YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson520
      失恋論 3.恋のとむらい


一通、一通、
失った恋への、せつないメールが届いている。
読者の a to z さんは言う、

「失恋論の生の声、
 どうしてこんなに胸を打たれるんでしょう。
 以前、転機のときも、
 失恋された方の話に、言葉に、
 切実さが滲み出ていて何度も読み返しました」

ほんとにそうだ。

胸を打たれ、
ぐっと涙が込み上げる。

痛々しいのに、清清しい。
清清しいのに、痛々しい。

読み終わったあと、ふしぎに
前に向かった意志の風が吹いている。

きょうは、
さまざまな読者のメールを紹介し、

そこで、
なにか考察をしていく
というのではなく、

一通、一通に込められた
想いをそのままに受け取りながら、
供養というんだろうか、

「恋のとむらい」をしてみたい。


<彼を応援することが私のすべてでした>

2年前に失恋した彼を思いながら読みました。
私は当時彼の生き方に憧れ、
彼を応援する、支えることが自分の全てでした。
自分の夢ややりたいことから逃げ、
彼を隠れ蓑や言い訳にして
それが幸せなんだとまわりにも自分にも
言い聞かせていたような気がします。

彼と別れてから1年はただ辛くて大変でしたが、
2年目からは彼のいない自分の人生を
やっと考えられるようになりました。
自分の人生から逃げずに向かい合うことができました。
あのまま別れずにいたら、
自分がいないままだったかもしれない。
自分がないような人と彼がつきあうわけないです。
ふられた理由は明らか‥‥。

今では、彼とつきあっていたことも、
別れたこともすべてが
今の自分に出会うために必要だったと
肯定的に受け止めることができます。

『失って一番つらいもの、
 実は、それを失ってはいない。

 喪失感に導かれ、手探りしながら
 いつか、再び、手にする。』

いつか私も彼のような生き方を
手にできるような気がします。
未来への勇気をもらいました。
ありがとうございました。
(cono)


<無自覚な依存>

今年の春に私は失恋しました。
1年間付き合った恋人に突然の別れを告げられました。
こういう本当の失恋は、初めての事でした。

失恋後は何か気を紛らわすような事をせずに
しっかりとこの経験と向き合っていこうと思いました。

そうして失恋と向き合ってみて思うのですが
その失恋は「それまでの自分の相手への無自覚な依存」
を自覚化させました。

付き合っている間は、相手の中にある何か
が自分のものであると錯覚されていて
しかもそれが、ずっと自分のものであり続けると
錯覚していました。

その錯覚こそが恋愛というもの、なのかも知れませんが
それが錯覚だったと気づいた時、
喪失という現実を引き受ける事になりました。

それから半年間ほど、
その女性に頼らないでも生きていけるような
自分の再構築の日々が続きました。

そして最近、新たな恋愛が始まったのですが
前回の恋人が私にもたらしてくれていたものを、
今度は自分が今の恋人にもたらしてあげられようとしている
そんな自分を感じています。

次の恋愛が、過去の恋愛の喪失から立ち直ろうという
自分の再構築の作業に
拍車をかけるような所があると、私は感じています。
(33歳男性)



「依存が大きければ大きいほど、
 喪失感もひどくなる」
というけれど、

conoさんも、33歳男性さんも、
自分で「依存」に気づくなんて、かっこいいなあ!

自分と相手の境界がなくなるほど、
一途に好きだった、
conoさんの想い、33歳男性さんの想いが、
たいせつで、愛おしい。

本気で愛した。
だからいま喪失感を得ることができたんだ。
自立への大きな原動力を得ることができたんだ。

どちらかがどちらかにおんぶはしんどい。
おんぶとだっこでは身動きできない。
互いが自分の足でしっかり立っているもの同士の
ほんとうに自由な恋愛を、
2人はきっと手にすると思う。


