YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson540
    おかんの昼ごはん ― 2.想いの共有



先週の「おかんの昼ごはん」には、
すごくたくさんの反響が寄せられた!

まず読者メール2通を読んでほしい。


<母の老いを感じた時>

五年前、久しぶりに
ひとり暮らしの母の処へ帰った時のこと。
夕飯の手伝いでもしようかなと冷蔵庫を開けた瞬間
時が止まったような感覚。
頭の中が波のすーっと引いていくような感覚に
襲われました。

なんと冷蔵庫の中には、母の大好きなキムチが
20個以上あったのです。

そしてその殆どのパックの賞味期限が切れていました。
慌てて他のものもガサガサと調べてみると
同じものがいくつもあり、
いずれも同じような状態になっていました。

母が認知症に‥‥!?

自分の心臓の鼓動だけがバクバク聞こえる中、
しばらく立ち尽くすばかりでした。

「老い」というものを衝撃的に感じた瞬間でした。

帰りがけに、何とかしなければと思いながら玄関を出て
暫く歩いてから、ふとふり返ると、
母がまだ玄関先から見送ってくれていました。

私は二回目はふり返らないようにしようと心に決めて
足早に歩きました。背中に視線を感じながら。

胸がつーんと痛くなって、目の前がぼやけてしまいました。

今、母は商売をやめ、私の妹の処にいます。
症状も少しずつ進み、足も悪くなり一人では外出も
出来なくなりました。

今でも時折その時のことを思い出し、妹と語り合います。
「母の老いが決定的になったあのとき」として‥‥。
(はる)


<外まで出なかったおばあちゃん>

もう20年は前のことになります。
私たち家族は、毎年、
年の瀬から正月にかけての数日を、
父母のそれぞれの実家で過ごすのが習慣でした。

私が小学生5年の年の帰省は、
今でも忘れられない思い出になっています。

母の実家にて、祖母と母、私と妹の4人でいたときの事。

昼食後、祖母が
飲まなければいけない薬を飲んでいなかったことに
ガミガミと煩く言う母、
そんなに怒らなくてもいいのに、
と内心思いながら見上げた母の顔は、

予想に反して心配でたまらないという顔。

「お母さん怖いねえ」と、
少しおどけながら言っていた祖母も、
そんな母の気持ちが良く分かっているというような笑顔。

私たちが家に帰る日、

いつもは家の外まで見送ってくれる祖母が
今日はここまでね、とドアのところに留まっている。
じゃあね、とお互いに手を振り、ドアが閉まる瞬間、

くしゃくしゃになった祖母の泣き顔が見えた。

そのドアを背に歩き出した後、
「我慢していたんだねえ」と目を赤くした母の言葉。

私は、冬休みの宿題の一つとして出されていた作文に
その数日間を書きました。
クラスで1本、県の作文コンクールに
推薦されることになっていました。
担任の先生が
「他にうまい作文はあったけど、
 先生はこれを推薦しようと思う」
と言った作文が、私の書いた「おばあちゃん」でした。

いつもは義務として、休みの終わる前日に
嫌々書いていた課題。
でもその時
私には書きたい場面があった、

どんなにつたない文章でも、先生に伝わった!

そして、コンクールに出すにあたって、
文章を推敲する指導を担任の先生から
個別に何度も受けました。

「いつもは外まで見送ってくれたのに、
 どうしてその時はドアまでだったのかな?」

推敲作業の一環で確かこう聞かれたのですが、
私には分からず
うまく答えることもできなかったように記憶しています。

ズーニー先生の
『「行ってきます!」と別れて歩きはじめた私を、
 はじめて、名残り惜しんで、母が追ってきた。
 いつもは、別れが辛くても、平気なふりをする母が、
 バレバレでも、そっけないふりだけは、
 必ずしていた母が。
 これも老化で、
 自分がおさえられんようになったんかなあ。』

ああ、これかあ、とすとんと胸に落ちてきて、
涙がぽろぽろこぼれました。

その祖母も、去年7月に亡くなりました。

結婚して家を出た私は、
記憶にある、見上げていた頃の皺も白髪もない両親の顔と
時々会う実際の両親の顔とのギャップに、
毎回少し動揺しつつも感じていないように
繕っていたような気がします。

