YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson473
     「満たすもの」と「損なうもの」


「なんでも自分がやりたいことを
 一生懸命やればいい」

と私たちは思いがちだ。
でも、ちょっと待って、
そこには、

自分を「満たすもの」と
「損なうもの」があるんじゃないか?

以前、「どうにもならないものを受け入れる力」
シリーズで、
「私の母が、どんなときも
 ごはんのしたくを欠かさなかった、
 私とケンカして口を聞かなかったようなときでも、
 母は必ずごはんをちゃんとつくってくれた」
という話をしたとき、

読者から、
こんな印象深いおたよりをいただいていた。


<満たすものと損なうもの>

「どうにもならないものを受け入れる力」シリーズで、
最初の頃にお母様の話や、
友人の話が出ていましたが、
その方達の気持ちが解るというとすごく失礼なのですが、
共感できます。
それは何かというと、価値観の話になるのですが、

私の価値観は
「満たすものと損なうもの」という価値観です。

この価値観が、何というか難しい・・・
たとえれば、お金というのは満たすものですが、
お金を追い求めると自分を損なう・・・
(損なうほどのお金を見たことが
 無いのですけどね(笑))・・・
実は、これはちょっと私が考えている事と違うのですが、
私が人に自分の価値観を説明するためにする説明です。

具体的には書けないのですが、
昔、当時の自分や仲間が
「正義」と思っていることを実行して
ひどく自分を「損なった」経験があるものですから、
それ以降、何というか
ある種の自分を「損なう」ものに対しては
さっさと「切り捨てる」癖がついているのかもしれません。

一つだけ言えることはお母様がズーニーさんと揉めても、
ちゃんと食卓に料理を並べたことは、
そこで食卓にものを並べないことは
お母様にとって「損なう事」であり、
裏を返せばズーニーさんあなたの存在そのものが
お母様にとって「満たすもの」であることを
理解してください。

何というか「絶対的な満たすもの」を手にした
(もちろんズーニーさんは物ではなく人なのですが)
お母様がうらやましいです。
(それが言いたくてコメントしたようなものです。)

(ラスティ・ネイル)



自分がやりたいことに心血を注ぎ、
努力して取り組んでいくにも、2つある。

「自分を満たすものと、自分を損なうもの」

とラスティ・ネイルさんは言う。
母が額に汗して、時間を使い、労力を使って、
私にごはんをつくることは、
母自身が満たされる行為であると。

逆に、必要以上の金を追い求めるように、
やってもやっても「満たされない」ばかりか、
逆にどんどん、「自分を損なっていく」ものもあると。

これを聞いて反射的に思ったのが、
生徒さんたちの「メインテーマ」の取り方だ。

私は、文章表現教育の現場で、
生徒さんたちの「メインテーマ」の取り方の
成功例、失敗例を数多く見てきた。

やはり、「自分がほんとうに書きたいこと」
「これしかない」というテーマを選んでいる人は、
想いと言葉がピタッと一致していて、
書き手も納得感のある、
読み手も心を揺さぶられる文章になる。

一方、テーマの取り方がイマイチだと、
書いても書いても、
書き手も読み手も満足するルートへたどりつけない。
そういう文章は、読んでいて、
「この人にはもっと他に書きたいことが
 あるんじゃないか」
「もったいないなあ、この内容なら別にこの人でなくても
 他の人でも書ける。この人にしか書けないものを
 読みたかったなあ」と、
なにかモヤモヤ、残念になる。

「自分が本当に書きたいもの」を書く

といっても、
はまりがちな落とし穴がある。
それは、

「今とらわれているもの」と「本当に書きたいもの」は違う

ということである。
「恋」がテーマで、なかなかいい表現が無い、なぜだろうと
私は日ごろ、教育現場で思ってきた。

同じ「恋」といっても、
例えば失恋の痛手から自分を見つめなおし、
どのように立ち直ったかを書いたものや、
付き合いが長い恋人との関係に、
新しい発見をしたことなどが書いてある文章、
恋を周囲に反対され、それをどう引き受けて
自分たちの人生を切り開いたかとか、
つまり、恋そのものではないテーマには、
面白い作品もあるのだが、

