YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson564
  乱反射する読者メール



万人にわかってもらえなくても、
一部の読者と行けるところまで行ってみよう!
という試みの、

「生ものシリーズ」。

今週も、おもしろい読者メールを
多数いただいたので、
一気にご紹介したい。

まずは、先週紹介した、
「横尾忠則の小学生への絵の授業」に対する
こんなおたよりから。


<みんな同じ絵に唖然>

先週のコラムを読んだ夫から、
メールが届きました。

「中盤に表れる、横尾忠則のエピソード、
 きっと思うことがあると思う。」

はて。なんでしょ。と思い、読み進めていき、
胸がいっぱいになりました。

私は7歳の時、
アメリカから日本に帰ってきました、
帰国子女です。

息子が7歳、小学校一年生の時に、
教室の後ろに貼られている絵を見る機会がありました。

群を抜いて下手ながらも、
息子らしさ全開の絵、
周りとあまりに「タイプの違う」絵を見て、
自分の当時が鮮明によみがえり、その感覚で
息子の小学校の、授業参観に行くのが、
しばらく辛くなったくらいです。

30年以上前の、小学校一年生の秋。

帰国子女だった私は、図工の時間、
初めて絵を描く時に、
無邪気に画用紙に向かい、好きに描きました。
ところが、教室の後ろに貼り出された
皆の絵を見た時のショックはすごかったのです。
今も当時の場面を想像すると、
簡単に呼吸が浅くなってきて涙が流れます。

皆の絵を、愕然としながら眺めた時の、
あの、わーっと圧倒される感じ。
教室に一人だけ取り残されたような、
自分だけがすごく小さくなってしまったような、
大きな不安感が襲った。

何故皆の絵はこんなに似ているの?

何故私のだけこんなに違うの?

そして「違うこと」を誉められた教育だったのに、
ここでは笑われて浮いてしまう。
それは7歳の私には、重荷過ぎたようだ。
どう表現したら良いのだろう、
世界が歪んで見えるような、
激しい耳鳴りに耳をふさぎたくなるような、
立ちすくむような、座り込みたくなるような、
息ができなくなるような。圧倒的な不安。
あの時の気持ちをずっと抱えてきた。

息子の絵を見た時に、
その時の気持ちが突然よみがえってきました。
笑顔で見始めた私の顔がこわばり、
立ちつくして動けなくなりました。

帰宅後、夫とおおいに話し合いました。

息子も色々いきさつがあり、
図工が嫌いだと言うようになっていたので、
話し合いました。

夫も、非常にマイペースで、
何かについて、自分一人だけ違っても
あまり意に介しません。

そんな夫も、小学生の間、
周りを見ながら
周りと同じような絵を描く時間が大嫌いだった
と言っています。
ただ、そうしなければいけないと思ってそうしていたと。
先生に誉めてもらえないから。
周りに色々言われるから。

私はどうしてきたかと言えば、
周りを見つつ
「何故私は皆と同じような絵にならないのか」と、
嫌な気持ちを抱えながら
結局絵を描くことが嫌いになっていきました。

夫の「周りと同じようにするように、
心掛けて描いていたんだよ」
という言葉を聞いて、
そうなのか、皆、周りと同じような絵にしようと
「心掛けて」いたのか!と
愕然としました。
もちろん、長年気付かなかった自分が
アホかとも思いました。

今、夫は、物を考え作りだす仕事をしています。
息子に関しては、

「りんごを丸いとしか捉えられないような子供は
 しょうもない。」
「最近の若い人は受け身だ。
 与えられたことをするのは得意だが、
 自分から何かするのはとても苦手な子が多い。」
「(息子のことは)それで良いと思っている。
 皆と同じようにとしている子は、
 結局クリエイティブになれない。
 自分自身の発想がないんだよ。
 俺流を持っている子の方が、
 大人になっても伸びる。
 周りの人と同じようにと合わせていたら、
 その程度の子 にしかならないよ。」

息子は色々話し合って、嬉しそうにしていました。

私自身も、当時の、
息子の担任の先生に色々言われましたが
「私、帰国子女で、皆と‘同じ感じ’の絵が描けなくて
 辛い思いをしたことがあるんです」
と言ったところ、息子も私も何も言われなくなりました。

でも、3年生になった息子。
結局、図工が嫌いになってしまいました。
段々自分で、周りと比べるようになってしまうんですね。

今の担任の先生も特に、何も言わないようですし。
でも、「家で、自分で描いたり作ったりするのは好き」と言っています。

図工の授業に代表されるように、
今の小学校教育は、30年以上前と、
何ら変わっていないのだと思わされます。

ただ、ここに投稿されている方々の文を見て、
こういう人がたくさんいるのだという思いで
心強くなりました。

横尾忠則さんの、素敵な授業。

こんな風に、
図工の時間に取り組んでくれる先生がいたら
と思います。

きっとそれは、図工の時間を超えて、
あらゆることに独創性が発揮されることに
つながるのでは、と思うからです。
(ペリーニョ)


<自分で噛んで飲み込んだものは忘れない>

おもしろい! おもしろい! おもしろい!