<根は伸びていた>

『失恋』と呼んでいいのかも判らないくらいに
未熟だった若いころの悲しみと

そのことに向き合うこともせずに
でも切り捨てることもできずに生きてきた

それからの長い時間の意味を
今 知ることができつつある。

2年ではなかった。20年は充分にかかった。

あの頃 真正面から見据える覚悟も無く 
忘れてしまう強さも無く ただ捨てきれない

革袋のように引きずりながら 
けれどもこの頃ふと乗り越えられたような気がしていた。

謎が少し解けたように思う。

これだけの時間が必要だったんだ。
ズーニーさんの文章に触れるこの時までの。

生きているだけだ と思っていたがそうでも無くて
何かの根が伸びて 葉を茂らす

準備はしていたんだ。と思える。
(3737)


<あなたが今後成長を遂げれば>

失恋論と私が以前お医者さんに言われた言葉が
ピタリと一致したようでメールしました。

5年半前に失恋しました。
失恋といっても告白してフラれただけで
(間隔を置いて二回)、
お付き合いしていたわけではありません。
なのに以来ずっと苦しく、恥ずかしいのですが
今でも彼のことは忘れていません。
ただその苦しみも5年くらいたった頃から
かなり和らぎました。

失恋して一年は
自分が生きてるのか死んでるのかわからないくらい辛く、
そんな中仕事で取り返しのつかない大失敗をしてしまい、
結果失職しました。
でもその仕事上での痛手なんて比にならないほど
苦しかった。
一年たっても苦しみは変わらなくて、
どうしようもなくてすがる思いで精神科を受診しました。
ある日お医者さんに言われました。
「無理に忘れる必要はない。あなたが今後成長を遂げれば、
 彼のことは自然にどうでもよくなるよ。10年もたてば」
忘れたくとも忘れられず、
そんな自責の念で苦しんでいた自分にとって、
深いところにすっと入ってくる言葉でした。
その時から彼に対する気持ちはそのままに、
自分の仕事や採用試験の勉強などやるべきことに精一杯励み
自分の成長を待っています。

あれから5年半。彼への執着は無くなりませんが
苦しみはだいぶ和らいで来た気がします。
少しは成長して失った価値を
自分の中に再生させられたのかなと思います。
現在31歳。周りを見渡すと時々惨めにもなるけれど‥‥、
焦らずじっくり、失った価値を自分のものにできるよう
日々の生活に勤しむつもりです。
(奥様31歳)



3737さんの「革袋のように引きずりながら」
という表現に、深く共鳴した。
奥様31歳さんの、
「自分が生きてるのか死んでるのかわからない」
という表現にも。

色の無い世界を、
それでも歩こうとすると。
まるで死人として世界に接しているようだ。
実在感がなく、外界と言葉が通じ合わない。

でも、二人とも、
そんな一見生きる屍のような日々が、
気づけば、自分を成長させてくれた日々に
なっていたと言う。

なによりも、お二人のメールからは、
ひとまわりおおきくなった、
そんなスケール感が伝わってくる。

逃げたりそらしたりせず、
持ち続け、苦しみ続けた、そのことが
気づけば、自分をコツコツと地道な努力にかりたてていた。

あの苦しい日々に、意味があった。

根が伸びていた。準備はできていた。

花は、その先にきっと咲く。


<MUST と CAN を右往左往>

今回の「失恋論」、心にズシッと響き、
思わず手帳に全文書き写してしまったほどです。
まず考えたのは「喪失感」について。

この夏、父が他界しました。
私は看護師なので、
父の病の成り行きが予測できていました。
「命が尽きるのは早いかもしれない」と、
自分の中である程度の覚悟はしていました。
無理な延命はせず、父や家族が望む穏やかな暮らしを
私にできる方法で支えていこうと思っていました。

しかし看取りの瞬間、
そんなことは全て吹き飛んでしまい、
後に残ったのは「絶対に失いたくないものを
失ってしまった。もう取り戻すことができない」という
底無しの暗い気持ちでした。

