YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson561
  生のものと向き合うチカラ



大学で授業を持って5年ほど経ったころから、
フシギでならなかったことがある。

それは、

準備を丁寧に、完ぺきに、つくりこんで
臨んだときよりも、
勘どころをおさえ、あまり準備をつくり込まず
臨んだのときのほうが、
学生がいい表現をする、ということだ。

通勤電車で一緒になった大学の教員に聞いてみたら、
やっぱりそうだと言う。

というか、

ベテラン教員は、
もともと私ほど、丁寧に石橋をたたいて、
準備をつくりこまないとわかった。
もっと要領のいい準備をする。

私は、準備にとても時間がかかる人間だ。

最初のころは、愚直に、
3つの原稿を全部書いて臨んでいた。

すなわち、
私が話す原稿と、
スクリーンに映す図などの視覚原稿と、
学生の手もとに配るワークシートなどの原稿。

もともと私は、教材の編集者なので、
ワークシート・サブテキストなど、
学生の手もとに配る資料は、
「そのまま売れる」くらいの精度でつくりこんでいた。

家で、本番そっくりに練習をし、
学生の反応もシュミレーションして臨んでいた。

いまはさすがにそこまではしないが、
それでも、ときに初心に戻り、
いつもより丁寧に準備をつくりこみ、

「きょうは完ぺき!」

と、したり顔で授業に臨んだときに限って、
学生の表現の最高を引き出せなかったりする。

一方、過密スケジュールで、
準備がおっつかない、
要点をおさえた準備がやっと、というときのほうが
むしろ、学生がいい表現をしたりする。

それが顕著になったのが、先日の静岡の集中講義だ。

なにせ、慶應で4ヶ月かかってする15コマの授業を
たった3日でするのだ。
どんなに事前に準備しても、
こぼれおちるものがある。

朝7時45分に宿を出て、90分×5=450分、
夕方5時50分時まで授業。

帰って70名の学生の文章にコメントを書く、
飲まず食わずトイレもいかずやったとしても6時間かかる。
すんだら次の日の準備。

いつものように、ワークシートをつくりこんだり、
パワーポイントの文字や色にこったりする時間など
到底なく、
学習のゴールや段取り、
勘どころを押さえた準備をするのが精一杯だった。

だけども、どうしてだろう?

現場で次々、アイデアがわいてくる。

現場でアイデアが生まれ、
まったく新しいワークをとりいれたり、

事前に考えてきたワークも、
現場で大胆にアレンジを加えたりした。

学生の反応もいい。

結果、近年いちばんじゃないかというくらい、
学生たちの表現力の最高を引き出せた。

「でもどうしてだろう? 理不尽じゃないか?
 準備に時間と労力をかけたときのほうが
 成果が上がらないなんて」

たとえば、学生に配るワークシートひとつをとっても、

いつものように苦心して作り込んだものでなく、
現場で休憩時間にあたふたつくり、
スタッフにコピーをしに走ってもらったり、

ときには、それさえおっつかず、
学生にはすまないが、
他の資料のウラに手書きしてもらったりした。

にもかかわらず、
なぜ、いい授業になったのだろう?

「現場とコミットしたからだ!」

そう気づいて、はっ、とした。
じゃあ、これまでは、何とコミットしていたのだろう?