そんな私も、「死」と「老い」を
自分と自分の家族のこととして本当に受け入れ、
受け入れた上で今から何をするのか
考えなければいけない時なのだと思いました。

照れもあり、普段は携帯メールでのやり取りで
用件を済ませてしまっていましたが、
いつか来る「その時」に後悔しないように、
特別な用事があるわけではなくても、
会って話をしに行こうと思います。
(彩子)



先週分には、このように、
深くて哀しい、そして優しい、心にしみるおたよりを
たくさん、たくさん、いただいた。

ありがとう。

なにより私がいちばん励まされた。
いただいたおたよりは、質・量ともに
とても1回では紹介しきれない。

私と同じように「親の老い」への、
たまらない想いを表現してくれたメール、

消春への反響として、
読者それぞれの「青春の終わり」を書いてくれたもの、

自分自身の人生の短さも悟り、
そのなかで、「なすべき1つのこと」をどう見つけ、
どう生きるかという考察‥‥。

この中で、きょうは、
「親の老い」についての「想いを共有」するメールに
絞って紹介していきたい。

いま、この瞬間にも、同じ空の下で、
自分と同じような哀しみを抱いている人がいる。
その哀しみに触れることで、
私自身の哀しみは減らなくても、
少し大きなところから包まれた気がした。

では想いを共有するメール、
一気に紹介していきたい。


<自分の親だけは>

「誰でも同じように年をとる」
分かっているつもりでも、
自分の両親には当てはめられなかったんですが、
会うごとに、動作が鈍くなり、要領が悪くなり、
頑固になり、覚えが悪くなり、意欲が減っていく。
自分だって、同じですよね。
中学生の娘から見たら、私だって同じ。
いま、この時を大事にして、
伝えなくちゃいけないことはきちんと伝えていきます。
(MISA)


<小さいころは背中を追って>

いつの間にか立場が逆転してしまった‥‥。切ないですね。
親の背中がいつのまにか小さくなり、
背中を追っていたのに、
小走りでついてくる。仕方のないことだけど、淋しいなぁ。
(hana)


<美しい祈りの中に>

Lesson539おかんの昼ごはん
涙がどんどん出てきて、嗚咽して、
今もキーを打ちながら涙がでてきます。

「おかんの老い」は、
みんながずっと抱えている1つの恐怖。不安。

大人になってからそう思うんじゃなくて、
もう物心ついたときから
抱えている怖いことの1つのように思います。

子供の時、夜寝る前に
「お母さんとお父さんがずっと元気でいますように」
と祈っていました。
それは美しい祈りだけど、
その祈りの中に既にしっかりエゴも入っている。

「お母さん、いつまでもずっと元気でいて、
 わたしが元気にあそべるように」

子供という存在にとって、
それは当然の本能なんだろうなと思います。
でも、なんだか悲しい、わるいと思ってしまう。

今回のコラムによって
「お母さんに対する子供(わたし)のエゴ」が
晒されてしまった。
親をどんなに大好きで大切でも、
このエゴは今わたしの中に存在している。
嫌だけどそれを認めようと思います。

でも、ズーニーさんは、
「お母さん、いつまでもずっと元気でいて」
のエゴから解き放たれたんだなぁと思いました。

『本当に「死」と「老い」を受け入れる』というのは
まだ受け入れていないわたし自身にとっては、
本当に尊敬する凄いことだと思いました。

「青春は終わった」

一読したときは、さみしく枯れたように響いた言葉でした。
でも自分の涙の理由とよく反芻してみたら、
濁ったエゴに行き着きました。
もう一度読みかえしてみたら、
「青春は終わった」
今度は濁りまくっていた水が
澄んでいったイメージになりました。
ズーニーさんはこれからどんどん澄んでいくんですね。
(カミツレ 25歳)


<本当の敵>

文章がかすんでしまうくらい涙が出ました。
自分のGWと同じような出来事が書かれていたからです。

でも、大きく違うところがありました。
それは、ズーニーさんは消化し、
お母様のことを受け止められていたことです。

私のおかん(私は普段からこう呼んでいます)も、
ここ数年は帰省するたびドンドン小さくなって、
「今まではそんなことなかったのに」ということが
増えました。
同じ話を何度もし、昨日のささいな出来事を忘れ、
ちょっと考えれば分かることが解けなかったり‥‥。

私はそれらに対して、その都度
「もうその話は何度も聞いたよ!」
「昨日話したばっかりじゃん!!」
「ちょっと考えれば分かるでしょ?
 頭使わないとホントにボケちゃううよ?」などなど‥‥。
ひどい言葉ばかり浴びせていました。