そのとき本人が恋していて、
ポ〜ッとウツツを抜かしたような状態になっていると、

メインテーマを洗い出すワークで、
過去のことを聞いても、
未来のやりたいことを聞いても、
最近、心にひっかかったことを聞いても、
何を聞いても、どう掘っても、
「好きな人のこと」しか浮かんでこず、

あげく、本当に書きたいことはと問うと、
「私はAさんのことが好き、
 Aさんにも、どうにかして
 私を好きになってもらいたい」
というような主題が出てくる。

他の人が、
いまの自分を形成する分岐点となった体験をとりあげ、
そこから自分の内面を描き出したり、
自分の最も身近な存在である家族との葛藤から、
自分とは何かを描き出そうとしていたり、
唯一無二の、その人ならではの個性、
その人の過去、現在、未来が浮かび上がってくるのに、

「好きな人にも、私を好いて欲しい」
という言いたいことからは、なかなかかけがえのない
その人自身が浮かび上がってこない。

本人にとって、切実で、最も心を占めており、
言いたいことというか、言わずにおれないことには
まちがいないんだろうけれど、
何かが違う。

もっと「この人ならではのおいたち」や、
「この人しか経験し得なかったこと」「そこから得たもの」
を書いて欲しいなあ、
「かけがえのないこの人の内面をもっと深く知りたいなあ」
と思ってしまうのだ。

恋にポ〜ッとウツツを抜かしたような状態が、
なぜそのままではメインテーマになりにくいかというと、
それが、

「本当に書きたいもの」でなく「今とらわれているもの」

だからではないか、と思うのだ。
わかりやすいたとえで言うと、
「好きな食べ物」を聞かれたとして、

夏の暑い日に、水も飲めず、汗をダラダラかきながら、
長時間、走ってきた直後だとして、
「好きな食べ物は?」と聞かれたら、
「すいか」とか、「かき氷」「冷たいジュース」と
答える人もいるだろう。

でもそれは、「いま食べたいもの」であって、
「本当に好きな食べ物」とは違う。

「本当に好きな食べ物」を選び出すには、
自分の深層に問いかけなければならない。
例えば、

「いままで生きてきた中で、自分がしみじみおいしいと想い
 一番印象深かった食べ物は何か?」とか、
「縁起でもないが、これが最後の晩餐といわれたら、
 人生の最期に何を食べたいか?」とか、
「どんなにつらいときでも、
 これを食べれば幸せになれる食べ物は?」とか、
心は自分のものでありながら、このように次々と
角度を変えて問いかけて、自分を掘っていかなければ
つかめない。

そのようにして、自分を掘ったのちに、
「お母さんのつくった、あったかい具沢山の味噌汁」
と出てきたら、
それは、暑さとのどの渇きに「とらわれたもの」でない、
「自分が本当に好きな食べ物」だ。

ラスティ・ネイルさんの「満たすものと損なうもの」も
近いなにかがあるんじゃないだろうか。

「心を奪われる」とはよく言ったものだ。
恋はよく、「心を奪われる」という言い方をするが、
「心を満たされる」という言い方はあまりしない。

いま心を奪われたり、とらわれたりしているものは、
心の占有面積は大きいように見える。
でも、深層には、もっともっと大きな
「本当に自分の心が求めるもの」が
横たわっていることがある。

その方向にいかないと、
あさっての方向にいってしまうと、
進めども、進めども、満たされない。

そればかりか、時間、労力、気力、
あらゆるものを使い果たし、
満たされないからチャージされることはなく、
大事なものがあとまわしにされ、ないがしろになり、
徐々に自分を損なっていく。

「やりたいことをやれ」と
「書きたいものを書け」と簡単に人は言う。

でもそれは、
「本当にやりたいこと」か?
「今とらわれていること」か?

その道に、本当に満たされる日はくるのだろうか?

それは、「自分を満たすもの」か?
「自分を損なうもの」か?

あなたの経験の中で出逢った
自分を「満たすもの」と「損なうもの」について
教えてください。

※次回の「おとなの小論文教室。」の更新は
 2010年1月13日(水)の予定です。

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2009-12-23-WED
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