「いまここ、ではない、少し過去」。

現場は常に揺らいでいる。

生徒は生身だ。

同じ大学で、毎年同じタイトルの授業をしても、
去年と今年で学生はゼンゼンちがう。

ある大学であることをして大成功でも、
別の大学で同じことをして鈍い反応のときもある。

朝には、目立たなかった学生が、
夕方、バツグンの表現をしたり、

1人の学生が素晴らしい表現をすれば、
一瞬で場の空気が一変し、
他の学生を牽引して、
えもいわれぬいい流れに授業がなっていくこともある。

どれひとつとして、同じ現場は無く、
現場は刻一刻と移り変わっていく。

生まれて初めてやった
450分×3日=1350分の集中講義では、
事前の作り込みに依存できない分、
現場に集中せざるを得なかった。

現場の空気、学生の表情、アウトプットに神経をこらし、
そこにある微妙な反応や機微を読み取り、

読み取ったものを、すぐ反映し、

刻々と移り変わる「いまここ」と
激しく交信しながら、
授業をつくっていった。

一方で、
あまり準備をがっちがちに固めてしまうと、
「いまここ」と交信するのでなく、
「自分が仕込んできた準備」と交信する
という本末転倒にもなりかねない。

「学生はこうすれば、こうなるはず‥‥」

目の前で学生が想定外の反応をしているというのに、
事前にシュミレーションし想定した学生の反応に
自分自身がとらわれていたり、

「あの大学でうまくいったから、
 ここでもうまく行くはず‥‥」

この現場はこれまでとかなり違うなと直感しているのに、
過去の成功体験にこだわったり、

「せっかくきのう寝ずに作り込んだ資料なのに‥‥」

と貧乏性というか、労力のもとをとろうというのか、
現場に照らして「なんか違うな」と思っても、
てしおにかけた資料に固執したり、

仕込んできた準備にとらわれている限り、
自分は、無意識に、
いまここ、と、目の前にいる生の学生ではない、
どこか過去の1点と交信してしまっている。

「現場に向き合うチカラ」

準備はそもそも、私にとって、
現場と向き合う勇気を生むためのものだった。

初めて大学の教壇にたったころは、
恐くて学生の顔さえ見られない小心者で、

経験も歴史もない分、
ちゃんと学生の顔を見て、現場と向き合うためには、
準備や稽古をつきつめるしかなかった。

現場に自分をひらくための準備。

どんなに準備をつきつめても、新米のころは、
現場の学生の反応にいちいちドギマギ反応した。
だから新米のころは意外にうまくいった。

それがだんだん経験が追いついてくると、
いつしか準備は、現場で楽をするためのものになっていた。
それじゃいかん、と気づかされた。

「現場に向き合うチカラ」、

それを静岡の学生に引き出されて以来、私は、
かつてない新鮮な気持ちで現場に向き合っている。

これは、決して準備を手抜きしろという話ではない。

くれぐれも誤解のないように、
新米のときの私のように、入念な準備があってはじめて
場に自分をひらける人・時期・状況がある。
これは、

「どうすれば、現場に向き合うチカラは引き出されるか?」

という問題だ。
さいごに、ここ一連の「生のものシリーズ」にいただいた
読者メールを紹介して今日は終わりたい。

「生もの」に重点を置いた意見がつづくが、
もちろん前提として、この時代にあった加工品の必要性、
それがないと生きられないことは、
読者も、私も、よくよく承知の上で、その先の話だ。


<読者のみなさんの解釈でやっと>

先週の、
「兄を見てきた」という方、
読書の感想を書かれている方、
海外での体験をつたえようとされている方‥‥
紹介されたさまざまな方の解釈、考えを読んで、

「まさに今私が抱えている課題じゃないか!」

と心にズシンと響きました。
私も、両親が、
周りの情報を独自の視点でとらえて
意見を交わしている姿や、
高校・大学の先生がいろいろな事象から
ひとつの意見を導いていくのを憧れをもって見てきました。

事実から、自分なりに「つながり」を見つけること、
そしてそれを魅力的に語ること。

自分もしたいと思ってきたのに、
全然物事のつながりが見えない、
語れないことで口をつぐんでしまうことが多かったのです。

今回のテーマ、最初のズーニー先生の問題提起ではなく、
みなさんがそれを独自に解釈したものを見てやっと
「そうだよね」と‥‥。

あぁ、私は「生もの」から消化する力が弱いんだなぁ、
と深く実感しました。

きっと私にとって、
より手ごたえのある人生のため、
憧れている人生のためには、

この生ものを消化して表現できる力こそ必要なんだと
教えていただきました。
3回かかってやっと。
(☆M☆)


<こどもに私ができること>

私は中学校で非常勤講師をしています。
将来は、公立中学校の理科教員になりたいと考えています。

生徒にちょっとした文章、
例えば「実験結果からわかること」を書かせると、
「生もの派」と「加工品派」と、
どちらかはっきりわかります。

前者は、実験結果を自分なりに解釈し、
自分なりの言葉で表現しようとしている生徒、

後者は、塾などで得た表面的な知識を
そのまま書いている生徒、
あるいは他人のレポートを丸写ししている生徒です。

私は「加工品派」を完全否定するつもりはありません。
生ものを自分で処理する能力を付けるためには
ある程度訓練が必要で、
そのためには、
文章を穴埋めするとか、
他人の文章を丸写しするとか、
そういうステップも必要だと思います。

中学生くらいでは、特にそうだと思います。
何もないところからいきなり「自力で書きなさい」なんて、
普通の子どもにできるわけがありませんし、
教師として何も教えていないも同然です。