加工品さえ生を見出す、まねぶ、模倣して解放。
ダンスにも通じると思います!!!

youさんの「まねぶ」の
話しを読んでいて、
私もこれを体感したことがあるのを思い出しました。

私は数年前にベリーダンスを始めたのですが、

教室で習っているものの他にも
踊れる曲を増やしたくて、
でも大人になるまでダンスを習ったことがないため
振付の知識も勇気もなかったので、
自分の好きなスタイルのダンサーさんの
踊りをDVDなどで見て真似ることから始めてみました。

ただ踊れる曲のレパートリーを増やしたくて
やってみたこの作戦では、
レパートリーが増えたことよりも、
副産物がとても大きかったのです。

真似る作業に取り組むことで、
そのダンサーさんと同じ動きをしているつもりでも
実際に自分の動きをビデオで見てみると
同じように見えず、どうしてなのかを考えるうちに
自然と自分の体とむきあっていました。

骨格、筋肉のつき方等が違うのであれば、
自分の持っているものをどう動かせば
同じような動きができるのかを研究し、
それは結局ベリーダンスという踊りの
スキルアップにもなり、

何度も何度もDVDを見るうちに
目線や指先の動きでの表現方法を学び、
そこから自分にあったスタイルを取り入れて
自分なりに発展させることもできました。

学校で学ぶようなことは
自分なりに咀嚼(解釈)して
飲み込む(理解する)ことができたものは
ずっと忘れないという実感があったのですが、
踊りもそうだったんだなぁと体感しました。

コメントを寄せられてる方みなさんが
それぞれの実体験でそれを感じていらっしゃるのが
とてもいいなぁと思って
私も自分の実体験を送らせてもらいました。

いつもいい刺激をいただいています。
ありがとうございます。
(のんた)


<描きたいものを鮮明化するトリガー>

横尾忠則さんの授業
「模写→独創」はとても興味深い。

「まねび→オリジナル」なんだなあ。

ぼんやりとした自分の中にあるイメージを、
鮮明にするトリガー(引き金)のために
模写するんじゃあないかな。

何もないところから
イメージを手に移して表現をするのは、
結構ハードルが高い。
だから手を通して具体化する。

脳の癖として、退屈を嫌うのだそうですね。

だから、小学生は二度同じものを書くのは、飽きる。
だから二度目の模写には、
自分が書きたいものを入れたくなる、自然に。

1度目の模写をしながら、
内面では自分のイメージの鮮明化と
模写される絵に対しての批評を同時にしている。
アウトラインができて、次はオリジナルにつながる。

この模写は、パクリ(盗作)やコピーとは違うと思います。

真似られるものへの敬意。
(好きな絵を持ってきているんですものね!)
そして自分の内面変化をわかろうとする姿勢。
それは、「消化できなかった」、
「わからないことがわかった」でも、いい。
(ぐりぐら)


<ライブをつくっていける喜び>

生ものシリーズのなかに、
看護教員の方のメールがあったので、
興味深く読みました。

「生もの」
そうなのですね。

病院の実習では

患者さん
看護師さん
病院の環境
そして私自身も
不確実な「生もの」なライブな要素なんだ。

改めて実感しました。
そこで、学生が患者さんに出来ることを練り上げていく。

そのプロセスに関われること、
たまには傍観もあるけど、
本当に貴重なことなんだ。
と、あらためて
自分が看護教員を続けている理由を発見。
コレだけでも、
大発見であります。

ずっと看護教員をしてきて、
プー太郎になりかかっていたところを救われた。
臨時の看護教員です。

糸井重里さんの
「バッターボックスに立てる喜び」を大切にしています。
その気持ちをくれた学生たちにちゃんと伝えようと、
努力中です。
(いとうなおえ)


<観念からの解放>

本当に芯を衝いてくるコラムです。
もっとも自分が考えたい、探りたいことを、
ズーニーさんと読者からのお便りが見事に応え、
そして、また自分を深める更なる刺激となって
止められません。

遠慮せずに、どんどん書かせて頂きます。
「書きたい」衝動に掻き立てられて。

youさんの御意見、学ぶとパクる違いや
加工品から生を吸収する力など、
自分では整理できなかったことを
言い当ててくれました。

そして横尾忠則の授業、
これは、私もテレビで見ました。
これこそ、

「型に入って、型を破る」

方法だと感じたものです。
人は、表現したいことがあったとしても
言葉を知らなければ、伝えられません。

言葉や文章を学ぶのも本当はそのためでしょうが、
その元には、
伝えたい衝動や表現したい心の欲求があればこそ。

絵は、何をどう描いても本当は自由なものです。
しかし、それだけに
うまい下手という見方や、
こうあるべきだ、という観念に縛られ、
自由に描けない、
人に見せるのも恥ずかしい、
という面があります。

