YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson526
       「ひらく」とはどうすることか?


視野をひろげたい、
と多くの人が願い、

そのために、いろんな所へ行ったり、
いろんな人に会ったりしようとする。私もそうだ。
でも、それって、

「実はゼンゼン、視野がひろがってないんじゃないか?」

ゾクっ! と、気づかされる
出来事があった。

ゾクっとしたのは、
いちばん大きく、いちばん目立つのに、
誰にも「指されなかった名前」があるからだ。

先日、あるティーパーティで、

「自分の好きなものマップ」
をつくってこよう、ということになった。

参加者が、思い思い、自由形式で、
自分の大好きな人・モノ・コト、趣味などを
マップに書いて持ってくる。

2人1組になって、
お互いのマップを見せ合い、
質問をしあい、
自分の好きなものについて語り合う。

これをペアを代えて次々やる。

見た目では、とてもうかがい知れない「人の内面」を、
「マップという目に見えるカタチ」にすることで、
ぐっと、相互理解が図れるというわけだ。

私も、生まれて初めて書いたマップを手に、
知人や、初対面のかたがたと、
相互理解にのり出した。

ところが、

1人、2人…
と相手を代えてやっていると、
みょーな感覚がしはじめた。

腑に落ちない感じというか、
もやもやと霧が晴れないような感じ。

3人、4人…とやるうちに、
それは決定的になった。

私の「好きなものマップ」の中の、

もっとも目立つ位置に、
もっとも大きく、

他のボールペンのところと際立つように、
わざわざマジックを使ってひときわ太い字で、

唯一そこだけ、キラキラと、輝くように
トリミングして書いた

私が大好きな芸術家のことを、だれひとり聞かないのだ。

私はマップのタテ軸に、
自分に最も影響を与えた人たちを書いていた。

なかでも、
最も強く影響を受けた芸術家の名前を、おおきく!
だれの目からも明らかに目立つよう、
他と区別してマジックで書いた。

かりに、ここで「芸術一郎」としておく。
(私自身は、まったく公表してかまわない名前だが、
 “誰にも指されなかった”とは、本人が聞いて
 あまり気持ちのよい話ではないので、あえて仮名で)

最初の人も、
次の人も、
3人目も、4人目も、
私のマップ上で、ひときわ目立つ
「芸術一郎」について、
たずねる人は、一人もいなかった。

午後じゅう、ペアを変えて、次々と、
マップを見せ合い、
相手のマップ上にある、人なり、モノなり、コトなりを
私たちは次々指差し、質問しあっていったけれど、

とうとうだれ一人、最後まで、
「芸術一郎」を
指差す人はいなかった。

最も大きく、太く、目立つ文字が、
まるで透明人間ように、
全員からスルーされてしまっていた。

いったい、なにが起きたんだろう?

私の「マップ=世界観」のなかで、
もっとも重要な位置を占めるもの、
それなくしては自分は語れないというもの、

それをスルーして、
みんな何を指差していたかと言えば、例えば、

「きもの」

私は着物を着るのが好きで、
とくに「半襟」とかが好きで、
細い字で、小さく、マップに書いていたんだけど、
みな、なぜか、1番、2番に、そこを指差す。

あるいは、テレビの番組名、
ドラマとか、バラエティーとかの、固有名詞を、
これまた、細い字で、小さく、ひかえめに、
取り立てて重要でもない位置に書いていると、
みな、まっさきに指差して、こう言った。

「あっ、これ知ってる! 私も見てる!」

人は、

相手の「マップ=世界観」の中で、
重要な位置・大きな面積を占めるものよりも、
小さくても「自分が知ってるもの」に気を向ける。

このことに気づいてガクゼンとした。

途中から気づいて、
私自身が、人のマップを見て、
単語を指差し、質問する方針を変えた。

自分が関心あるものでなく、
相手にとって重要な位置・大きな面積を占めるものを
聞こう。

相手の文脈を汲んで質問をしよう。

例えば、相手が、
昔好きだったものから、いま最新の好きなものまで、
時系列を追ってマップを書いていたとしたら、
最古から最新へ、流れを汲んで聞いていこう。

いくつかのカテゴリーに分かれていたら、
各カテゴリーをまんべんなく聞いていこう。
各カテゴリーの主役級をとりこぼさず聞いていこう、と。

ところが、いざ、
他人のマップを目の前にして、
上記を実行していこうとすると、

とんでもない自分を知ることになった。

指差せないのだ。
相手のマップのなかで、最重要な単語が。

「ズーニーさん、なにバカなこと言ってるんだ!
 相手のマップに、一番大きく書いてあることとか、
 一番上に書いてあることとか、
 素直に見て、いちばん目立つものを
 指差せばいいだろう」と、
だれしも思うだろう。

