・ドキドキしながら読みました。

特に、子どもたちには
「自分の出したいもの」がもともとあって、
模写によって「出す手続き」を知った(体感した)途端、
オリジナリティ溢れるものをつくり出した。
という解釈は、本当にすとんと落ちました。

と同時に、中学校で教える者として、背筋が凍りました。

私は教師として、
子どもたちに「出す手続き」を
しっかり教えているだろうか‥‥

横尾さんの授業で子どもたちが「無防備」になり、
創造性を「解放」できた理由の一つに、
「安心感」があったのではないか、と私は考えています。

最初の模写の後、
「新しい自分の絵を」ではなく「また同じ絵を」
と言ったところがミソだったのではないでしょうか。

「もう一度、絵を見ずに模写しなさい」という課題は、
「真似してよい」「模写すれば少なくとも合格点はとれる」
ということを意味しています。

そして「自分は(一度やったので)模写できるはず」
と子どもたちは思っているわけです。

しかも一人一人違う絵を模写するのだから、
「出来栄えを他人と比べられる心配はない」のです。

「自分の絵を」と言われたら、
模写した絵を真似しないように、という方向で考え、
子どもたちは緊張し、
描けなくなってしまったのではないかと思います。

そういう安心感、つまり
「失敗はあり得ない教室づくり」
「他人や評価を気にせず、
自分の表現に集中できる教室づくり」が、
横尾さんの授業では
見事に達成されていたのだと思いました。

子どもたちは教室の中で、
「みんなと同じくらいちゃんとできるだろうか」
「合格点をもらえるだろうか」
「恥ずかしい思いをしないですむだろうか」ということを、
かわいそうなくらい気にしていて、
いつも硬くなっているのだと、日々感じています。

さて、「出す手続き」の教え方ですが、
私の漠然としたイメージは「そっと差し出す」です。
子どもは毎日、いろんな新しいことを経験し、感じて、
いろんな「表現したいもの」を抱えています。
次から次へと湧き出てくるのです。
(たぶん、大人以上に。)

それらを早く外に出してやらないと、
知らないうちに消えてしまったり、
後がつかえて苦しくなっていくのだと思います。
(まるで便秘のように。)

そしてそれが続くと、子どもはせっかく湧いてきた
「出したいもの(表現したいもの)」を
無意識のうちに「無かった」ことにしてしまうのではないか
と思うのです。

だからいざ、例えば入試や就職活動で
「自分なりの考え」を求められたとき、
「無かった」ことにしてしまったものを掘り出すのに
苦労するのではないでしょうか。

少なくとも中学校くらいまでは、
出し方がわからずにモゾモゾしている子どもを見つけたら、
適切なタイミングで適切な表現
(ちょっとした文とか、イラストとか)を、
大人がそっと差し出してやるのがよいのかもしれません。

同じ教室の他の子どもに気付かれないくらい、
本人の集中を乱さないくらい、そっと静かに添えてやる、
という感じです。
「これは自分で見つけたすてきな表現なんだ!」と
本人が思い込んでしまうような、そんな絶妙な差し出し方…
これができる人は、すばらしい教師なのかもしれないなぁ、
と思っています。
(どうやったらよいのか、
具体的な方法はまだわからないのですが。)

学校教育の現場では、
こういう「差し出し」を「子どもの個性を壊す押しつけだ」
という理由で、批判する人もいるみたいです。
でも、ちょっと作文の書き出しの文章を与えたくらいで、
子どもの個性は失われたりなんかしないと思います。

「個性が失われる」とか
「教師の考え方を押し付けられる」ということよりも、
「せっかく内に秘めている考えや感情が出せないために
失われてしまう」とか
「どうせ出せないから
 はじめから持たないことにしてしまう
 (無かったことにしてしまう)」という方向に
育ってしまうことの方が、
ずっと深刻なことなのかもしれない。

子どものうちは、他人の真似かどうか、なんて気にせず、
自分の内にあるものを形にして出す
(表現する、言葉や絵などにしてその存在を認識する)
ことを、とにかく沢山、
一生懸命やった方がいいのかもしれない。

それを実現するために、
誰かが本人の代わりに「表現してみせる」ことは、
むしろ推奨されてもいいのではないか。
(もちろん「やり方」と「タイミング」には
気を付けなければなりませんが。)
Lesson 563〜565を読み直しながら、
そういう思いに至りました。
(金時豆子)