横尾忠則の授業は、
そんなまどろっこしいことを
ひょいと飛び越えていました。

自分の好きな作品を模写することからはじめる。

この行為は、
言葉を知らない子どもが
言葉を獲得する行為とも取れる。

そして、次にその言葉を使って、
自分の気持ちを表現することにチャレンジするが、

模写という行為の中に、
実は目に見えない営みが、
子ども自身の中で為されていたのだと思う。

畑を耕し、
種を撒いたら芽が出る土壌に変えるような行為が。

その営みを通して育まれたものが、
次の創造へとなって表れたのだと見ました。
翌日の(こんどは「記憶」で同じ絵を描かせた)
授業のシーンがそれです。

そして、ここでも、自分の模写したものにも
子どもたちは囚われなかった。
模写にとらわれてしまったら、
自由にのびのびとは描けなくなってしまう。
大人では往々にしてありがちですが。

ズーニーさんの指摘する、如何に無防備になれるか。

上手く描きたい、
自分をよく見せたい、
人とは違う個性を出したい‥‥、
自分の本心にある表現の欲求ではないもの
に囚われ、そのために
自分自身の心が見えなくなってしまう状態が
そこに出来てしまいます。

まさに表現・創造をもっとも阻むものです。

クリエイティブな仕事は、
実にこういった余計なものとの戦い
でもあるかもしれない。

そして、「描きたい」という衝動はどこから来るのか。

私は、二つのものが重なっている、
あるいは重構造なのかもしれないと考えた。

一つは魂が揺さぶられるような出会い、

そしてそれを表現したいという欲求。

これを別の面から言うと、
自分が感じた衝動が何なのか、
自分自身を知りたい、
その自分と深く通じたい、

そして、それは、
他者と深く通じることになるのではないか、
つまり、他者ともっとつながりたいという欲求が
そこに潜んでいる。

そうやって創り上げたものを、
他者が理解してくれた時は、
いっそうの喜びを感じます。

これは「通じた」という感覚でもあり、
自分側の喜びでもあるが、
他者を喜ばすことが出来た嬉しさと、
他者と手を握り合ったような分かち合う喜びです。
もちろん大きな糧になっているものです。
(田舎のデザイナー兼絵描き いわた)



ペリーニョさんがガクゼンとした景色、
「なんで日本人は、
 こんな、みんな、おんなじ絵を描いているのか!」
という絶望的な境地は、もう、痛切にわかる。

わたしも、新米のころに、
高校生の小論文を100枚読んだとき、

「なぜ! 顔も、住んでる所も、名前も違う高校生が、
 こんな、みんな、
 おんなじ文章を書いているのか!!!」

怒りとも、絶望とも、不自由とも、いえない気持ちに
打ちのめされて、しばらく立てなかった。

そのときの憤りが消えず、
いま「文章表現教育」に乗り出しているのだが、

生徒一人ひとりが、
「自分のもっとも書きたいもの」を書けたとき、
どれひとつとして、同じものはない。

いま慶應のライティングの授業で、
70人いれば、70人の文章がまったくちがう。
四方八方に飛び散っていると言える。

こうなるともはやなにを書いても浮くことはない。
この中で浮くことができれが、それはもう天才の域だ。

「最も書きたいものを解放する」

これがたぶん、
表現にとって最も大切なことだ。

そして、

多くのおとなが、
「こどもや若い人たちは、
 なにもしなくても、自然天然な状態で、
 自由にさせてあげれば
 オリジナリティが開花する」
という誤った先入観をもっており、

ペリーニョさんが小学生のまったく同じ絵に
ガクゼンとしたように、
私が、新米のころ、高校生の同じ文章に
憤ったように、

こどもや若い人たちも、実はじゅうぶんに
観念に縛られて、がんじがらめになっている。

この縛られた状態をいかに解くか、から
はじめなければ独創性の教育はありえない。

横尾忠則の授業、

絵を写せと言えばもう、
その時点で、「コンテスト」には出品できない。
その時点でもう、「オリジナル」とは言えない。
そんなことぐらい小学生でもわかっている。
無邪気に見えても、ちゃんと計算高く、
小学生ならもう、わかっている。

それがこどもたちの縛りを解いて、
「もっとも描きたいもの」を、
ひっぱり出してしまった。

つまり、

「体の奥にある最も表現したいものを
 外へ出す、解放する!」

そのことだけが大事であって、
シンプルに、それが「主」で、あとは「従」で、
コンテストも、
オリジナリティも、
独創性も、
個性も、
この解放の前には「くそくらえ」なのだ。

この迷いのなさが横尾の授業にはある。

逆説的だけど、

オリジナリティというものを諦め、
天高くほうり捨てたことが、逆に、
こどものオリジナリティを最大限に解放してしまった。

本当にオリジナリティがある人にとって、
もはやオリジナリティなどどうでもいいのだ

と、そんなことを読者のメールに改めて気づかされた。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-11-16-WED
YAMADA
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