YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson538 掘る力


プロの書き手と、素人の差はなんだろう?

いろいろあるが、
きょう私が言いたいのは、
次のことだ。

プロは「たった1つ」を言うために苦しみ、

素人は苦しんで、つい「あれこれ」言おうとする。

でも表現者として最もおそろしいのは、
「本気で書きたい1つ」を持ってしまった素人だ。

素人の本気はすごい!

以下、教育の現場から、
そう考える理由をお話したい。

ひと言、ふた言、3言(みこと)。

文章で、字数的にも、内容面からも、
「あと3言」いわなければならないとき、

素人は、
「並列」で3つを言おうとする。

プロは、
ある1つのことを、3段階に掘り下げて、
その「本質」をあぶりだそうとする。

上記のことを説明できる
うまい具体例が引いてこられるかどうか、
きょう、私は、自信がないのだが、

「ある小説を読んで感想文を800字で書く。」

という具体例をあげて、
がんばって説明してみたいと思う。

素人の人の多くが、なぜ、
みな似たような、印象の薄い文章になるかと言うと、
無意識に、
「800字なら、3つぐらいのことは言えるな」
と思ってしまうからである。

本から感じたこと3つ×200字+まとめ200字
=800字

800字で3つを言うわけだから、
ひとつひとつは薄味になる。
たとえば、

「この本から私は、
 まず、自由とは何かを考えさせられました。
 それから、子どもの頃の記憶が懐かしく蘇りました。
 あと1つ、人の出会というものの不思議さに
 打たれました。
 以上のことから、本当に胸にしみる本でした。」

キーワード「自由」と「懐かしさ」と「出会い」。

それぞれに重い、1つでも主題になるものを、3つも、
しかも並列でとりあげている。

1つのことに200字しかかけられない。
よっぽど要約力がないと、
200字では一般的なことしか言えない。

さらに、「まとめ」の部分では、
並列した3つ、「自由」と「懐かしさ」と「出会い」は
バラバラで、収集がつかない。
だから、「胸にしみた」「泣けた」「感動した」など、
紋切り型のしめくくりをせざるをえなくなる。

プロは、
(プロにもいろいろいるが、たぶんプロの多くは、)
「800字では、1つのことしか言えないな。
 1つに絞っても、800字じゃ短いな」と考える。

そこで、

例えば本から、
「自由」と「懐かしさ」と「出会い」という3つのことを
感じたとしたら、

「この中で自分が1番感動した1つは何か?」

と自分に問いかけ、
1つを選び、他の2つを捨ててしまう。
あるいは、

「3つのキーワードの通奏低音である1つは何か?」

というふうに、
3つの根底にあるものに目を向け、
1つの主題をつかみ出す。

「最も書きたいことは1つ」、

であることを、プロはよく知っているからだ。
逆に、ここで1つを選べないようなら、
それは作品理解が足りないと、
本に戻るだろう。

はっきり言葉化できていても、できていなくてもいい。
ともかく、「最も書きたい1つ」がないと
書き始められないこと、
3つ並列や、漠然としたままでは、
ピンボケした文章になってしまうとプロはわかっている。

そこで、

「自由・懐かしさ・出会い、の3つのキーワードの中で、
 自分が最も書きたい1つは何か?」
と問いかけて、例えば、
1つ=「自由」を選ぶ。

あるいは、

「主人公がもっとも自由であると感じた瞬間はいつか?」
「主人公が死ぬ前に懐かしがったのはどんな思い出か?」
「出会いによって主人公が得たものはなにか?」

というように、3つのキーワードの通奏低音を探って、

「主人公は、自分が自分であると感じられたときに、
 “自由”であると感じ、
 自分らしさを覚えた記憶に“懐かしさ”を感じ、
 さまざまな異質な人との“出会い”のなかで
 自分らしさを捉えなおす機会を得ている。
 つまり、3つのキーワードの通奏低音は、
 “自分らしさ”だ」

