YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson555
      自分の書く力をつぶさず、生かす!



ひさびさに後輩から呼び出されていくと、
ずいぶん、へこんでいる。

聞けば、後輩は、
有名な人の文章講座に通いはじめたばかり、
「おまえの文章には自我が出ている」
とキツイだめだしを食らったそうだ。

先生がそう言いたくなる気持ちは
よーくわかる。しかし、

「文章修行を初めたばかりの素人さんに
 それを言うかなぁ?」

私の中に、
この夏、一滴一滴とたまっていた思いが
こみあげてきた。それは、

「まちがいだらけの文章教育」

という思いだ。
この夏、日本を横断するように、
文章教育の講演やワークショップをしてまわった。
現場で痛感したのは、

日本の文章教育は、
私が小論文指導を始めた二十数年前から
大きく変わっておらず、

まだまだ、文章教育に対する誤解や迷信が
うずまいている。

たとえば、次の5つ、
文章を自己教育していくとしたら、
あなたにとって○か? ×か?


1.他人に欠点を指摘してもらい、
  言われた欠点をすなおに直せば、文章は良くなる。

2.「自我が出ている」と注意されたら、
  自我はよくないので、
  次から、極力出さないように気をつけて書く。

3.「文章を書くのがうまい人=文章教育がうまい人」だ。

4.素晴らしい先生の素晴らしい講義を受け感動したのに、
  きのうまでと何も変わりない文章を書いてしまう私は、
  才能がないとへこむ。

5.書けなくなったら、半年か1年、休むのが良い。



文章教育に誤解が大きいのは、
多くの人が、文章を書くという行為を、
「教科」の勉強の横並びでとらえているから、
つまり、

国語、算数、理科‥‥、文章書き。

でも、文章書きは、
「実技」の並び、すなわち、

水泳、登山、バレーボール‥‥、文章書き、なのだ。

書くことには、
理解や方法だけでは、どうにもならない
継続した「筋トレ」が要る。

ここが軽視されているように思う。

たとえば、「算数」なら、
分数がまったくできなかった生徒が、
素晴らしい先生の講義でリクツを完ぺきに理解し、
その日から、見違えるように
問題が解けるようになることはある。

でも、「水泳」なら、
北島康介の講演を聞き、
いかにコツを知り、やる気をあげたとしても、
「カナヅチ」の生徒が、その日から1000メートル
泳げるようになるとはフツウ思わない。
実際にプールに入って、自分で泳ぎ続けて、
筋トレを積んでできるようになると思うだろう。

書くことを勉強のようにとらえているから、

ほんの2、3回、いや、ひどい人は、たった1回書いて
うまくいかないと、「自分は才能がない」と
へこんでしまうのだ。

「欠点」の修正からはいるのも、
教科の発想だ。

正解が決まっている算数なら、
テストを受けて、先生に、○×をつけてもらい、
×がついたところを直せばいい。

しかし、文章のやっかいなところは、
欠点と長所が同じところにある点だ。

他人の文章を読んで、欠点を指摘することは、
中高生でも、素人さんでも、かなりうまくやる。
そして、その指摘はあたっている。

でも、指摘された欠点を直せばいいかというと、
欠点もなければ、魅力もない、
そつなく、こじんまりまとまった文章になる。

逆に、繰り返しが多く「くどい」と言われた生徒が、
それを貫き、書く筋トレを続け、
伝えたいことが伝えられる大きな筋肉がついてくると、
「くどい」とはもうだれも言わず、
「たたみかけるような説得力」
「この繰り返しが効いている」と魅力になったりする。

「おまえの文章には自我が出ている」

と言われた後輩が、どうするかも、
まったく同じで、

「もっとも書きたいことは、
 もっとも書きたくないことの近くにある。」

多くの素人は、「我が出てる」と言われたら、
逆の方向に舵をまわし、自意識を消そうとする。

でも、博愛とか、普遍とか、滅私の方向に、
読み手を揺さぶる主題があるのではない。

自分の偏りだったり、自意識だったり、エゴだったり
自分でも認めたくない地下2階の醜い部分のすぐ近く、
それを突き抜けたところに、主題があることも多いのだ。

素人さんが文章を書いて、
「我が出てる」と言われるときは、
我を出したいんじゃなくて、
筋トレが足りなくて、力不足のために、
「もっとも書きたいところまで行き来ることができない」
場合が多い。

「最も伝えたいこと」に行ききっていない状態で、
「おれがおれが」の自我だけ排除しようとしても、
気の抜けたサイダーのように、
自我もないけど、刺さりもしない、文章になってしまう。

