YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson544
    おかんの昼ごはん ― 6.選択



私は、
岡山の県北のちいさな町に住む両親とは、
遠く離れた東京にいることを選んでいる。

おなじように故郷をあとにした編集者さんが、
こう言った。
いまから考えれば、選択のとき、

「たまに会う親の老化に衝撃をうけることや、
 将来、親に何かあったとき、
 きっと後悔するんだろうなーと、思いつつ、
 それらの思いと引換に、
 田舎から、親から離れたんですよね。」と、

そして、「そういう気持ちを持て余していた」と。

私自身も、考えて、考えて、覚悟して、
腰まであった髪をバッサリ切って、腹をくくって、
東京にきた。

いまもその選択に悔いはない。

でも、仕事だ、使命だと、
どんなに自分自身を納得させようとしても、
おかんのこと、
実家と2時間ほど離れ母の面倒をみている
姉のことを想うと、自責というか、
心で疼くものは減りはしない。

だから、編集者さんの「ひきかえ」という言葉が
胸に響いた。

私たちは何かを選び取った際、
「ひきかえ」にしたものをちゃんと見ているだろうか?

選択では、何を選んだかより、
そのことで何を失うのか知ることが重要。

きょうは、「選択」に関する読者のおたよりを
紹介したい。


<仕事を辞めてはいけない、故郷に帰ってはいけない>

先週、介護に悩んだお父様が壁をへこましたという
読者のおたよりがありました。

心もへこみ、拳も痛むでしょう。
その拳が、認知に変動がある親に向かわなくてよかった。

追い詰められるなら、
人を頼ってみるのもいいのではないか。
代価がお金でも、いいではないか。

良い環境を選ぶセンスは、子でなければできないことです。

震災時に一緒に居てやれなかった義理の母。
何度も停電を繰り返す中、たまたま施設に居ました。

いつも誰かが居て、「大丈夫?」と声をかけてくれ、
暖かくして三度の食事をさせてくれました。
安心につながったと言っていました。

私達は貴重なガソリンを分け、石油を分けて、
施設全体の大きな家族とともに
義理の母に暖を取れるようにしました。

仕事を止めてはいけない。
故郷に帰ってはいけない。

あなたが社会で活躍することで、親の経済を支えられる。
独居老人は介護や医療の公的減免が受けられます。

辞めて介護に入り、失業・虐待・アルコール依存。
そんな悲劇を望んで子を呼び寄せているほど、
親の認知能力や予測能力は
かつてのように鋭敏ではないのです。

子を持つ親なら、案じる心を抑えて旅立たせる。
(初めてのお使い、予防注射、保育園から始まる教育)

介護職のモラルに敬意を払い、
頼って親を子から手放す勇気と、
周りに気を使うことによって
本人に還元されるように、
環境を整えることも、子の役割ではないか。

持続可能か?
ここを考えて欲しい。

泣いたり吼えたりはその後です。

独身で、子育てというケア準備教育もないまま、
介護に入る方々のご苦労を思うと
二つ困難があるように思います。

(1)ケアの経験がないまま、
   親がケアの対象になる戸惑い。

(2)介護そのものの困難(食事、排泄、金)

ケアする側が追い詰められることが、虐待の原因です。
あなたが悪いんじゃない。
手放しても良いんです。

あなたもほっとしたり、良く眠る権利がある。

ひいてはそれがよい介護関係を築くことになると思います。
その代わりに、「良い子供・良い嫁」は手放しましょう。

観念的・心情的になって
親を抱え込もうとしている読者のかたに、
現実的・具体的方向性をみてほしい。

大事なのは距離感。
親も、あなたも、大事なんですから。
(介護歴は15年の石割桜)


<惨めでも生きたい>

私の母は87歳になる祖母の面倒を見に
週二回実家に通っています、
老いの現状をいつも母から聞かせれ、
たまに一緒についてゆくとなおさら老いを感じます。
でも、一生懸命生きているしそれがつたないから
何だっていうんだ! という気持ちもあります。

