YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson513
 大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか 2
 ーー“役になりきる”は、どこからくるか?


よく、「役になりきる」という言い方をする。

ふだんは庶民的なムードの女優が、
マリーアントワネットを演じるとき、

全身から気品が漂い、
華やかな立ち居ふるまい、誇り高き表情、
まるで別人。

マリーアントワネットが
のりうつったかのように、なりきってしまう。

これは、どんなメカニズムなんだろう。
演技か? 表現か?

先週いただいた読者メールを
紹介しつつ、
今週も、演技と表現について考えをふかめてみたい。

では、まず、読者メールをごらんください。

(*今週から読まれるかたへ。
 「演技」も、「表現」も、定義は
 人によってかなりちがいます。
 ここでは、一般的な定義ではなく、
 私の、独断による定義にもとづいて
 考えていきます。
 私の定義については、先週をごらんください。)


<演技上手を表現と混同しないで>

先週のコラム、とても共感しました。

そして、どちらが正しい、ということではなく、
こういう「違いがある」ことを
感じることがとても大切だと感じました。

このような違い=表面の「向こう側」を感じる力、
は生きていく上でとても大切なことだと思います。

「表現」か「演技」か、
ということで思うのは、
これから「演技」がうまい人が
より多くなるのではないか、ということです。

「考える」ことを学ばずに、
今あふれている様々なメディア
(ツイッターなどのツール)で
コミュニケーションをとるようになると、
「演技上手」な人が増えるのではないか
と最近強く感じています。

そして、私が一番いやなのは、
「演技上手な人」が「表現している人」と
混同されることです。

仕事やプライベートでもこういう大切なことが
混同される場面があり、
違和感を感じることが多々あります。

できれば、もう少しこの「違い」があることを
伝えられれば、と思いながら、日々奮闘しています。
(渡辺)


<その瞬間、リアルな彼が表れた>

昨日、ピアノリサイタルに行きました。
そこで面白い体験をしました。

その日、演奏を聞いていて、
彼はショパンの音楽の伝導師のようだった
と思いました。
ショパンリスペクト演奏とでも名付けましょうか。

で、ハプニング発生!

プログラムの最後の曲のラストのラストで着信音が‥‥。

(他の方が言うには、本人はイラっとしていたらしい‥‥)
アンコールの二曲目、ショパンの英雄ポロネーズを、
まるまる一曲演奏されました。

最初から聞いていて、
「うゎぁあ、お怒り?」
というような情念と理性がごちゃまぜ演奏で、
それまでの、いつも彼のする「正統派」演奏とは
別な気がしました。

勝手に、なんかごめんねって思って
心苦しくなったりしながらみてました。

曲も後半。

あるフレーズを聞いていたとき、私は
「うわぁ、そんなに奥深いんだ、
 この人の心のなかにあるものが今ピアノで表現されてる」
と。曲の途中だったけど、
すぐにでも立ち上がって拍手したくなりました。

波長にのって音が伝わってきてこみ上げてきました。
彼をそこに感じたんですね。
そこで彼がピアノを弾いてる。

He is real! って感じで、すごく嬉しくて、
すっごくhappyでした。

かれが目指している演奏スタイルとしては、
ダメな演奏だったかもしれないけど、
ショパンを突き抜けて
その人自身が出てきたのかなって思いました。

その瞬間の演奏は、
ショパンと自分とピアノとぜーんぶと
全力でぶつかりそうなくらい向き合ってる感じ
だったのでしょうか。
それを彼につたえたいなって思いました。

その人はショパンコンクールで優勝もして、
有名、有能ピアニストで、ショパンの再来、
ショパンが弾いているようと絶賛されています。

確かにそうなのかなと思いました。
それは一つの美しい演奏でした。

でも、私は彼の音楽を芸術として聞きたかったみたいです。
魂から出てくる自分がそこにあるものを。
あとは私の好みなのでしょうね。

そんな感じで、リサイタルのプログラムと
アンコールでの演奏の違いについて考えてたら、
先週のコラムで、表現と演技という言葉で区別されていて、
書かれていたことに、うんうんとうなづき、
すっきりしたぁ!
(ゆ)


<「伝える」「伝わる」根本に迫る問い>

先週のLesson512を大変興味深く拝読しました。
私も傍らで絵を制作していることもあって、

表現と演技というテーマは、

美術も、美を表現、術を技術ととらえると
今回のお話と重なり、
是非次回も連載して頂きたく思いメールした次第です。

美術を志すと、
この技術の方向に走りがちとなり、
本来何を表現したかったのか、
という点があいまいになったり、

また、表現が先にたち、独りよがりになり、
何も伝わらないということもあります。

私も大竹しのぶさんは
他の女優さんとは一味違うものを感じております。
とても自然体で、
何か自分に「ウソ」がつけない人、という印象。

他の方たちが「ウソ」をついているという意味では
ないにしても、表現の底に、
その人自身を感じるからでしょうか。

役になり切っているということ以上に、
その人自身、本心、からにじみ出ているような演技に
共感を覚えるのでしょうか。

その役者の心と、その演技の関係についても、
興味は尽きません。

また、技術の魅力を語れば、
それはそれで限りないものです。
技術と思わせない伝わり方もあります。

演技だと思われない演技、
本当以上に本当が伝わるとか。

感情を一度押し殺して、
そして表現へと昇華していくような技術があると思います。
直接的でない、間接的な表現で。
特に日本の文化にはそういった芸術が目立ちます。

ズーニーさんも仰るとおり、どちらが優れているべきか、
優劣を問うものではないにしても、
車の両輪であり、バランスの問題かもしれません。

「伝える」「伝わる」という問題の根本にも迫る
問いのようにも思います。
深く掘り下げていただくことを今後に期待しております。
(いわた)


