YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson549
    本当の「ワタシ」ー4.読者メールへの返信



シリーズ本当の「ワタシ」に、
たくさんのおたよりをありがとうございました。

「酔って顔を出す見知らぬワタシ、あれはだれか?」
「本当の自分とは何か?」
私の結論は、先週のコラムに書ききったので、

きょうは、質疑応答タイムとでもいいましょうか、
3つの読者メールを紹介し、
私の考えをお伝えしたいと思います。


<10代の息子と娘に>

7月13日掲載の記事にとても共感しました。

私は当年とって51歳の男性です。
19歳の社会人の息子と15歳の高校生の父親です。

私だけ単身で東京で暮らしていて
妻と子の3人は秋田で暮らしています。

息子と娘のために今日の記事を印刷してFAXしました。

思春期にはどろどろした思いがあふれます。
ここではないどこかとか、
今の自分ではない本当の自分を探します

でもいまここにある自分が本当の自分で、
人にあれこれ言われて反応している自分も含めて自分で
本当の自分がどこか他にあるわけではない。

自分とは
人とのやり取りから浮かび上がってくるものかもしれない
と思うときがあります。

そして人とのやり取りから浮かび上がってくる自分が
まぎれもなく今ここにある自分と言う気がします。

だから今日の連載はとてもストンと腑に落ちました。
わかりやすい文章だったから
息子と娘に呼んでほしくてFAXを送りました。
(T)



10代という、「自己確立していない」時期、
ほんとに危ういですよね。

自分というものが定まらないというのは、
底なしの不安です。

私自身、38歳からの数年間、
アイデンティティの組み換えがあって、
ほんとうに自分がグラグラして危うかったので、
10代の痛みが、わがことのようにしみます。

自分で自分がわからない、という
底なしの不安から逃れるために、
人は逃げを打ちます。

最近の若者に、
新たに2つの思考停止のパターンを見るのです。

ひとつは、
「時折出てくる弱く・醜い自分こそ、本当の自分だ」
という思考パターン。

なにか、若者に人気の作品にでも
このパターンがでてくるのでしょうか?
あまりにも、こう思っている子が多いのです。

「ふだん、まわりの顔色をうかがって
 イイ子を演じている自分は本当の自分ではない。
 本当の自分になれるのは、
 弱く醜い自分を解放したとき。」

こうした自己像を描く若者たちは、
文章を書かせても、
「露悪パターン」というのでしょうか、
まるで嘔吐をするように、
自分のなかの悪や醜さにばかり目がいき、
それをさらけだそうとします。

また、2つ目のパターンは、
「いまの自分から逃れるために」
やみくもな自己改革・自己啓発に走るパターンです。

先日も、ある学生から、
いまのままの自分のままでは人に受け入れられない、
だから、「変わりたい・成長したい」と相談を受けました。

でも私の心には、学生の
「変わりたい・成長したい」という言葉が、
「寂しい・友だちがほしい」に聞こえてきて
しょうがありませんでした。

「いまのまま、そのままのあなたがかけがえない。」

と私は、その学生に伝えようとして
伝えられなくて苦しみました。

私がいま、若者に伝えなければいけないこと、それは、
「立脚点」ではないかと。

すなわち、どんな自分が、いまどこに立っているのか。

「ワタシ株式会社」と先週言いましたが、
もともと人間が矛盾を孕んだ生き物なのだということ。

矛盾を抱えたり、ときに人にいい顔をしたり、
ときに勇気を出したりしながら、
どんな時代の、どんな関係性の中に、
自分は立っているのか。

自分の全体像というか、そもそもの立ち位置を
ざっくりとでも把握しないまま、

やみくもに、自分の弱さや醜さを受け入れようとしたり、
やみくもな自己改革・自己啓発に走ったりでは、
せっかくのいいところをいかしきれないばかりか、
カタチにはめたり、ねじまげるおそれがある。

大人が若者に示すべきは、
「どう変われ」「どうなれ」ではなく、

そもそも「いま、ここにある自分」の立脚点を示すこと
ではないかと、
いただいたメールに改めて気づかされました。


<相手の意外な部分が見えたとき>

今回のシリーズの件、
一人の友人のことを思いながらずっと読んでいました。

酔って、酩酊して、身内にくだをまいて、解放するとか。
そんな風に、いつも悪酔いする友人でした。
日頃貯めこんだドロドロを、お酒の力を借りて、
私の前で吐きだしている、排泄している。
そんな印象でした。

私は友人として、それを長年受け止めて、
時には流していたけれど、
ある時、これ以上自分を傷つけられるのは我慢できないな、
と感じ、もうこれ以上私を傷つけるような飲み方は
しないでくれ。
吐きだしたいなら他でやってくれ。
私はもう我慢できないから、
これからは我慢しないことにしたから。

そう伝えました。

そして、友人は私の前で以前のような飲み方は
しなくなりました。

友人が甘えている、私なら許してくれる、
そう思って吐きだしていたのはわかっていました。
その部分が友人の本当の部分でもない。
普段の友人も知っているから。
どれもこれも、ひっくるめて友人の人格なのだと‥‥。

私がそこまで分かっているから、
友人も安心して吐きだしていたのでしょうが‥‥。
全て、全てわかった上で、
それでも私は拒否することにしました。

私に拒絶されて、友人は、
今どこで吐きだしているのだろう。
また別のターゲットを見つけたのだろうか。
その人は傷ついていないだろうか。

心配になりますが、
そこを引き受けるのは私の役目じゃない。
そう思っています。冷たいでしょうか。

願わくば、だれも傷つけない方法で
友人がその部分の自分を解放できていますように‥‥。

私の、そういう部分はどこに出ているんだろう?
いつ、解放しているんだろう?

