YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson474 背景を汲む


30代の若さで部長になり、
部下からの信頼も厚く、
目に見えた成果を出している人に、

部下とのコミュニケーションの心がけを聞いた。

痛く感動したので、
今日はそれをお話したい。

(続々おたよりをいただいている
 「満たすものと損なうもの」については、
 メールをありがとう!
 次週以降、お伝えします。)

かりにAさんと呼ぶ。

Aさんは30代で部長に大抜擢された。
部長と言っても、
Aさんの会社はとても大きい。
部下も3ケタはいて、
ちょっとした会社の社長さんくらいの立場だ。

Aさんは会社の業績を大きく伸ばし、
部下たちも、若いAさんをナメるどころか、
とても信頼し、慕って、ついていっている。

若くから、会社に認められ、愛され
大抜擢を受けることは、

実際なってみるとどんな感じなのだろう?

意外に理想と違ってツライのか?
それとも高みから見る景色は意外に気持ちいいのか?
私はAさんにたずねた。
すると思ってもみなかった答えが返ってきた。

「部員の仕事以前の背景を、
 予想以上に多く、受け取っている」と。

何百と従業員がいれば、
まずは、冠婚葬祭。

部下のBさんが結婚する、
部下のCさんのお父さまが亡くなられた。
部下のDさんにお子さんが生まれた。

たぶん30代の人が、
そうそう出られない数、結婚式に出席し、
お葬式に参列する。
ご祝儀や香典が大変ということもあるのだろうけれど、
それ以上に、

部下の私生活、

それも、人の「生き死に」にかかわるような深刻な背景に、
ぬきさしならず、立ち会うことになる。
そのたびに、部下の深い想いを身に受け取る。

それだけではない。

部下のEさんはお子さんが病気だ。
部下のFさんは介護しているお母様の調子がよくない。
部下のGさんは失恋のショックで体調を壊している。

欠勤や欠席、トラブルの報告とともに、
部長のところには、かなり深刻な部下の背景が、
最終的に集まってくる。

それらを仕事には関係ないと
シャットアウトする上司もいるだろう。
あるいは失礼にならない程度に
表面的にあしらう上司もいるだろう。

私自身、部長になったことがないから、
部長というのは、仕事だけで部員と関わっているものと
思い込んでいた。
小学校の先生じゃないんだから、
いちいち「部下の家族だ」、ましてや「失恋だ」まで、
あずかり知る必要はぜんぜんないんじゃないかと。

きっとどういう上司がいいという決まりはないんだろう。

しかし、これはあくまでもAさんに限ってのことだが、
Aさんは、部下の背景を引き受ける選択をした。

部下の背景を受け取り、理解し、
その上で、仕事上のやりとりをする道を
引き受けたのだ。

たぶん、私的なことはシャットアウトしても
上司は務まるのだろう。

例えば、
いつも丁寧で質の高い企画書をあげてくる部下が、
今回に限って、中途半端なものをあげてきたような場合。

背景を引き受けなくても、
きっとコミュニケーションはできるだろう。
「つべこべ言うな、仕事に私情は持ち出すな」と。

しかし理由を聞いてみると、例えば部下は、
お子さんが深刻な病気であったり、

それを聞かなくても上司は務まるのだろうけれど、

いったん部下の話を聞き入れ、
部下の背景を受け取って、それを理解した上で、
そのあとで仕事の話をすると、
もう、話の通じ方がぜんぜん! 格段に!
違うのだそうだ。

背景を汲むことで、「通じ合う」のだ。

そうだよなあ。自分が部下だったとして、
「なぜ企画書の出来がいつもの8割なんだ?」と
上司に問い詰められ、
本当の理由は、
子どもが病気で心配で心配で夜も眠れずだったとしたら、
そんな大事な情報をのどのところに押し留めたまま
対象と向き合えるだろうか?