私は実家で父方の祖母も同居しているので
もっぱら私が面倒をみています。
もちろんイライラすることもありますが、
尊厳を守りながら老いてゆく過程をサポートしたいと
思っています。

父は病弱でこの数年は老いが激しく、
母もこちらが手を添えるほど足が悪い状態です。
でもそんな母が介護をしています。

私はうつ病で治療中なのですが、
10年間ひき籠った末に弟が自殺したのが
数年前の出来事です。
そのショックを、親や私の介護の負担を、
同僚に理解してもらえず仕事を辞めたのが経緯です。

でも私は親をせめて看取りたいとの思いで今通院中です。
死んだ弟を埋葬した時に母が
「ここに、この子のところに一緒に入れるのね。」
そう言いました、それを聞いて、私は親を送らねば、
そう強く思いました。

できれば長生きしてほしい、
でも確実にくる老いを寂しく思いつつも受け止める勇気が、
その母の言葉で沸いてきました。
私も長生きできれば老いに行き当たる、
結婚していない私はもしかしたら
その老いを1人で背負うことになるかもしれません。

それでもいい、惨めでも生きたいという気持ちは
私の中に強くあります。
(Y.)


<母が望むこと>

つい先日、母が亡くなり、
未だにすべてを受け入れてはいない状態ですが
母への供養として、

今までよりも頑張って一人前になりたい

と思います。
きっとそれが母が望んでいることなんじゃないか、
そうすることで、
母の死という現実を受け止めていけるんじゃないか
と考えています。
(かものはし)


<たったひとつの気づき>

高校生です。
70になるおばあちゃんがいて、
前はあんなにしっかりしていて、
かっこよかったおばあちゃんが、
今ではちっちゃな子供のように、
近所の人に平気で悪口を言ったり、
傷つく様な言葉を毎日毎日はいています。
母はそのおばあちゃんの悪口を言ったりもしますし、
挙句の果てには、
なんでもお金で解決しようとするおばあちゃんが、
次第に嫌いになっていきました。
それを誰にも伝えることができずに、
何年も一人で悩んでいました。
そんな時、ズーニーさんの話を聞いて、
私はホッとしました。
私が悩んでいたのは、おばあちゃんの老いが悲しかった事に
気付かせてくれたからです。
本当にありがとうございました。
最後の高校生活に、人生の勉強を刻むことができました。
(H.K)


<ねじれ>

自分のなかで、おかしな「ねじれ」があることに
恐ろしさを感じています。

私は、老いて体も心も、頭も、衰えてしまった方への
言葉のリハビリの仕事をしてきました。

ところがです。
自分の母のことを考えると‥‥
数々の投稿の根底にあるような、「親への愛情」が、
私の心からは、何一つでてきません。

「さんざん、色々なことをしておいて、
 結局ぼけて、迷惑かけるのね」

と。その気持ちが起こるだけです。
(お蔭様で、父、祖父母はじめ母以外の身内には、
 そのような皆様のようなやさしい気持ちが
 起こりますが。)

母以外の人々に対する感覚と、
それが通用しない母への感覚。

この気持ちのねじれが、私はおそろしいのです。

良く言います。「身内となると話は別」

すごく客観的に申し上げて、
母は特に世間的に悪いことをした人ではありません。
私を助けてくれたことも沢山あります。
お世話になったことは数知れずです。
私が大人になるまでに、かかった費用を計算すれば、
約2000万円です。

客観的に見て、そうなのです。母は私の恩人です。

けれど、私の主観はいつも、
「母に迷惑をかけられた。
 母の面倒をみなければならない。」
と。なっているのです。

私は子どもがおります。
私の子ども時代のことを思い出します。
けれども、母に感謝はできません。
こんな気持ちのまま、子育てをしていること、
子どもに申し訳なく思うのです。