今でも最期の光景が、何度も繰り返し甦ります。
そして暗い井戸の底に突き落とされたような絶望感と孤独、
喪失感に襲われるのです。

本当はこの世に引き留めることができたのかもしれない。
私にはその力がなかっただけで、
本当はどんなことをしてでも
父を引き留めるべきだったのかもしれない。
自分を井戸の底に突き落としていたのは
誰でもなく自分自身でした。

そんな日々の中で「失恋論」を読み、
心の中で何かが動きました。
暗闇の中で、小さな星が一瞬ぽっ、と輝くように。

「未来に会える」

光ったのはその言葉です。もしかしたら私は、
「喪失感」という暗闇に
心のどこかで居心地の良さを感じていたのかもしれない。
そんな私には、「未来」という言葉は
眩しすぎたのかもしれません。
けれど「明るいほうへ目を向けたい」という気持ちも
少しはあったのです。

生命が遺伝子を運ぶ船だとするなら、
父から私へ、私から未来へ。

世代を超えて生命の記憶は継がれてゆく。
その営みの中では何も失われない。
むしろ多くの生命の記憶が無意識に、
無秩序に足されてゆく。
その記憶のモザイクの欠片の中で、
いつか父ともまた会うことができればいいと思います。

父の看取りを経験したことで、看護師として、
あるいは一人の人として、
「核」のようなものを得た実感が確かにあります。
輪郭は曖昧だけれども、深い想いが私の中に在る。
「喪失感からの進化」とは、こういうことなのでしょうか。

「恋愛」について。

誰かを「好きだ」と認識し、
その一挙一動に心を奪われると、
反動のように何千何万の自己否定の矢の雨が
自分に降り注ぎます。
「こんな自分じゃダメだ。
 あの人と一緒にいられるような人間じゃない!」

その果てに相手との幸福な時間を夢見る前に力尽き、
想いは絶命してしまうのです。
気軽に女子たちの「コイバナ」の輪に
混ざることもできません。

私は「恋愛」が怖い。
言い換えれば「未来」、「未知」「変化」が怖い。
新しい自分が生まれてくる恐れや痛みに、
耐えることができない。
「未来」に会いたいと、淡い希望を抱く反面、
「変わりゆくこと」へのどうにもできない恐れも
もっているのです。
ならばせめて、誰のことも欲しがらず、
ひとりでも生きていけるようになろうとして、
余計に捩れて歪んでいるような気がしています。

そして MUST と CAN の間を右往左往してくたびれている。

「喪失感こそ可能性」
この強気な言葉に背中を押されるようにして、
どうにかここまで考え、書いてみました。
(かなた30歳代・女)


<いまもわたしの中に生きている>

ズーニーさん、びっくりです。
中学の時の初恋の「彼女」のことを
詩のようなものに書きました。

初恋の記憶は、強烈な初失恋の記憶でもあります。

*以下、私の「詩のようなもの」です。

その頃のわたしには
「彼女」の存在は
彼女以外のひと全部合わせたよりも大きかった。

だれよりもかしこく
だれよりもやさしく
だれよりも大きく笑う。
わたしにないもの全てをもっていた彼女。

2人が過ごした日々は
彼女が語ったすべての言葉と
彼女が生んだすべての音と
彼女がつくったすべての動きで満たされている。

12歳のわたしにとって大きかったように
ずっとわたしの中で大きな存在だった彼女。

わたしが年をとり、大人に近づいても
わたしの中のおさない彼女は、わたしよりも大きく見えた。

10年の後も、30年の後も、かわらない。

12歳の彼女は
わたしに笑いかける。
ほそめた目、ひきちぎれそうに大きな口で。

「そんなふうに言っちゃいけないよ」
12歳の彼女がわたしをさとしたように
大人びた口ぶりで、わたしに話しかける。

いまも。

彼女のようになりたいと
すこしでも彼女に近づきたいと、焦がれるのだ。

いまも。

12歳の時の友達は
もうひとりの自分になって、わたしの中に生きている。

いちばん近いだれよりも ずっと近くで生きている。
(Tetley)