このメールを読んで、
ああそうかと、

「こんまりさんは、出す道を用意したんだ!」

と気づかされた。
小説家でもなく、画家でもなく、
なかなか表現する機会がない一般人に、

だれでもできるシンプルな方法で、

自分の内面にある想いや感覚を
外に出す道をつくった。

「ときめくかどうか?」

という問いかけは、たしかに
モノサシを一元化してしまうリスクはあるけれど、
「必要かどうか?」という問いかけとは違い、
「3年使わなかったら捨てろ」というような
外的な判断基準でもなく、

その人の内面。

美意識や、感性や、想いなどの、
その人ならではの内面に問いかけ、
ひっぱり出し、
捨てるか残すかという行動で表現させるチカラがある。

捨てた後には、
ほかのだれでもない自分の内的感覚として、
「ときめく」と感じたものだけが、
部屋に陳列されていく。
それを見ることは、自分の中にある美意識と
通じる行為だ。

こんまりさんが新しいのは、

個人個人ちがった内的感覚を引き出す
良い問い「ときめくかどうか?」があること。

シンプルな良い問いによって、
「自分に問う=考える」
ということを、だれにもたやすくできるようにしたこと。

考え、自分の感覚と通じることを、
いともシンプルに、楽しくさせることを通して、
一般人にも、「表現できる手立て」を用意したことだ。

よいマニュアルは、
自分の感覚に蓋をせず、
解放の手立てを用意してくれているんじゃないか、

今日は、そんなことを考えた。

マニュアルは使うほうも悩むけれど、
つくる人も、さらに悩む。
会社でそういう仕事をしている読者を含め、
4通のときめくメールを紹介して、
今日は終わりたい。


<こどもは同じ絵を描きました>

昔から言われている言葉
「守破離」を思い出しました。

まねる事は、
やり方を知る、
物事の本質を探る
ことに非常に役に立ちます。

それがあって初めてオリジナリティーを
出していけるんだという事を学びました。

自分の中にあるものを開放する、
まねるのは、その手段を獲得するために
必ず必要なんだと思います。

娘の幼稚園の時のお絵描きのこと。

お題は鳥。

来年はとり年だから、鳥の絵を描きましょう

うち子は、うちに緑のセキセイインコがいて、
毎日その絵を描いていたので、
「いんちゃん」の絵を描いたのでした。

ところがクラス全員の絵を見てびっくり!

なんと、クラスの中の3分の2以上の子が、
「いんちゃん」を書いているじゃないですか!!!

想像ですが、みんな何を書こうかと迷って、
一番にできたうちの子の絵を真似したんだと思います。

先生はいつも絵を描く時に
「真似をしちゃいけない」っていうらしいですけど、
鳥を身近に知らない子にとって、
そのお題は非常に難しいのだったと思います。
描き方を知らない子にとっては
「真似」はとっても大事だって思います。

まねちゃいけないって言われても、
幼稚園の場合は、隣とおんなじものを書く子が多いです。
それをダメ、っていうのも逆におかしいんじゃないかと。
真似はダメっていうなら、
何か子どもがかけるためのサポートが必要だと。

「表現」をするには段階が必要。
言いたい事を言うのに、言葉をしらなければ、
言葉では表現できないもの。

「ペリーニョ」さんの幼稚園での同じ絵の衝撃。

教育の現場では、
何のために同じものを書かせるのか?
その意味を教える側がしっかりと持っていないと、
このようなことが起こるのではないかと思います。
(潔子)


<標準化を進める部署にいました>

生と加工品について考えてみました。

僕は、
生に対して意識を集中することを
とても大切にしていますが、
実際には、僕の会社の中での仕事の目的は、
加工品を薦め、提供することにあります。
そうせざるを得ないという意味ではありません。

僕が先日まで会社の中で所属していた部署には、
「標準部」という部署名がついていました。
会社の中で、業務、システムの標準化を進める部署です。

標準化とは、業務に対する知識、経験、方法をモデル化し、
そのモデルを使って誰もが同じように
業務ができるようにすること。

「誰もが」と「同じように」いうことがポイントで、
たくさんの人間の共通理解を必要とするため、
コミュニケーションは非常に楽になる、
言葉が通じやすくなるというメリットがあります。
また、標準化した結果、業務の効率化も実現し、
効率化に生まれた時間を、
自由に創造的に仕事ができると時間する。