そんなことも考えています。

とりとめのない感想になってしまい、すみませんでした。
(M.M)



M.Mさん、とても優しい人だとジーンとしました。

M.Mさんはいま、
酔って出てくる友だちが、友だちの「一部分」であると
思っている、そこに希望があると思いました。

酔って出てくる、友だちの「いやな一面」、
それは、まぎれもなく、友だちの「部分」であるし、
自分にはとても引き受けきれない、ということを
M.Mさんは知っている。

かといって、それが、友だちの全部ではないし、
酔ってでてくるいやな面こそが、
相手の本性だとも思ってないし、
他に「いい面」があると知っている。
友だちとして、つきあっていこうとしている。

友だちや恋人の、「意外ないやな一面」を見てしまうと、
「そんな人だとは思わなかった」と言って、
関係を断ってしまう人がいます。

たとえば、好きな女性を、勝手に「聖女」だと思い込んで、
勝手に純白だという幻想を抱いてしまって、
その「純白」のなかに、1点でも「汚点」が見つかると、
ガラガラと幻滅してしまい、

「そんな人だとは思わなかった」

と別れてしまうようなパターンです。
「一部分」に「全体」がやられてしまっている。

そうした状況もあるなかで、
M.Mさんが、それでも、
友だちとしてつきあっていこうとされていること、
それがとてもいいなあ! とおもいました。


<考えることを放棄してはいけない>

昨年度「自己と他者は表と裏である」卒論を書いていた
akanetです。今年度からは、
「自己が行為や思考の作用主体であるという感覚;
 Sense of agency」を扱おうとしています。

今回のズーニーさんの

>まずは、ふだんから、
>小さく・かわいく・きっちりと
>「自己表現」していくのが基本。

を読んで、ちょっと泣きそうになりました。

考えることを、放棄してはいけない。

被災者の皆さんにはすごく申し訳ないのですが、
私自身にとって、
単科国立大学(教育・用意された少人数制)から
総合国立大学(医学・つながりは自分からつくる)への
移籍という環境の変化は、ただならぬもの、でした。
家もある。家族もいる。
そんな私に許される表現ではないのかもしれません。
でも「ただならないもの」なのです。

ただならないもの、を前に、
考えることを放棄することは、すぐにできる。

私のなかにある“もわもわ”が伝わらない。
“もわもわ”も、色が薄くなっていく。
相手の言いたいことも、わからない。
相手が困ったような顔をしていることはわかる。
でも、どうしてもいいのかもわからない。

私は、だめなんだ。なんでここにいるんだろう。

知らず知らずのうちに「本当の私」は
私のなかにだけ存在することが、
(そのときにはわからないけれど)、前提になっている。

前提、よりも、基本は?

>まずは、ふだんから、
>小さく・かわいく・きっちりと
>「自己表現」していくのが基本。

ことばは、人と人との間にあるもの。
私の中にだけ「本当の私」が存在する訳ではなくて。
人と人との関係を「小さく・かわいく・きっちりと」
築くことから、逃げてはいたのではないだろうか。

ここに踏みとどまらなくては、と。
(akanet)



「本当の私とは、人との間にある」、
akanetさんの考えにそうだそうだ!と思いました。

最初の投稿のTさんも
「人とのやり取りから浮かび上がってくる自分が
 まぎれもなく今ここにある自分」
と言っていて、ほんとうにそのとおりだと。

だから私たちは、
生身の人間に対して、
自分の想いや考えを、自分の言葉で、
日々小さく・かわいく・きっちりと表現して、
相手の生の反応を浴びることが大事なんだと。

若者の中には、
自分の弱さや醜さなど、
やたら自分の悪い面にフォーカスしたり、
やたらと受け入れようとしたり、
露悪的になって、ネットなどに匿名で
自分の弱さや醜さを吐露したり、
ということも見られます。

でも、それは、akanetさんの言う、
「自分は自分のなかだけに存在する」という、
ひとり完結の世界。

自分の一部分に、全体が足元をすくわれるような、
危うい、自分らしさとは逆の、世界です。
それよりも大事なのは、

「自分が伝えたいことは何か?」

を探すこと、ささやかでも、
人に向けて表現していくこと。

文章で言えば、
「自分が最も書きたいことは何か?」
と探し続け、ちっぽけでも書き続けることです。

「自分が、自分が、」と、
やたらに自分の欠点にフォーカスしたり、
受け止めようとしたり、
吐露したりする文章は、
意外に伝わらないし、人も文章も進歩がない。

それよりもまず、「伝えたいこと」ありき。

ときに、「自分には伝えたいことなどないのではないか」
という不安に襲われながらも、

それでも負けないで、
状況のなかで、関係性のなかで、日々、
「自分がいま伝えたいことはなにか」と考え、
見つかったら、ささやかでも伝えていく。

ときにはそれを伝えるために、どうしても、
自分の過去の経験に向き合わざるを得ず、
そこで、自分の弱さや醜さに、
思わず出くわしてしまうこともある。

そのとき、
「自分の弱さ醜さを人に知られるの恥ずかしいし、
 できれば避けて通りたいけれど、
 伝えたいことを伝えるために、
 どうしてもそれを言わなければ伝わらないので」と、
勇気をもって伝えたとき、

ささやかでも伝えたいことが伝わった。

思いがけず、結果として、
自分の弱さや醜さを受け入れていた。
そこから、前に進めていた、
という順番がいいのではと私は思う。

私にとって、書いたものは認めたもの。

「本当の自分」というものがグラグラして不安なとき、
探すのは「自分」ではない、
自分の「あるべき姿」でもない、
探すのは、

「自分が伝えたいこと」

ではないかといただいたおたよりに改めて思いました。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-07-20-WED
YAMADA
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