いちいち昔の「しっかりしていて頼りになり、
私をいつも怒ってばかりいた、あの母親が‥‥」
という思いが拭えず、
今の母親の姿を受け入れられなかったんです。

「このまま受け入れたら、おかんはドンドンボケてしまう」
「考えなくなってしまう」
「私の知っているおかんでなくなってしまう、
 おばあさんになってしまう!」と
悲しく、切なく、そんなおかんを惨めにも感じていました。

そして、ついに暴言を吐きおかんを傷つけてしまいました。
でも、素直に謝ることができず、
それでも「おかんが悪いんだから」などと
思って意地をはっていました。

これから、日一日とおかんが若返ることも、
しっかりすることもなくドンドン年老いて、
ドンドン頼りなくなるのだと思います。
そして、その都度私は、
悲しんだりヘコんだりするのでしょう。

それでも、ズーニーさんの文章を読んで、
それらを受け止める覚悟と
受け入れる懐の準備ができそうな気がしました。

私のこの醜いココロの敵は、老いていくおかんではなく
それを受け入れることができない自分自身の弱さなのだ
と思います。
この戦いはおかんが生きている限り、
ずーっと続くでしょう。
それでも、ずっとその変化を見続け、
ときには感謝をし、笑ったり怒ったりを繰り返しながら、
できる限りこれからも夏冬かかさず
帰省し続けたいと思います。
(すみぃ)


<最も生死について考えさせてくれる存在>

私ももう何年も実家を離れて暮らしています。
実家には両親と祖父母。
祖父母ともに認知症を発症し、
母が孤軍奮闘で介護する日々が続いていました。

ずっとずっと頑張りすぎる母を心配していましたが、
ある日突然、何気なく母と電話をしていて、
母が精神的に参ってしまっていることに気がつきました。
すぐに帰省して、むりやり病院に行かせました。
そして出た診断は、いわゆる「介護うつ」でした。

今は定期的に通院して気持ちも落ち着いているようですが、
介護する側の母自身、また父自身も
祖父母が年老いて記憶を無くしていくのと同じように、
少しずつ老いていっているのだと、
気づかされる出来事でした。

祖父母の記憶はどんどん混迷していき、
体もどんどん動きが悪くなっていきます。

出来ていたことが、次の日には出来なくなっている。
出来ることがいつの間にか減っていく。
両手から砂粒がこぼれおちるように、
ひとつひとつ、あっという間に。
それを間近で見続けることが、
母にとって精神的な老いを助長させているようです。

最近私が実家に帰ると、母はよく泣くようになりました。
「なさけない、申し訳ない、
 でもこれ以上は出来ないかもしれない」と。
何日間かの帰省でまた自宅へ戻ろうとすると、
祖父母も必ず、
「次はいつ帰ってくるのか」「もう会えないかもしれない」
と言って、引き留めます。

3月11日の震災後、
私自身も「生と死」についてずっと考えていますが、
身近な家族の老いほど、
人間の生死について考えさせられることはありません。

当たり前の毎日を一つ一つ積み重ねていく幸せ。
その先には、必ず「死」が付きものであるという事実。
生まれて、死んでいく。その流れの中にいるということ。

いつか終わることが決まっていたとしても、
今生きているという事実を胸に、私は何をすべきなのか。
考えすぎると迷路に入ってしまいます。
(ひとりぐらしのわたし 20代・女)


<もっとも滅入ってしまうのは>

動きもそうですが、それ以上に、私が滅入ってしまうのは、
精神的にむき出しになっていくもの‥‥。
多分、若いころには、
理性の力で「あるべき自分」に近付けていたのが、
力が弱るとともに
むき出しになっていく様は、見ていてつらくなります。

人はみな、このように年老いていくのだということは
頭ではわかっているのですが、
自分の親の状態を受け入れることができず、
やさしくできません。

親は今も私の親で、
小さい頃には絶対的に私を守ってくれる存在のはずでした。
ですから、つい、「期待」をしてしまいます。
いつまでも、親であることを。
(アムタニナ)


<母は、やはり母であり>

近年、同居している兄から、73歳の母は
「自分でやろうという気が全くない!」とか
「性格が変わってしまった。」
「人間の嫌な部分だけが残った」と聞かされていました。