<逢えたからよかったじゃない>

私も半年前10年付き合った人に振られ、
今年は本当にさんざんだったのですが、
ズーニーさんの文章を読み、
彼が私の中に育っていくのか、
と、とても嬉しく楽しみになりました。
光をみた気持ちです。人生ってイキだなぁと感じました。

昔、娘が幼いころ旅先で会った友だちと
別れるのが悲しくて、めそめそしていたら
「逢えたからよかったじゃない」
と言われたのをふと思い出しました。

別れは、自分に新しいものが入っていくものなんですね。
生きることが、少し楽しみになる考え方を
教えてくださり、感謝します。
(Takako)


<無くしたものを変換していく>

失恋の喪失感がいかにして長引くのか。
その見解はとてもすっきりと腑に落ちます。

私の体験を言葉にするならば
「逃した魚は大きかったと思おう、思わせよう。」

無い物ねだりであり、かけがえのないものであり、
だからこそ苦悩して
次に進むには膨大なエネルギーを使うのでしょう。
同じ人を心の拠り所にしてみたり、思い出したりしながら、
無くしたものを変換していく。

進化か、成長か。

失恋がこんなにも大層な提案をしているならば、
やはり恋は沢山すべきかなと思うのでした。
(美弥)



美弥さんの言うとおり、
かけがえのないものを失って、
それでも先へ進むには膨大なエネルギーが要る。

この膨大なエネルギーが、
進化か、成長か、
ひとりの人間のなかに、なにかを生み育む。

Takakoさんが、
「彼が私の中に育っていくのかぁ、イキだな」
と言った、その言葉どおり、

Tetleyさんの心の中には、
初恋=大失恋した相手が、
永い時を経て、
だれよりも近しい存在として育った。

かなたさんも、
「世代を超えて生命の記憶は継がれてゆく。
 その営みの中では何も失われない。
 むしろ多くの生命の記憶が無意識に、
 無秩序に足されてゆく。
 その記憶のモザイクの欠片の中で、
 いつか父ともまた会うことができればいいと思います。」
と、大きな大きな生命のリレーのなかに、
看護師として、死生観の核を得た。

みな痛みの中から何かが生まれ、
育っていく。


<あなたには別の地層が存在する>

Lesson518の「失恋論」を読んで
とても明るい気持ちになれました。
「失恋」というマイナスの言葉に対して、
明るい前向きな気持ちを明確に感じたのは
これが初めてのような気がします。

最近読んだ、映画「食べて、祈って、恋をして」の
原作本にも
今回のテーマと近いことが書かれていました。

失恋に苦しむ主人公に、男性の友人がアドバイスをします。

「あんたは恋に落ちた。
 なんであんたは起こったことから目をそむけようとする?
 その男はあんたのこころに触れた。
 あんたですら、まさか届かないだろうと
 思ってたような深い場所にさ。
 まあ、感電したみたいなもんだな。
 あんたはそこに愛を感じた。
 でもそれは、まだほんの始まりなんだ。
 あんたは愛を知った。
 でもそれは、ちっぽけな、限りのある、
 いずれは滅びる愛だ。
 あんたはそのうち、もっと深い愛を知るようになる。
 いつかこの世界全体を愛するようになる。」

「でも、彼は私のソウルメイトなの。」

「多分そうなんだろう。
 だけどあんたはソウルメイトの意味をはきちがえてる。
 世間はソウルメイトというのが、
 何もかもぴったりくる相手のことだと勘違いして、
 誰もがソウルメイトを求めてる。
 だがな、真のソウルメイトとは、鏡となって、
 あんたが隠しているものすべてを
 あんたに見せちまう相手のことだ。
 あんたの目をあんた自身に向けさせ、
 人生を変えちまうような相手のことだ。
 真のソウルメイトとは、
 おそらく人生で出会う最重要人物のことだ。
 その人物は、あんたの壁を打ち壊し、
 あんたを叩き起こす。

 だけど、ソウルメイトと永遠に暮らせるか?

