YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson556
      私は、生のもので栄養を採ってきた



本を読みたくない。

それよりも、生のものに触れたい。

経験や、
生徒さんの表現や、
ライブや、

まだ名づけられてないもの、
まだ編集されてないものに触れて、
いらいらざわざわ、内面は波立つ。

それがなんなのか、
なぜ波打つのか、

いままでの「自分の言語の外のもの」だから、
わからない、名づけられない。

そこを考えて、
自分の中から生まれた言葉でつかみ、名づけ、
「自分の言語の中のもの」に成っていく瞬間、
これがたまらなく面白い!

私にとって、知とは、輸入してくるものではない。

「生のもの」、
「まだ言葉を与えられていないもの」に触れて、
考えて、自分の言葉でつかみとったものだけが、
私にとって「知」となり、「血」となる。

本を読みたくない。

とくに領域が重なる本は読みたくない。

むかしは、編集者さんが気を利かして、
コミュニケーションの本を書くなら、
コミュニケーション関連の参考文献を
もってきてくれたことがある。

でも見るそばから、なぜか
読みたくないと体が拒否している。
結局、自分でもわけがわからず、読めなかった。

あるとき、どうしてもいい本だからと薦められ、
断りきれずに読んだ。

読んで、「読まなきゃよかった」と後悔した。

自分の文章を書こうとしたとき、
「言葉にできない、この感じを言葉にしよう」と
もがきはじめるやいなや、
自分で言葉を生み出すよりも先に、
読んだ本の言葉が浮かんできた。

一瞬で、自分の中の波が、消沈した。

それでも、自分なりの言葉で表現しようと試みても、
本の、すみずみまで整理された言葉が浮かんできて、
それ以上はムリだった。

あるとき、
仕事関係の人と話していて、
しばらくして、違和感がわきあがった。

その人は、
私の知らないことや、最新情報、役立つことを
次々繰り出してくれた。にもかかわらず、
私は、その会話から、すぐに興味を失った。

とどのつまり、
要約すると、その人が何時間もかけて
言ってることは、すべて同じ、

「私は、このようなことを、“知っている”。」

加工品ばかりを食べている人だな、
と私は思った。

おなじ「栄養を採る」と言っても、

「生のもの」、
まだ土がついているような大根や、
釣り上げたばかりのピチピチした魚に、
まるごとかぶりついているような人もいれば、

「加工品」、
だれかが、土から掘って、きれいに洗い、
刻んで、バランスよく配合して、整えて、パックした、
完全調理済み食品ばかり食べている人もいる。

知も、どこから栄養を採っているか?

その人は、勉強熱心で、
即戦力になる知を、貪欲に求めすぎるあまり、
ビジネス書的な知識やテクニックを、
仕入れることばかりにやっきになっていた。
結果、「自分の言葉」が求められるシーンでも、

「仕入れたことを出す」、「仕入れたことを出す」、
その繰り返しになった。

私が加工品を避けるのは、
「回路」ができるのがいやなんだろう。

自分の腹から、
もやもや、ぼうっ、としたものがわきあがり、
考えることで、それがしだいに像をむすび、
しゃきっ! と、
言葉というカタチになって生み出る前に、

「あ、これは、あの時、あの学者が言ってたあれだな」
「あ、これは、あの作家がこないだ言ってたあれ」
「あ、これは、あのビジネス書のあれ」と、

先に、仕入れたものが浮かんできて、
だんだん、「自分の腹から出た言葉でつかむ」より、
「仕入れてきたものとのパイプ」が太くなり、強くなり、
やがて、そこと自動的に結びつく回路ができあがり、
しまいには、そっちとしかつながらなくなる。

私は、それが好きではないんだろうなあ。

「考えることで、自分の言葉としてつかむ」という
フィルターを1回通さないと、
「知る」ことも、「表現する」ことも、できない私は、
万事、時間がかかる。

だから、本を一冊読むのも、ものすごく時間がかかる。

いま、書評の仕事をしているが、
ほとんど格闘だ。

どうしてこれほど、一冊の本を読むのに、
時間がかかり、これほどエネルギーを費やし、
へとへとになっているのか、
自分でもわけがわからず、

最初は、たった4000字の書評を書くのに、
3日も、4日も、もがき苦しんだ。

いまは、わかる。

優れた作家は「加工品」など書かない。

読み手がカンタンに仕入れ、
仕入れたそばから、カンタンにウケウリとして、
すぐ使えるような、
完全調理済み食品など提供しない。

優れた作家が書いているのは、もはや、生き物だ。

畑からたったいま抜いたばかりの大根や、
海からたったいま釣り上げ、ピチピチはねる鰹のように、
命をもち、「生」である。

本に書いてあるのは、もちろん言葉だけど、
そこで、生み出し、浮かび上がらせ、伝えているのは、
「言葉にならない」ものだ。

優れた書き手の本は、もはや、私にとって「生」である。

言葉で書かれた本を読みながら、
私は、自分の言葉を越えたものと格闘する。

実体験や、生のものに触れたときと同じように、
自分の内面は波立ち、あばれる。

それがなんなのか、考えて、
自分の言葉として、つかみとっていく。

いままでの「自分の言語の外」にあるものだから、
名づけられない、つかめない、
そこを考えて、自分で言葉を与えて
つかみとっていけるような、
そんな生の、そんな新しい命を生んでいるような本なら、
私は読みたい。

生のものから栄養を採って、私は生きてきた。

何から栄養を採ってますか?

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2011-09-21-WED
YAMADA
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