「もう、以前の『お母さん』と同じように感じあったり、
 分かち合えたりしないのか」と
寂しく思っていました。

でも、2月に軽い脳梗塞で入院した母を
見舞った時に感じたのは
「やっぱり、『お母さん』は『お母さん』のままだ。」と
いうことでした。

表面的には、感情の表し方が薄かったり、
集中力が少なくなったりしていますが
人の優しさや思いに、敏感でそして、
馬鹿正直な所は、無くなってもないし
人格が変わってもいなかったのです。
ただ、「歳老いてしまった」のだと思うのです。

できないことが多くなり
動きがのろかったり
見た目が、恐ろしかったり
足手まといに思ったり

切ないけど、それが
「歳を重ねる」ということなのだと思います。

一緒に暮らしている兄にとっては
依存的で、何も自分からやろうとしない母は
悩みの種なのかもしれません。
私の思いは、所詮離れて暮らしている者の
気楽な意見なのだとも思います。

世の中の「元気で現役バリバリ」の年配者と
母を比べて
「どうして、ウチの母は‥‥」と思ったりもします。

でも、それでもあの人が
私たちを必死で産み育てた母なのです。
兄夫婦に、「何と言えば通じるのか」と悩んでばかりです。
(のぶ)


<すでに遅すぎたか>

私はまもなく50歳になろうとしている女性です。

わたしも故郷の父母のもとで過ごして
帰ってきたところです。
ズーニーさんの言葉にまるごと自分を重ねました。

元気いっぱいだった母は、
今も元気そうにニコニコしているのですが
膝が痛いのと老化によって手先がきかなくなっていて、
動作がもたもたするようになりました。

子供たちを故郷に縛り付けず自由にさせてくれた
両親のもとには 誰も一緒に住んでいません。

そばにいなくて悪いなと思う度に
「とはいえ、両親はまだ元気なんだし。
 元気なうちは大丈夫よね」と言い訳にしていました。

でも、今回 「既にもう遅すぎたのかもしれない」と
わかってしまいました。
「しまったな、どうしよう」とも思っています。
甘え過ぎていたことは事実です。

これからどうしよう。
父と母との別れはそう遠くないうちにやってくるだろうに、
この私はなんだ。

両親が心配で愛おしくてたまりません。
(メープル)


<まったく違う価値観で>

僕もGWに実家に帰り、父に会いました。
母親が亡くなってそろそろ7年、
少しづつ少しづつ父にも変化があります。

ちょうど地上デジタル対応テレビを買い、設定し、
置き換えてあげようと思っていました。
当然ですが、80歳を過ぎる父には、
やや重い課題ということで。

少なくとも、テレビの置き場所の寸法ぐらいは
測ってくれるだろうという思いで、父に頼みました。

でも、いざ測った結果を書いたメモを見ると
何だかよくわからない。
「これどこを測った?」
僕は少し強い口調で言いました。

「ここは、テレビ台のところ、、、、」と
説明するのですが、
だんだん自信がなくなって、言葉がなくなり、
斜め下の方をさみしそうに見つめる。

不甲斐ない表情。
子供のような表情。

実は、実家に帰る直前、僕自身大切なものを失い、
落ち着かない気持ちで帰ったため、
父への対応に、短気な大人気ない態度を
取ってしまいました。

父は婦人服の縫製をする職人でした。
とても手先が器用であったし、
寸法を測ることも仕事の大切な技術で、
そんなことはなんてことのないと僕は思っていました。

ただ、
仕事をしていたころの父、母親が亡くなる前の父、
反論する力があり、強い力があり、棘がありました。
尖った棘ですら、僕の誇りでした。

最近は、僕の顔をなんとなく見つめていることも
多くなりました。
何だか言いたげなこと、少しうれしそうな表情。

父が年をとり、まるで子供のような態度になったとしても
僕は、父を子供とみることが出来ません。
年老いたのでしょうがないと思うことができません。

実家に帰るたび、その現実を受け入れるために、
今回のような自分の行動を
反省することを何度も繰り返しています。

ただただ長いのです。ただただ重いのです。

自分が大人になり、仕事を始め、
自立するまでに見てきた父親の姿が。

もし、今も母が生きていたとしてたら、
母に対しても同じことを思ってしまうかも知れない。

そこには、哀しみとさみしさしかない。

それでも
こんな気持ちを解消する方法があるとするなら、
若いことの象徴であり、価値である
記憶力、集中力、視力等等とは「全く違う価値観」で
父も生き始めていると思うことです。
生き続けていると思うことです。