論理的にはこんなふうに考えて、
デメリットもあるかも知れないが、
この仕事を進めてきました。

つくづく思うのは、
標準化には、加工品の要素が多分にあります。

あるモデル、型にはめ込むような部分があります。
こういう仕事の仕方だけをしてくれという部分があります。

部分がありますと言うのは、
実は加工品を食べながら、
たまには生を食べましょうよと
意識して伝えるようにしています。

でも、自分の仕事を振り返ると、
生と加工品のバランスを取るのがとっても難しい。

上記のようなメリットがあるのですが、
例えば、コミュニケーションが楽になるということは、
考えることを避けてしまうことがあり、
例えば、標準化が生み出す、
自由で創造的な時間が生まれるには、
標準化することに耐え、
自由が生まれる時間をじっくり待つという
受け手の姿勢が必要で、
なかなか待ちきれずに、諦めてしまうこともある。
加工品の後に、生を食べることを想像し、我慢する。

生も加工品もバランスが大切と思うのですが、
何を加工品と思い、何を生と思うか、
これはかなり個人差があるように感じてならないので、
いつも葛藤の中にあります。
(鈴木)


<教えるのでなくさせる>

解放しろ解放しろと言うのではなく、
解放の感覚を体験させる、
横尾さんの教えは万事に通ずると思いました。
衝撃を受けました。
(Sarah)



<母の言葉の重さ>

先週のコラムも
面白く読ませていただきました

でかい分子のように
自分で栄養を吸収して言葉を発している人は
ボディブローのような重い言葉をぶつけてくる。

うちの母はきれい好きだ。

暇があればレンジフードを磨き、
壁と床の接する面を楊枝で掘り返し、
家中のカーテンを洗う。

ものだって自分のものなら1年使わなければ捨て、
家族のものなら3年使った形跡がなければ捨てる。
気持ちいいくらい捨てる。
そんな母の口癖は

「心を込めて扱えば長持ちする!」

だ。当たり前のシンプルな言葉だけど、
4年さわってない戸棚がある自分にはしみる。
やらなくてはな、と思う。
デスクの上だけでも片づけたりする。

母が「きれいなところにいいものがくるんだ!」
というのを聞くとそうだろうな、と思う。

知人にとても好奇心があって勉強家の
生活提案カウンセラーみたいなことをしている人がいる。
とても勉強熱心なので新しいことを次々取り入れ、
資格を取得する。
今はやりの断捨離のようなこともやりだした。
確かにあの本を読むと捨てる大事さが痛いくらい分かる。

でも彼女の言葉は軽い。

ふーん、よかったね。という感じ。
ワークショップにいって学んで、日々実践して、
クライアントにも指導しているらしい。

だけど、軽い。

ああ、がんばって学んだんだな、
以上の感想が思いつかない。
機械的に決められたルールで片づけていくのは、
トレーニングとして有効かもしれないけれど、
それだけで終わり。
これさえやれば大丈夫、と行き止まりになっている。

無学な母の「私の大事な家を気持ちよく保とう」という
ぎらぎらした目で行う片づけは、
日々変化し、掃除法も工夫されている。

ズーニーさんの言う
「分解したものだけが構築できる」
「加工品と生のもの」
と同じことなんだろうと思う。

洗練され確立された方法は無駄がない。

誰かが試行錯誤して、まとめてくれた、
分解してくれた栄養だ。

きっと純粋ですばらしいものなんだと思う。
でもビタミンCだって合成の純粋な錠剤よりも
アセロラとか生のものからとった方が定着率は断然いい。
実際錠剤で飲んでいたときより
生のものを毎日とる今の方がお肌の調子がよくなった。
ビタミンCはフィトケミカル(こまいいろんな栄養素)と
一緒じゃないと人間は吸収できない。

それと同じで掃除の思想みたいなものだって
フィトケミカルみたいに
雑味のある母の言葉の方が効くんだろう。

自分で建てた家を10年間新築同様に保ってきた母の言葉は
重いのだろう。

勉強熱心な彼女も
「ワークショップで学んだ」「資格を取った」という
大きな看板に頼りきりにならず、
自分流にかみ砕き始めたら、
私も言葉に打たれるのかもしれない。

自分で分解するというのは大変だけど
でもとっても大事なプロセスなんだな。
(でかまる)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-11-30-WED
YAMADA
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