しかし、その加減が難しい。

武道などと同じように、
文章を書くことも、「型」から入って、
それを身につけたときにその本質がわかり、
自分なりの表現ができるようになる、
という部分が多いにあると思います。

しかし、それだけでは駄目だろうとも思います。

「型」は、そればかり練習したからと言って、
本人の潜在的な個性や表現力が
失われるわけではないと思いますが、
それにプラスアルファが必要な気もするのです。

例えば、消化不良でお腹を壊してもよいから、
ときどきは「生もの」に触れ、
自力での消化を試みるとか、何かそういうことです。

(「生もの」の魅力や必要性を感じなくなってしまったら、
おしまいのような気がするのです。
そうならないために、
子どものときこそ「食育」をちゃんとしておかねばいけない
気がするのです。)

そのとき、「食べたい!」という強い欲求があるのに、
基礎体力(学力)がないためにどうにも手がでない、
という状況は子どもにとって大変な苦痛だし、
せっかくの興味自体も失われてしまいます。

そうならないように、適切なさじ加減で
「型」やヒントをさりげなく差し出す。
それにはどうすればよいのか、日々、試行錯誤しています。

子どもたちが、
生ものを処理する面倒さや、
消化不良を起こしたときのリスクを負ってまで、
チャレンジしたくなるような
「新鮮」かつ「魅力的な」生ものを提供することが、
自分が教師としてまず最初にできることなのかなぁ、
とこのメールを書きながら考えています。
(金時豆子)


<私が食べていたもの>

“なにから栄養を取っていますか?”という問いに私は、
「加工から栄養を取っています。」
とあたり前のように答えていました。

しかし、ある時自分の答えに違和感を覚えて、
ノートにいろいろ書き出していました。
答えというよりも愚痴のような
なんとも言えない答えがたくさん出ました。

「加工から栄養を取っているけど、
 実は何も取っていなかった」とか
「親から教えてもらっても当たり前のはずなのに、、、。」
などがでてきました。

しかし、私自身この言葉には、納得がいかなくって
なんとも言えない苦しさがありました。

しかし、先週の大人の小論文を改めてみて思いつきました。
私は、新鮮から加工から栄養を取って栄養を取ってません。

すべては、腐ったものから栄養を取って生きています。

私は、周りの人や自分がせっかく手にした食べ物を、
私自身がくさらせた、、、いや。
私が経験や知識が不足していて、
せっかく手にした食べ物を
食べて良いのか知識が不足していた為、
口にすることなく腐らせてしまい。

挙句の果てに、おなかがすいたからと言って
腐った物を食べていたと。
私は、自分でそう考えました。
そう考えると納得がいきます。

だから、腐った食べ物を口にしている時どうりで、
お腹や体などすべての事がつらかったです。
このなんとも言えないモヤモヤとした考えを
理解解消ができた。
ありがとうございました。
(ペンネーム 匿名希望)


<やってみなくちゃ、わからない>

絵本ぐりとぐらの中で、二人がが遠足に行く場面。
「いってみなくちゃわからない」
というフレーズがあります。
「やってみなくちゃわからない」

生ものに、先入観なく飛び込む勇気を持つこと。
冒険心をかきたてて。
実体験であれ、原著論文であれ。
やってみて、消化不良もまた経験。
これも「やってみなくちゃわからな」かったことです。

パソコンコピー前例主義について。
手を動かすことが、脳を動かすことだから、
前回の文書を、先入観なく見直す意識を持たないと、
無難でつまらない仕事をしてしまうような気がします。

仕事だからつまらないのか?
いやいや、自分がまず面白がらないと。

わくわくが、薬
(サトウ)


<自分を渦の中に置く>

僕も現場の声が、
何よりも自分が発する言葉に栄養を与えている。
そう感じます。

職場を離れ、机を離れ、
関係する人達に話しに行くこと、話を聞きに行くこと、
それが自分の仕事の軸になっています

たしかに、
現場で向き合うその時は、
自分にとって心地よいことばかりではなく、
不満、疑念、心配、不信感、、、、
何だかわからない感情まで
直球でぶつけられることがあります。

遠くまで出かけていった場合は、
帰りの新幹線の中まで、頭の中いっぱい、
グルグルグルグル回りに回ります。
でも、なかなかわからない。言
葉の渦、感情の渦の中にいます。

この春から、鹿児島にある子会社に何度か出掛けています。

初めて行った時、
これまであまり経験したことのない、疎外感を感じました。
食事も皆でいっしょに取るわけでもなく、
ちょっと良い客間に入れられて、2人で食事。
というような感じ。

帰り道、いろいろ考えていました。
親会社から子会社にあれやれ、これやれと
ただ言いに来たと相手に思われたからだろうか?
土地柄で外部の人を
なかなか受け入れてくれないのだろうか?