こんな気持ちをもって生きていきたくありません。

できれば、1日もはやく、
この「ねじれ」を解決したく思います。
その手がかりを日々、さがしています。
(コーギー)


<とても恐がりになりました>

大学院生です。
大学入学後に父を亡くしました。
みなさんのお便りを読んで、
早くに親を亡くしたのは私だけじゃないということ、
親を亡くすことに年齢は関係ないということを知りました。

もう5年も経つのに、私はまだ、いろんなことを
「親を亡くしたせい」にしています。
学生という立場もあってか、まだ、
「親を亡くしたこども」です。

私は父が病気になる前より明らかに消極的になりました。
高校の時、父の病気のことを誰にも言えなかったこと。

「当たり前」が失われることが怖くて、
新しいことを知ることを拒むようになったこと。

日常が日常であるほど安心できました。
なにか新しいことを始めようとするときは
へとへとになるくらいエネルギーを使うし、
すこし環境が変わるだけで落ち着かなくなりました。

常に「死」がつきまとうようになり、
とても、恐がりになりました。

私ももしかしたら
明日はもうこの世にいないのかもしれない。

母は病気もせず元気にしていますが、家を空けるとき、
私がいない間に、ひとりの母になにかあったらどうしよう、
私が帰ってきたとき、倒れて冷たくなっていたら‥‥
と考えてしまうこともあります。

だけど私は、怖がるまで、です。
その先がない。
じゃあどうする? もしそうなったらどうする?
という準備が全くない。

父が亡くなったとき、もっとこうしておけばよかった、
伝えたいことがあったのに、と
散々後悔したくせに、
同じ過ちを繰り返そうとしています。

父は最初に告げられた余命より
ずっと長く生きてくれました。
でも、「父は入退院を繰り返しても帰ってくる」と
思うようになり、
父がいつかいなくなってしまうことを
意識しなくなっていました。
父が最後に教えてくれたのは、

当たり前の日々はいつか終わる。

ということだったように思います。

だからどう生きる?

みなさんのお便りを読んでいると、
つきまとってくる死のにおいに、正面から向き合っている。
私ばっかり背を向けていられないなあと、
身の引き締まる思いです。

祖母に認知症の症状が出始め、
母が通院に付き添っています。
父の時のように、また母任せになっている。
祖母の病気に向き合うことは怖いけれど、
逃げていたらまた後悔する。
今度、祖母の通院に付いて行ってみようと思います。

私は来年から社会人になります。

特に迷いもせず地元で就職する道を選びましたが、
それはきっと母のためではなく、
母を守りたい・最期の時にそばにいたいという
私のエゴのため。

私は、やっと大人になろうとしているのだと思います。
(るを)


<「備える」という選択>

母の老い。
すぐはいけない距離に一人暮らし。
時々 今後のことを考えると眠れなくなります。

私は早くに父を亡くし、兄弟もいないので
親のことも、たぶん実家の後始末も、
誰にも相談もできず、一人で引き受けるしかありません。

自分にも仕事と生活があり
全部 母のことには向けられません。
どこか 見ないふりしてるところもあると思います。
「その日」がくることを認めたくないんですね。

けれども
もし母が一人で生活できない日がきたら
仕事は辞めるか、まったく違う形に変えようと思っています。

私なりに考えて
今 自分だけができる仕事を
マニュアル化して、一つにまとめようと思いたちました。
仕事の進行状況も誰にでもわかるようにして
いつどんな形で仕事が続けられなくなっても
誰でも引き継げるようにすること。
そこから始めようと思います。

これが正しい、というものはないけれど
手紙や電話という手段も
もっと使おうと思いました。

見ないふりして逃げてた私に
考える機会をくださってありがとうございます。
(リラママ)



