YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson471
     「余分」のある言葉 3



本人は意識していないのだけど、
言葉に「余計な思い」がはりついてしまうことがある。

例えば、「私を認めてくれ」「見返りをくれ」
「私があなたを好きであるように
あなたも私を好いてくれ」
など、エゴとか、執着とか、
受け手にとってあんまりありがたくない思いだ。

人に自然にある思いだから
必ずしも悪いものではないんだけれど、

過度になってしまうと、つもりつもって、
かえって不自然なコミュニケーションになってしまう。
おたがい「無意識」なだけに
なかなか意識的にコントロールできなくて、

言われたほうは、
なんとなく「負担」を感じて苦しみ、

言ったほうは、
自分ではワケがわからぬままに、
「ウザい」「重い」と遠ざけられて苦しむ。

この「余分」と「負担」。

1ミリでも2ミリでも、自由なほうへ踏み出す
にはどうしたらいいんだろうか?

Lesson469とLesson470の
「余分のある言葉1・2」には、
たくさんおたよりをいただいた。

正解のない問題だが、
今日は、一歩踏み出した読者のメールから
解決へのヒントを探ってみたい。
まず、この2通から読んで欲しい。


<受け取った「余分」、私ならどうするか>

数年前、一緒に習い事をしていた
年の離れた女性が(私の方は20代です)
どうしても苦手でした。

その方のお話には、どうしても
「すごいですね」「そんなことないです」
「あなたが正しいですね」
といった類の答えしか返せない自分がいました。

相手の「言葉に表出しないリクエスト」と
自分の「コミュニケーション能力の乏しさ」が重なり、
私が言葉の「余分」を意識すればするほど
その女性の声を聞くこともつらくなっていきました。

母に相談してみても、
「あなたの考えすぎなのでは…?」と
なかなか共感してもらえないまま、
結局、その女性とは
無理に距離を置くことしかできませんでした。

少し前、昔から仲の良い友人からメールが来ました。
その文面は「母親に強く叱られた。
家族との関係が良くない」
という内容だったのですが、
私はそこに「母親ではなく私の味方をしてほしい」という
「強いリクエスト」を感じました。

私はうまく返事ができず、
友人は少し力のない言葉で「ありがとう」と言い
それ以上の連絡はありません。

相手のリクエストにそう事も、そわない事も
うまくいかなかったです。
ただ今回は、私は「友人の力になりたい」と思いました。

以前彼女が話してくれたこと、今までのお母さんとの関係や
どんな経緯を辿って彼女が今の環境にいるかを考えました。
それに今回の彼女のメールをヒントにして、私は
「彼女は、底の方ではお母さんとの口論に
勝ちたいのではなくて
お母さんに叱られる自分から抜け出したいんじゃないか」
と憶測しました。
自分の大昔のつらい経験を頭から引っ張り出して、
どうしたら前に進めるか、私なりに考え手紙を出しました。

返事が来るものとは思っていませんが、
どういう結果でも、
「私はできる事を、自分の意思でやった」と思えます。
受け取った言葉の「余分」を、自分ならどうするかを
少し掴めた気もしました。
(亀の子)


<「余分」がついたのは怖かったから>

私も『「余分」のある言葉』を
自分のことだ…と落ち込みながら拝読した一人です。
Mさんと同じく、いつも友達付き合いが
長続きしませんでした。
過去の痛い失敗を色々思い出して
もう本当に記憶を消したいくらい恥ずかしくなりました。

ただ、最近は少し、件の管理人さんタイプから
抜け出しつつあることを感じています。

きっかけは、ある人と出会ったことです。

その人は「あるがまま」を見て
「あるがまま」を受け止められる人です。

私だったら、
「○○だったらいいのに…」とか
「○○じゃなかったらいいのに…」と思うことも、
その人の場合は
「○○にする(またはしない)には
今の自分に何ができるか」
と考え、すぐに実行する人なんです。

文字にするととっても単純明快なことだし、
当たり前なんですけど
全然それが私の中になかった。

私がどんな失敗をしても
その人は否定しないで聞いてくれるんです。
でも、同情とか同調もしませんし、
悪いところはずばっと指摘します。

私にとって「否定しない」
「曖昧に濁して話をそらさない」ことは
すごくすごく新鮮なことでした。

今までの私が、返答に困るような
「私に構って構って」という
余分がこめられた言葉ばかり発していたために
友人や家族に「否定」や「話をそらす」ことを
させていたのはもちろんですが、
そういう対応されることで
私はさらに「余分」を悪化させてしまっていたんです。

否定しないで向き合ってもらえることって、
変に同情・同調されるよりも
ずっとずっと嬉しくて気持ちが元気になれることなんだ!
とわかりました。
それと、本来自分に向き合わなければならないのは
自分自身だったんだ、とやっとわかったんです。