ところが、いちばん大きなものでも、忽然と、
透明人間になったように視界から消えるのだ。

見知らぬ他人がつくったマップ、

これは、言ってみれば、言葉も習慣も流儀もちがう
見知らぬ外国に迷い込んだようなものだ。

そこには、よそよそしい、人やモノ・コトなど
見知らぬ単語や固有名詞が散らばっている。

そこで、まず、自分の目にバッ!!! と
飛び込んでくるのは、
自分が「知っている単語」なのだ。

それがどんなに小さく書かれていようとも!
どんなに片すみに、どんな薄い字で書かれていようとも!

自分の知っている単語は、
見知らぬ単語群のなかで、
ものすごく懐かしい。
すがりつきたくなるような光を放っている。

逆に、無知の単語は、どんなに大きく書かれていても、
視界からトンデしまっている。

私は、懐かしい単語に引き寄せられ、
「わたし、これ、知ってる!」と言いたい気持ちを
ぐぐっと抑え、

「まて、自分!
 客観的に相手のマップをみろ、
 いちばん大きく書いてあるのは何か?
 枝分かれしたものの、幹になる主要なものは何か?」

と意識して、頭を使って相手のマップの秩序を把握して、
やっと、マップのなかで、重要な位置にある
モノ・コト・人が見えてくる。それは、

「こんなに大きく書いてあったのに、
 なぜ、初見では、まったく目に
 はいってこなかったのだろう!」

と、わが目を疑うほどだ。
アホほど大きく書いた「芸術一郎」の文字を、
全員が見事にスルーしてしまった気持ちが、
いざ質問する側にまわると、ものすごくよくわかった。

さらに、

相手のマップのなかで、
重要だとおもわれる単語が見つかっても、
それを指差して、

「これはなに?」

と聞くのに、これまた、恐ろしく躊躇がある。

大きな字で重要な場所に書いてあるんだから、
これは相手にとって大事なものなんだ、聞くべきなんだと
言い聞かせても、

まだ、自分が知っている、懐かしい単語のほうを
ついつい、指差したくなる自分がいる。

この感覚はなんなのだろう?

ゼンゼン知らないことには、そもそも、
聞きたいという欲求がおきない。

それをしいて、相手に聞いたとしても、
自分がそれを知らないことで恥をかくかもしれない。

相手がとうとうと話しはじめたとして、
自分はついていけないかもしれない。
うまく受け答えができないかもしれない。
気まずい雰囲気になり、
会話がなりたたないかもしれない。

要は、自分の土俵の外のことは、
わけがわからない。

私は、勇気を振り絞って、まるで、

未知の単語に「身投げ」をするように、

相手のマップの、相手にとって重要と思われる
未知の単語を指差し、
次々、質問して言った。

最後の感想で、
多くの人が、楽しかったと言っているのに、
また衝撃を受けた。

私を大きく変えた芸術一郎さんのことを
だれ一人、聞くことはなく、
「おんなじ番組見たことあるある」、「知ってる知ってる」
で通じ合い、私にしてみれば、
それで、私の何がわかったのだろう、
という時間が、人にとって楽しい時間なのだ。

人は一生、自分のパターンを繰り返すというが、

私自身、たとえ未知の相手に出会っても、
めざとく既知の部分を見つけ、
知ってる・懐かしいで通じ合ってきた。

それでは、実はゼンゼン新しい世界にふれていない。

自分のパターンをなぞって、
心地よいと思っているだけだ。

せっかく、自分とは違う、未知の人間に出会うのなら、
相手のマップの「芸術一郎」に匹敵するものに、
なんとか迫ってみたいと願う。

しかし、その過程は、自分の土俵外、
欲求もない、不安で、億劫で、
気持ちの悪いものだろうなあ。

「もしも、自分のまったく知らない、
 でも、相手にとって重要なキーワードに、
 食いついていって、
 相手に、そんなことも知らないのかとバカにされ、
 さらに、相手がとうとうとそれについて話してくれても、
 自分はまったくついていけず、
 気の利いたコメントも返せず、
 気まずい雰囲気になってしまったとして、

それは、そんなに悪いことだろうか?」

と自分に問うてみる。

それは、悪いことじゃない。
ひらこうとしたんだから、と思う自分がいる。

これからも、人と話すとき、
未知の単語へ、勇気ある「身投げ」をしていこう!

それが私にとっての、
「ひらく」ということだから。

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2011-02-02-WED
YAMADA
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