 無理だ。苦しすぎる。
 ソウルメイトは、あんたの人生に入り込み、
 あんたに別の地層が存在することを教え、
 そして去っていく。
 あんたの問題は、
 ソウルメイトが去りゆくにまかせられねえことだ。
 まあ、ゴミ捨て場の犬ころみたいなもんだ。
 まだなにか味わえねえかと
 空っぽの缶の底を舐め続けてる。
 気をつけねえと、永遠に鼻に缶をかぶせたまま、
 みじめな人生を送ることになるぞ。
 そいつを捨てちまえ。」

私自身、空っぽの缶の底を最近まで約半年間
舐め続けていました。
彼が持っていた優しさは、本当に感電したように衝撃的で、
だからこそそこから
離れるなんて考えられませんでした。
今考えると、私の過去の恋愛のトラウマという傷=凹に、
彼の優しさ=凸がぴたっとはまったんだろうなあと
思います。
でもその傷を自分で癒せた=□ことで、
やっと彼を手放すことができました。

今は私に傷があることを気づかせてくれた彼に
感謝したいです。

私には他にどんな地層があるんだろう。
どんな凹があるんだろう。
その凹を「結婚」という形で埋めるか、
自力で埋めることになるかは分かりませんが、
楽しみにしながら次の出会いを待ちたいと思います。
(きみさく)



失恋は、いろんな意味で、
自分の「ふた」をとってくれる行為だなあ、と思う。

自分の別の地層になにがあるか、
知らないままなら、
自分の可能性にふたをし続けているのと同じだ。

恋は、別の地層のふたをあけてくれる。

凹と凸が、ぴたっとはまった状態は、
ほんとうにしあわせだが、でも、
へたすると、世界にたいして
閉じている状態になりかねない。

失恋はふたを取る。

去っていった人に空けられた
別の地層は、ぱっくり口をあけたままだし、
凹も凸を失って、もう、
世界にたいして、ぱっくり傷口をあけたままだ。

これがいいんじゃないかと思う。

ふたがとれ、世界に、自分はひらかれている。

そういうところから、世界全体への愛が生まれる
というのも、あながちきれいごとじゃないと思う。

きみさくさんの言うように、
せっかくふたがとれたというのに、
自分で缶をなめて、自分でふたをしちゃあもったいない。

ひらけ! あの人を愛したように、世界を愛せ!

最後に、
もとお医者さんで、
生命や体に深い理解を持ち、
いまは別の道を歩き出した女性からの
おたよりを紹介して、今日は終わりたい。

やまさんのメールは、
失敗して、それでも人を恋う、
相手に否定され醜くくても、それでも人を求める、
そんなヒリヒリした気持ちを、
優しく包んでくれると思う。


<I CAN に、FOR YOU>

レッスン518失恋論も、とても興味深いお話でした。
ぼんやりと考えていて、
自分の中で一つつながったことがあります。

仕事は、「CAN」。
私もこれまで、ずっとWANTをもとめたり、
MUSTに苦しんだりしていました。

最近思うのは、I CAN に、FOR YOU をつけた感じが
一番しっくりくるなぁ、ということ。

自分ができること、というのに変わりはないのですが、
それは「自分以外のだれかのため」にすること
なんじゃないかな? ということです。
そう思うと、仕事は自己実現ではない、
というズーニーさんの言葉が、すとん、と腑に落ちる
感じがしました。
主婦も、どんな仕事も、ボランティアも、
全部、働くってそういうことなんじゃないかと思います。

体のことを、ついロマンチックに考えたい傾向が
私にはあるのですが、
いつも気になり、魅かれる言葉は、
「自己」と「非自己」というものです。

生物は、厳密に自分以外と区別されている。

ときどき、そんな自分を考えると、
宇宙の暗闇に漂うような心もとなさを感じます。
それだけに、他人とつながりたい、というのは、
生命の本能だと思うのです。

仕事は、他人に与えることで、他人から求められる。
恋愛は、他人に求めることで、他人から与えられる。
(やま)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2010-12-15-WED
YAMADA
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