親の老いを受け止めてからの選択は、
親が老いる前の自分の人生が既定する。

おたよりを読みながら、そう気づかされた。

親の老い、
私たちは、場合によっては、ある日突然、
「何を選ぶか? 何を捨てるか?」
の選択を迫られる。

でも、そこで選べる選択肢って、
それまでの人生で、自分ががんばって拡げた
「ふり幅」が既定するんじゃないか。

たとえば、それまでの人生で、
仕事をがんばって、
社会貢献もし、社会的ネットワークも築き、スキルも磨き、
お金もたくさん得てきた人が、

親の老いに直面したとき、
仕事を捨てる、という選択もできる。

仕事で得たネットワーク・お金・スキルを投入して
介護にあたることもできる。

経済力があれば、プロに介護を頼んで
自分は仕事を続けることもできる。

つまり「ふり幅」がある。

親がまだ若く元気なときに、
自分がのばせるだけのばしたものが「分母」だとしたら、

親がせっぱつまってから選べるものは
「分子」にあたるというか。
分母の範囲内でしか、分子は選べないというか。

もちろん、人間にははかりしれない可能性があるから、
親の老いにせっぱつまってから、
とんでもない潜在力が開花することもあるとは
想うのだが。

親の老いがせっぱつまったいま、
20代、30代の、分母が広げられるだけ広げられるときに、
東京まで出てきて、
しゃかりきになって仕事をしてきて、
ほんとによかったな、と思う自分がいる。

分母と分子、

この感じをとてもよく表現してくれた、
このおたよりを紹介してきょうは終わりたい。


<デクレッシェンドの日々のために>

子ども。若者。青春。
ひたすら<(クレッシェンド)の日々だ、と思います。

できなかったことができるようになって、
知らなかったことを知って、
行ったことのないところに行って‥‥
それは実年齢に関係なく、
誰もが自然に求める進化であって。

そしてその進化を求める時には、きっと
自分よりも「<」の幅の大きい人を求めるし、
導いてほしいと思ってしまう。
包んでほしいと思ってしまうんだと。

とくに自分の親には、ずっと「<」でいてほしいし
その背中を追い続けていたい‥‥

自分の中の「こども」「青春」は、
それを求めてしまうのだと思います。

もちろんそれ自体は悪いことではなく、
むしろ素敵なことで
いくつになっても、
それを求め続ける姿勢を自分の中に持つのは、
すごくいいことで。

でも、
人間も生き物で、
「老い」そして「衰え」からは、絶対に逃れられない。

それは紛れもなく、
「>」(デクレッシェンド)を意味する。

可能性の広がり、といった明るいイメージの
「<」に比べると、「>」は、できることが減っていく、
行動範囲がせまくなる、
そんなマイナスのイメージを持ってしまう

けれど、
これこそ、ズーニーさんがおっしゃっている、
「自分にできるひとつ」に向かっていくこと、
なんでしょうか‥‥?

あれもこれも、ではなくて。
「残された時間で自分にできるひとつ」‥‥

その価値観に出会ったとき、
「<」しか知らなかった、こどもの、青春の自分は、
さぞかしびっくりするだろう‥‥

現代の日本では、医療も発達していますし、
眼鏡や車や、便利な道具のおかげで、
「>」の価値観に出会うことは、
かなり限られてくるように思います。

出会うとしたら、多くの場合、親の老いなのかもしれない
‥‥と、思いました。

一番近くで、ずっと「<」を見せてくれた人の、
抗えない「>」に接したときに、

認めざるを得なくなる。
すぐにはきっとわからない‥‥
手探りで触って、
涙を流して、
壁をなぐって、

少しずつ、掴んでいくものなのでしょうか‥‥
「>」という、
新しいものさし。
考え方。

以前、読者の方が書いておられた、
80歳を過ぎるお父様が、
「これまでとまったく違う価値観で生きはじめている」
とは、こういうことなのかなぁって、
思いました。

必ずやってくる未来に、
自分の「ひとつ」を、
ちゃんと考えて選びたいです。

そのために、
今までの自分に自問自答
することと、
そして、できるうちに出来うる限り、「<」、
たくさんのことを知りたい。
そう、思います。
(らいむすとーん)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-06-15-WED
YAMADA
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