<別人のなにかが降りてきている>

大竹しのぶは表現者である。
本当にその通りだと思います。

ですが、大竹さんの表現は演じるべき人物の思いと
似た思いを自分の中から引き出している‥‥
というだけではないと思うのです。
大竹さんは、演じるべき人物に、
その人そのものになってしまう女優さんだと思うのです。

だから、たとえば恋人と引き離された女性を演じる時、
まさに大竹さんは恋人と引き離されているんです。
恋人と別れてしまったときの、
大竹しのぶの思いを重ねている訳ではなく‥‥。

私がそう思ったのは、
テレビ東京の「ミューズの晩餐」を観たからです。
大竹さんは歌を歌いながら、泣いておられました。

なにかが彼女に降りてきているようでした。
大竹しのぶさんではなくなっているようでした。

大竹しのぶのいちファンとして
メールさせていただきました。
(千恵)



さいごの千恵さんと、
私の思っていることは、
そんなに違わないのではないかと思う。

私も、千恵さんと同じで、
大竹さんは、「その人そのものになっている」と、思う。

そして、大竹さんが失恋を演じるとき、
単純に、自分の失恋を重ねているとは、思っていない。

「表現」と「自己表現」はちがう。

自己表現とは、自分らしさ、自分の感情、
自分の想い、自分の人格を外に表す行為だ。

一方で、人は、
自分以外のものを表現できる。
女なのに、男の気持ちを表現したり、
ダンスで、人ではない風になって踊ったり。
それが、自己表現ではない、「表現」だと思う。

たとえば、失恋して泣かなければいけないとき、
自分の飼ってた犬が死んだのを思い出して泣く
というように、自己表現で乗り切るタイプの人も
いるかとも思うが、

自己表現で乗り切るタイプの人は、
どの役をやっても、地が出てしまい
どの役をやってもおんなじ印象になってしまう。

大竹さんは、役のふり幅がおおきく、
役になりきる。

でも、私は、やっぱり、それは「表現」、
自己表現ではない「表現」だと思うのだ。

もし、それが表現ではない、と言いきってしまうと、
技術と計算、熟練で、
説得力をもって「ふり」をしていることになる。

そうかもしれないし、私にそれを見抜く技量もないが、
そういう、熱演とか、名演技というものは、
「あの役者は芝居がうまい」と絶賛されても、
「まるでのりうつったかのよう」な
自然でリアルなものとは、
ちょっとちがうのではないかと私は思う。

それに大竹さんが技術と計算で仮面をかぶるタイプなら、
何度も言うが、食わず嫌い王で勝てるはずだ。

自己表現でもない、技術と計算でもない、
とすると、「役になりきる」はどこからくるか?

なにかが降りてきて、
別人になってしまっているのか、というと、

これは、いわゆる、「憑依」だ。
世の中にはそういうこともあるかもしれない、
巫女体質というか、
科学でわりきれない感覚がないとは言わないのだが、

「全く別人格の人間が降りてきて、自分でなくなる」
というのなら、役者の努力はいらないはずだ。
それに、大竹しのぶさんがやっても。
桃井かおりがやっても、
まったくおんなじ仕上がりになってしまうはずだ。

現実は、そんなことはない。役者さんは努力しているし、
「役になりきる」といっても、大竹さんか、桃井さんか、
だれが演じるかによって、同じ役でも、
ぜんぜん別者になると私は思うのだ。

「役になりきる」はどこからくるか?

大竹さんが、自分の失恋で泣いているのでないとすれば、
じゃあ、いったい、大竹さんは、だれの悲しみを
表現しているのか?