ゆっくりと考える時間を大切にし、
小さなことには怒りをしめさず、あわてずに生きる力。
そんな価値観を理解する力が、
僕自身に求められているのだと思います。
(鈴木)


<大丈夫、親子だから>

40代の女性、父と二人暮らしです。

先日、初めて会ったお若い女性に、
「男のお子さんがいる感じがする」と言われました。

そうかも、
それ、あながち間違ってない、
と思いました。

父は脳梗塞後、オムツを使っています。
なんとか自分で歩くことができるので、
トイレへ連れていき、取り替えるようにしています。

「さあ、お父さん、トイレへ行こうか」
と声をかけると、
父は、
「さっき行った」
あるいは
「まだ大丈夫だ」
と言って、なかなか動き出さないので、
毎回、すったもんだします。

オムツを使い、
言い訳や屁理屈を言ったり、
すっとぼけたりする様子はこどもみたいです。
違うのは、これまでに身につけてきた能力を
徐々に失っていくところ。

津波という言葉で表現してよいものかわかりませんが、
気がつけば、
父は人生の最終章へ、
私は人生の後半戦へと押し流されていて、
娘の私が親を思いやりって
手を差しのべる立場になっていました。

そう言えば、
つい怒ってしまう自分がいやで落ち込んでいた頃、
怒るのは、父に甘えているからできるんだ、
と気がついたときがありました。

怒っても大丈夫、
親子だから。

それからは、
素直にさらっと怒って、
笑いたいときは笑って。

切ないと思うときもありますが、
怒りながら、
笑いながら、
お世話させてもらっています。
(いずみ)



震災以降、私も、
いやでも社会のあれやこれやが気になり、
付け焼刃のにわか知識であたふたと、
いろんな問題を考えた。

でもそのたびに、「敵は他にある」ような気がしていた。
私たちがある問題にかかずらわっているうちに、
実は、最大の敵が背後にしのびよって、
ひざかっくん、と自分を崩すのではないかと。

でも、読者の方々も言っていたように、
ゴールデンウィークに帰って母の老いに接し、

最大の敵は、自分の「死と老い」をどう受け止めるか?

なんだと気がつかされた。
さらに、その前段階である、親の老いをどう受け止めるか。
これは、母が身をもって教えてくれた数々のことのなかで
もっとも核心を突いた教えであると。

復興や、他者への支援を考えるにしても、
ここから一歩も目をそらさず、
むしろ、自分の老いや死に立脚して考えたものでありたい、
私はそう考える。

きょうの最後に、
希望を感じたこのおたよりを紹介したい。
来週もひきつづき、
「おかんのお昼ごはん」に来たメールから、
次回は、「青春の終わり」について、考えていきたい。


<僕はこれまで逃げていた>

僕は両親と三人で暮らしています。
両親は二人とも、今もパートなどで勤めに出ています。

僕はと言うと、一年半くらい前に
衝動的に仕事を辞めてしまい、
またアルバイトをして学校へ行って勉強しようだとか、
なにかの養成講座に行こうだとか
もうすぐ30歳になるというのに
浮いたことばかりを考えていた。

今回のLESSON 539を読んで、
自分はなんて勝手で、これまでなにをしていたのかと
情けなくて、悔しくてたまりませんでした。
両親に申し訳なくて涙がでました。
迷惑をかけ続けてきたのだと。
二人に確実にやってきている「老い」から
目を背けていると。

そして自分の人生における挑戦を恐れて、責任から逃げて。
自分を老化させていたことからも
目を背けているのだと思います。

自分がだらしないのに、社会のせいにして。
自分の辛抱が足らないことを会社のせいにして。
こんなダメな人間はもう終わりではないのかと
自己否定して、
卑屈になっている。

自律することもできていない‥‥。

肉体は30歳前なのに心は老人のようで。

コラムに書かれている「知的体力の衰え」が
自分のことのようで体が震えました。

自分の「得意」をつくって「自分にできるひとつ」をもつ
という社会への礼儀のようなものを
僕は怠ってきたのでしょうか。わからない。

でもズーニーさんが「死」と「老い」というものを
受け入れ、
「消春」を自覚されたという、「覚悟」と
その瞬間に「これまでのご自身から送られてきた
メッセージ」のような言葉によって
「確信」された姿を想像して、

もう一度がんばりたいと思いました。
(テツ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2011-05-18-WED
YAMADA
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