というように、あらたな主題1つを割り出す。

1つを選ぶとき注意をしてほしいのは、
たとえば、

「人間とは何か?」

というように、深遠すぎて、大きすぎる主題は、
ほとんど、全ての小説にあてはまる、
どの作品にも言える主題だから、
もうすこし、絞り込んだほうがいいということだ。

こういう主題は、
普遍的すぎ、大きすぎ、深遠すぎて、
とても800字では手におえない。
自分なりの角度をもって切り取ろう。

さて、「自由」なり、「自分らしさ」なり、
主題=最も書きたいこと、が決まったとして、
これがほんの「入り口」にすぎないことを
プロは知っている。

素人はこれを結論としたがり、
プロは、「ここからが勝負」だと考える。

「自由」にしても、「自分らしさ」にしても、
このままぶつけても、お金がいただける文章にはならない。

いろんな小説で、いろんなふうに描かれている。
この言葉を、このまま結論にもっていっても、
作品の独創性は伝わらないし、
書き手のオリジナリティもない。

それで、掘る。

あと3掘りほどする。

「掘る」というのは、
抽象的な言い方だが、
「自由」なり、「自分らしさ」なり、
という言葉を、

「それってどういう状況?」
「なぜ、そう言えるの?」
「とどのつまり、それはなに?」

というふうに、最低3回、
必要なら5回でも、10回でも、
「なぜ、なぜ、なぜ‥‥」と自分に問い、自分で答え、
自分で自分にいちゃもんをつけながら、
さらに一段深い本質、
そのまた一段深い本質、
そのまた本質へと掘り、
それを自分で言葉化していく。

たとえば、「自由」を主題にしたとしたら、


この本から私は“自由”について考えさせられた。
本書の言う自由とは何か? (問題提起100字)
     ↓
登場人物はどんな状況で自由を感じているか?
→「異質な他者との遭遇」で実感している。
               (1掘り下げ200字)
     ↓
なぜ異質な他者との遭遇が自由なのか?
→「未知の自分」が引き出され、自己確認できるから。
               (2掘り下げ200字)
 ↓
未知の自分を知ることがなぜ自由なのか?
→自己の枠組みから「外へ」出る行為だから。
               (3掘り下げ200字)
 ↓
以上のことから、「外へ」という人間の本能的希求こそ、
本書の言う自由である。
               (結論100字)


私のつたない具体例で、どこまで伝えられたか
心もとないが、

プロは、200字×3=600字で、
3つのことを言うのではなく、
1つのことを、その状況→その理由→その定義と、
ひと掘り→ふた掘り→3掘りと掘り下げていき、
その「本質」をあぶりだしていく。

口で言うのは簡単だが、
考えて、その本質を、言葉化していく作業は、
ほんとうに生みの苦しみだ。

なかなか言葉にならない。
場合によってはウンウン、何時間も苦しむ。

本質を掘り下げ、言葉化する。

これが、読む人にお金を払ってでも読みたいと思わせる
価値を生む。
プロがプロたるゆえんだ。

しかし、「素人の本気」は、それに勝るときがある。

さきほど、私は、
「人間とは何か?」というような主題は、
普遍すぎ、大きすぎ、
どの作品にもあてはまるし、
深遠すぎて、800字ではとても手におえないと言った。

しかし、素人が、本気で作品に感応したとき、

自分が「人間とは何か?」という深遠すぎるテーマに
挑みかかっていることにさえ気づかず、

それが800字で書けるとか書けないとかの
経験もなく、技術もなく、知識もなく、

自分が本気で感動した、
その感動だけをたよりに、
文章にしようと、書いては消し、書いては消し‥‥、
納得いくまで言葉を探し、言葉を選び‥‥、

無我夢中で「人間とは何か?」という大テーマを
まるでアリがゾウを一本背負いするように、
「書いてしまった」、「書けてしまった」、
ということがある。

私は、文章教育で、過去に何度か、
素人の生徒さんの、そういう文章に触れ、
言葉を失った経験がある。

「掘る力」は、

技術に宿るのではなく、
経験に宿るのでもなく、
知識にでも、才能にでもなく、

「この1つが書きたい!」

という「本気」に宿る。

それはプロ・アマ問わないのだと、
文章教育の現場は教えてくれる。

それはつまり、こういうことだ、

本気で書きたいものが見つかったら、
技術がなかろうと、経験がなかろうと書ける!

「いますぐ、書け!」

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2011-04-27-WED
YAMADA
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