ヒントが、香川照之のインタビューにあった。

香川照之は、2000年の映画『鬼が来た!』のころから、
私がずっと注目している俳優だ。

とくに追っかけていたのではない。
その頃、邦画を見に行くと、必ず、と言っていいほど、
香川照之がでていた。

そして、とにかくびっくりしたのが、
役によって、香川照之が、全く別人であることだ。

あの役と、この役で、まったく、人が違う。
つくっているようには見えない。
まさに、
別のなにものかが憑依しているかのようだ。

「役づくりって、いったいどうやってするんですか?」

ある日、テレビをつけると、
香川照之が、そう聞かれていた。

私は、身を乗り出した。
無意識に、私は思った。
あれだけ多種多様な、自分と違う人物を、
はばひろく演じているのだから、

よっぽど人間観察というか、人物研究というか、
日ごろから、自分ではない別人格の
調査・研究・理解をしているにちがいないと。
その方法が知りたいと。

だから、香川照之の次の言葉を聞いて、
あまりにも以外で、
ひっくりかえりそうになった。

「自分、自分!
 ぜんぶ自分ですよ。」

香川照之は、こともなげに、笑って、
さらっと、そう言った。

インタビュアーの顔いっぱいに、
私と同じように、ハテナ・マークが浮かんだ。

だって、どう見たって、
温厚にインタビューに答えている素の香川照之と、
ずる賢い悪人をやっているときと、
クセの強い役をやっているときと、
素朴で垢抜けない内向的な役をやっているときと、
まったくちがうし、
だいたい『鬼が来た!』なんて、
生きてる時代も場所もちがうし。

自分だなんて、そうじゃないだろう、どんなふうに、
自分ではない他人を研究・調査・理解して
仮面をかぶるのか、教えてくれと、
私も、インタビュアーも、そんな感覚だった。

しかし香川照之は、すべて自分と断言した。
ふだんの生活のなかで、
怒りを抱いたとしても、悪意がわいたとしても、
気が弱くて、とてもそれを人にぶつけられないし、
出したとしたら、犯罪になったりして、
とてもではないが、社会生活はできなくなる。

つまり、悪の部分を平素は感じても、表現できないでいる。

だから、悪い役がきたら、ここぞとばかり、
ここで思う存分自分が出せると思ってやる、
ということを言っていた。

つまり、「表現」だ。

あの多種多様な別人格を、
「表現」しているというのだ。

ここからは私の考えなのだが、
「人格」というものは、あの人は「白」で、
この人は「赤」というように、
ハッキリ分かれる「別物ではない」と思う。

たとえば、私と姉とは、
全然、別人格だ。
姉は、自分を犠牲にしてでも、まわりにつくす。
私は、自己中心的だ。

けれども、姉に、自己中心的な思いが
ぜんぜん無いわけではない。
わがままな思いがわいたとしても、
まわりのことを思ってぐっとおさえることが多い。

一方、こんなにわがままな私にも、自己犠牲をしてでも、
まわりに尽くしたいという思いが、
ぜんぜん無いわけではない。
でもあっても、わがままな想いに負けてしまう。

そんな風に考えていくと、
「人格」というのは、
ある人は優しい、ある人は冷たい、ある人は熱い、
というように、全然、別に、
ハッキリ分かれるものというよりは、
だれのなかにも、
優しい・冷たい・熱い、多種多様な成分があり、
ただし、その配合のありかた、外への出し方が
全然ちがう、と私は思うのだ。

だから、別人格は、ぜんぜん、別の人格と想いがちだが、
自分のなかから引き出してくる成分、
その比率、出し方を調節することで、
ある程度、多種多様な人格を表現できるのではないかと、
あくまで、これは、自分の考えなのだが。

「無いものは表現できない」

と私は、常日頃、言っている。
自分のなか、どこを探しても無いものは、
表現できない。
もしも、自分の中に、1ミクロンもないものを
出したとすれば、それは、すでに表現ではない。
良い悪いではなく、表現とは別のものだ。

それを知ってか、知らずか、

香川照之は、
ドラマ『坂の上の雲』で、正岡子規の役をやるとき、
だれからも強制されず、自分の意志で、
17キロも、体重を落とした。

妹役の菅野美穂が、
兄役の香川照之の背中をさするシーンで、
台本には、なかったのに、
菅野美穂が涙を流した。

17キロ痩せた、その背中をさすったとき、
菅野美穂は、そのあまりの変わり果てた、
痩せこけた背中に、
思わず涙がこみあげたそうだ。

そこまで命がけで、役を演じなくても、
香川照之ほどの演技力があれば、
りっぱに、正岡子規をやれるよ、
と多くの人が思ったと思う。

でも、香川照之は同じインタビューで
このような主旨のことを言っていた。

正岡子規は、肺結核から脊椎カリエスをわずらい、
人生のほとんどを、病床で、
壮絶な痛み・苦しみにさいなまれ続ける。
それほどの、痛み・苦しみの人生を生きた正岡子規を
自分がどうやってやろう、自分になにができる、
と考えて、せめて、ありえないくらい体重を落として、
その苦しみを自分のものとしよう
と思ったという。

かといって、決して、
香川照之が、子規として苦しんでいるとき、
単純に、減量を思い出して苦しんでいるとか、
そういうことではないのだ。

技術で仮面をかぶるのではなく、
自分の中に、本物の苦痛というものを
しっかりつくった上で、その上で
正岡子規という人格を表現しようと思ったのだと思う。

まさに、「表現者」だと私は感服した。

「役になりきる」はどこからくるか?

技術と計算で、全く自分でない仮面をかぶるのではなく、
かといって、自己を表現するのでもなく、
ましてや憑依でもなく、

自分の中から湧き出た成分で、
別人格を表現する。

まるで、自分の血を流して他人の肖像を書くように。
これが「役になりきる」ことではないか、
いま、私は、そう思う。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2010-10-27-WED
YAMADA
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