単に仕事上のやりとりはこなせるかもしれない。
でも、のどがつまって、通じ合うことなど、とても無理だ。

はきだして、聞いてもらえて、さらに理解まで注がれたら、
そこで気が済んで、やる気が出て、
気持ちを切り替えられるかもしれない。

若いAさんになぜ部下がついていくのかよくわかる。

Aさんは単に命令や指示を出すだけのやりとりでなく、
部下と「通じ合う」道を選んだのだ。

これは、私の文章指導における
添削方針と通じるなあと想う。

文章を書いたことがあまりない生徒さんに、
「コメントするとはどういうことか?」
私はいつも悩む。とても時間をかけて
さんざん悩んでコメントを返す。

長い間、文章指導の現場にいると、
生徒さんの文章を一読して、悪いところはすぐ目につく。

欠点をあげ、その理由を書き、
そこをどう直せばいいかをアドバイスすると、
さくっと、あっという間に、
もっともらしいコメントが書けてしまうから不思議だ。

しかし、あまりにも簡単に書けたことに不安になる。
書いたあとに妙な気持ちがし、
いつまでもその妙な気持ちが消えず、
結局また、コメントを書き直すことになる。

思うに、文章指導のプロでなくとも、
人が書いた文章の欠点の指摘は、あまりにも簡単にできる。
円熟した文章を引き合いに出し、
照らし合わせて、あなたにはここが足りないと
言えばいいことで、素人でも、子どもでも、
欠点の指摘なら比較的よくできて、しかもわりとよく
あたっている。

けれども、言っていることが正しいか正しくないかでなく、
自分のコメントが生徒さんに通じるか通じないかと言えば、
それでは通じないのだ。

そもそも、それでは、自分の言葉が通じるだけの、
信頼関係が、生徒さんと結べない。
その状態で、技術を振りかざしても、
生徒さんの納得のもとに腑に落ちず、
のどにつかえるか、鵜呑みにされるかのどちらかだ。

それが、こどもが書いた文章であろうと、
どんなに文章に不慣れな人が書いたものであろうと、

「この人がほんとうに書きたかったものは何か?」

限られた文章の情報から、そこを汲み取り、
理解し、理解を注ぎ、その理解が適確でないと、
生徒さんは、決してこちらの言い分を聞いてくれない。

「この人がほんとうに書きたかったものは何か?」

その目で文章を読み、コメントするとなると、
欠点の指摘の3倍は時間がかかる。
何度も何度も読んでも、なかなかつかめないこともある。
声に出して生徒さんの文章を読み上げてみたり、
その生徒さんの背景にあるものを汲み取ったり、
つかみにいって、時間をかけて、やっとわかる。

欠点の指摘は、こちらの土俵。
こちらで想い描いた文章の完成形のようなもの
(ほんとはそんなもの存在しないのだが)に照らして、
勝手に人の文章を裁いている。

でも根本思想の理解は、あちらの土俵。
自分とは、性格も経験も考える手続きも、
それゆえ言いたいこともまったく違う
別人格の他人の世界へと、飛び込んでつかみにいく行為だ。
時間もかかるし、苦しい。でも、
プロがやるに足る。プロがやるべきことだ。

生徒さんが本当に書きたかったことを汲み取り、
そこに適確な理解が注げて、
やっと文章の技術うんぬんの話を聞いてもらえる
土俵に立てる。

部長のAさんが、部下の背景を汲んだ果て
やっと仕事で通じ合う土俵に立てるのと似ている。

マニュアル化が進み、仕事や、文章の書き方は
標準化できても、人間というものは標準化できない。
生身の人間と接していると
恐ろしいくらいそのことを思い知らされる。

文章ひとつ書くにしても、
人はそれぞれ、まったく違う世界観で臨んでいる。

まったく違う背景を背負い、そのため
違うゴールを描き、
まったく違う手続きで思考し、違うプロセスで作り、
最終的に規定のフォーマットにあわせて仕上げている。

だから、こちらで汎用のゴールと方法をつくって
押し付けても、相手の個性を生かすことは出来ず、
相手側の世界にくぐりこんで、
相手の目指すゴールへと導くほうが面白い。

背景を汲む

心は正直なもので、生徒さんの文章の根本にあるものを
読み取り、理解できたとき、満たされ、元気が出て
いつまでも嬉しさが消えない。

時間がかかっても、めんどうでも、
相手の背景を汲み、通じ合う道を目指したい。

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2010-01-13-WED
YAMADA
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