数ヶ月して、2回目の訪問。
この時も、1回目と同じような感覚。
お昼には、ちょっと良いお弁当を準備されましたが、
同じ食堂なのにちょっと離れた場所に座る。
同じような疎外感でした。

でも、3回目。
少し変わりました。
打ち合わせの最後の時間で、
相手の心にあった心配事が、僕に向かって来ました。

その時、僕はその心配事に対する最適な解決策を
持っているわけでもなく、
僕が話せることを必死に話すのみでした。

打ち合わせが終わった時、
これで良かったのかなあ思いながら、
荷物を車に乗せる帰り際、

先ほど心配事をぶつけてきた彼が
事務所を出てこちらに近寄り、話しかけてきました。

僕は、少しだけ変わったと思い、
少しだけわかったと思いました。

帰った後、僕はチームのメンバーに
この時のことを自分の言葉に置き換えて話しました。

その時はじめて、僕は
現場の声をやっと受け止めて、
自分の言葉に置き換えることができた気がします。

自分を渦の中においたので、
置き換えることが出来たと思います。

わかったつもりにならない。
簡単にわかるなんて思わない。
わかるには時間がかかる。
そんな姿勢が現場で生の言葉に向き合う姿勢かと
感じたのです。
(鈴木)


<私は絵描きでもありますが>

生のものと加工品の話を読ませてもらい、
この問題をずっと考えてきました。

自分は何から栄養をとっているか。

何が「生のもの」で、何が「加工品」なのか。

現場は、生のものそのものです。
私は絵描きでもあり、
自然や人物をモチーフに写生をします。
現場には、季節があり、空気があり、深い歴史があり、
人には、目の前に見えるもの以上にその人の人生があり、
愛情を注ぐ、愛しい対象でもあります。

そういうものから受けるインスピレーションやイメージが
作品を生み出していく原動力です。

もちろん、他人の作品を見ても、
いろんな発想やイメージを受け取ります。
そういうものから吸収できるものもたくさんあります。
むしろ、吸収しやすくなっています。

それはなぜか、

他人の作品は、
その人が「生のもの」を租借し、消化・吸収して
一つの形に表現したから。
とても真似しやすい、学びやすい、
はじめはそれでもいいでしょう。
「学ぶ」は「真似る」ことといいますから。

そうやって技術を盗むことも出来ます。
しかし、最終的には自分の世界を表現しなかったら、
作品にする意味がない。

そこは自分を掘り下げ、
自分が感じる世界や見える世界から、
自分の表現したいもの、
自分にしか表現出来ないものを探り、形にしていく
ことしかありません。

他人の真似事では、自分が納得できないからです。

そうなると他人がどうかは関係なく、
自分が何を感じ、どう表現したいか、
という自分自身にかかわってきます。

加工品は、消化・吸収がよく、美味しいかもしれません。
そういうものに慣らされて育つと、
それを美味しいと感じてしまう。
「生のもの」から、噛み砕き、
栄養を吸収するというのは、実は
とても大変なことでもあると思います。

しかし、本当は、そこが面白い。
その面白さ、醍醐味を知ってしまうと、
もうそれは生のものから自然と
栄養を採りたいと思うようになります。

加工品にならされて、手間がかからないで、
食欲が満たされてしまうと
生のものに手を加えて、調理することが大変だ、
と思ってしまうのではないでしょうか。

これは、若い世代の方々に感じることでもあります。
自分もそうでした。
生のものは、いかようにも調理できます。
そこに個性が発揮できるのです。
しかし、その分、どう料理したらよいか、
考えられないと、お手上げです。

加工品の方が料理しやすいと、
安易さ便利さに流されてしまうと本当の喜びや
楽しさは得にくいでしょう。

何度もいいますが、生のものを調理・料理することは
経験も必要ですし、たやすいことではない。
本当にプロの仕事です。
それを自分好みに仕上げられるのは。
(いわた)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-10-26-WED
YAMADA
戻る