後輩には、今の段階で、
欠点を指摘されても気にするな、それよりも、
徹底的に、書きたいところまで行ききれ!
と私は思うのだ。

かりに、本当に書きたいことが、
「おれが、おれが」の自我だったとしても、
自己表現をならってこなかった私たち、
たまりにたまった自我の表出を、だれが責められよう。

封じ込めても、必ず、
ちがった形でどこかに出てしまうなら、
むしろ、どんどん、書いて、書いて、出して、出して、

「書いたことは済んだこと。」

デトックスではないが、自我も出し切れば、気が済んで、
自分自身もあきて、先へ進めるというものだ。

大事なのは書き続けること。

書いて、書いて、出して、出して、進んでいくこと。

この話をしたら、たてつづけに2人の友人から、
同じ本の話をされた。私は読んでいないのだが、
『ずっとやりたかったことをやりなさい』という本だ。

それは、1日3ページ、毎日、
自分の思うことを文章に書きつづけなさいというものだ。
そのうちに、ふっと、チューニングが合う瞬間が訪れると。

「チューニング」

という言葉を聞いて、とてもしっくりきた。
自分にとって適量を、ずっとずっとずっとずっと、
書き続けていけば、

ふと、自分と通じ合う瞬間、
読者と通じ合う瞬間、
最も言いたいことが表現できる瞬間が訪れる。
その感覚を体に刻む。

失敗したときも、そのバッドなチューニングの感覚が
自分に残っているから、次から書くとき、
「こっち方向にいくと、経験上つまんないな」と
自分の感覚としてつかめてくる。

このように日々チューニングしていれば、
自分の中に、モノサシができるから、

エライ先生に、下駄をあずけ、
一喜一憂することもない。

チューニングは日々、やっていないと鈍る。

書けなくなっても、
半年、1年休むというのは、
私にはどうしてもすすめられない。

バレーボールの選手が3日休んだだけで、
その間に落ちた筋肉を元に戻すのが大変と言っていたが、

私自身も、1週休んだら、書く筋肉が衰え、
自分と通じるチューニング、読者と通じるチューニング、
合い始めるまでに、すごく労力が要る。

逆に、本を執筆しているときなど、書き物が
いくつも重なって、「こんなに書いて枯れないか」と
心配するようなとき、
意外に編集者さんに褒められたりする。

チューニングを日々やって、感覚が磨かれているからだ。

どうも上から目線で、バシッと欠点を指摘する先生が、
偉大な指導者のように思われがちだが、

文章の良い先生とは、
このチューニングをずっとずっとさせ続けることが
できる人。
つまり、「書き続ける」、というところへ
生徒を持っていける人だと思う。

欠点指摘は、傷になり、ストレスになり、
その傷が快復するまで、生徒さんが書けなくなったり、

無意識に、ストレスを回避しようとして、
「書くこと」そのものから、
生徒さんが遠ざかったりしがちなので、
あまり効果がないと私は思っている。

それよりも、
次も書こう、一つ書けたら、また書こうと
生徒さんに思ってもらうこと。

本当に書きたいことを書ききったという満足感、
「書く歓び」を引き出すことが、
生徒さんが書き続けようとする原動力になる。

そうして書き続け、生徒さんが日々チューニングを
自分でするようになったら、しめたもの。

チューニングがうまくいきだすタイミングが必ずある、

そのとき、すかさず、「いいね!」と、
そのチューニングの方向を認め、生かし、ひっぱりあげる。

だから、文章の教師は、自分も文章を書く人で、
文章がうまい人でなければいけないと私も思うが、

「文章を書くのがうまい人=教育のプロ」では
かならずしもない。

医者で言う臨床経験が豊富な人。
素人に、たくさん文章を書かせ、
書き続けさせるという経験を
たくさんたくさん積んできた教師を選んだほうがいいと
私は思う。


1.自分の適量、自分のペースで、ずっと書き続ける。

2.欠点を指摘されても、
  最も書きたいことへ行ききるまでは
  変節をせず、とにかく行ききってみる。

3.「書く歓び」、「書き続ける習慣」が得られ、
  チューニングが合いだしたとき、
  「引きあげてくれる」のがいい先生。

4.素晴らしい先生の素晴らしい講義を受け感動しても、
  そこから書く筋肉をつくるまでに
  日々の積み重ねが要ると心得よう。

5.書けなくなったら、ペースを落としてでもいいから
  細々と、書き続けていこう。



「あなたには書く力がある!」のだから。

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2011-09-14-WED
YAMADA
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