自分に必要な「気づき」を得てからは
私は自分の力で乗り越える、ということに
すごく力が湧いてくるのを感じています。

もともと、「余分」がつき始めた原因は
正面から向き合って失敗するのが
怖かったせいかもしれません。

失敗したら「次にできることは何か」を考えればいい。
そう思ったらすごく心の負担が軽くなった気がします。
(秋田)



「余分」は「ある」んだから、
変に嫌がったり、変に同調したりする前に、
拒否感なく、
「ある」と言ってあげようよ、
「ある」と言ってもらおうよ
というおたよりだ。

このことを別の読者はこう表現する。


<あなたは酔っぱらっています>

事実とは違う『多分これは事実と思う』相手と、話すとき、
もしくは、それを自分自身に対して思って
振る舞っているとき、
齟齬が起きるんだなぁと思いました。

これは私のお師匠さんによれば、
「酔っぱらっている」、ということのようです。
きびしいかもしれないけれど、
「酔っぱらっている」って言ってあげることが、
コミュニケーションとして、本
当の思いやりになるんじゃないかな、と私は思っています。

その時は、分からない、伝わらないかもしれないけれど、
届く人もいる、と思います。
(ぐーぐるんぱ)



私の叔母に、優子さんという、
名前のとおり、とっても優しく心根の澄んだ人がいる。

私の父は、高齢のせいもあって、
酔うと、なかなかタチが悪いのだが、
まわりの人は、「いやだな」と思っても、
ギリギリまで、父の酔いに同調し、我慢し、

我慢が限界になると、嫌がって逃げてしまう。
そんな父を家族はあとで叱るのだが。
家族の言葉をうるさがって聞かない父も、
優子さんの言葉にだけはさからわない。
なぜだろうか?

「我慢するか、嫌がって逃げるか」

優子さんは、このどちらでもない。
父をまっとうに扱い、きちんと話して「伝える」のだ。

「お兄さん、飲みすぎてますね。
お酒は楽しく飲むものですよ」と。

優子さんの言葉が素直に聞けるのは、
心根に、変な拒否感や嫌悪感が無いからだろう。

なぜ無いかと言えば、
優子さんが、変に我慢したり、ストレスを溜め込む前に、
つまり、まだ「心根が透明なうちに」、
感じたことをすかさず相手に
きちんと伝える習慣性があるからだ。

同じことが「余分」と「負担」にも言える。

負担を感じたときに、
「余分があるよ」となかなか言えない、
言われたほうも必要以上に落ち込んで
素直に聞けないのは、

そこに、「拒否感」とか、「嫌悪感」とか、
マイナスの「裁き」が無自覚なまま
混ざりこんでしまうからだ。

そうなるまえに、「拒否感」や「嫌悪感」に変わるまえに、
まだ「違和感」のうちに、ちゃんと伝え
ちゃんと受け取ることができれば、理想的だ。

難しいことだけれど、
読者の「亀の子さん」、「秋田さん」は、それに向けて、
確実に一歩踏み出していて、すがすがしい。

と、今日はここまで考えた。
あと2通だけ、ヒントとなるお便りを紹介して
今日は終わりたい。


<含羞を持て>

「余分」のある言葉 を読んでズキっと
心根に刺さるものがありました。

ああ 確かにそうだ 私はそうだ
言葉の裏に気持ちを乗っけてる

むしろ気持ちに沿う言葉を選んで使っている

しかしその「気持」の根本思想は

「私すごいでしょ
がんばってるでしょ
すごいっえらいって 褒めて わかって 理解して
お願いだから
私があなたを慕う気持とおなじくらい
あなたも私を愛してほしい 」

なわけで、そういう下心(余分)が知らず知らずに
言葉に籠っている
それは 積もり積もれば
他人にとって いや
大事に思う 想いを伝えたい大事な大好きな人であるほどに
負担 となってしまうのか

この下心はなんといっても
今自分が欲している根っこの気持ちで
嘘がつけない
嘘がつけないが開けっぴろげに言葉に発するのは
はばかられて
結局想いが重く懸かった言葉ばかりを毎日毎日大量に
大事な大好きな人たちにぶつけてしまう

必要なのは含羞ではないだろうか

心の真芯に沿った言葉で
本音の本音をさらけ出すことは良いことだ
しかし 本音は自重が大きすぎて

あまりに大量だと、他人の胃の腑のあたりにモタレル。
だから すこし恥じらって
本音の本音の真芯の小塊の言葉だけを
ぶつけよう
後は なにも言わない匂わせない
それが「本音」であったかどうかさえ気づかれないように
余分を修飾した言葉をさらけ出さない含羞を持て

ト いう言葉を胃の腑に落として今はケリをつけました。

難しい課題だが…
(ISO)


<どうにでもなれという勇気>

「余分」とは、言葉を投げかける相手の選択肢を奪うこと、
つまり根源に
「相手をコントロールしたい気持ち=支配欲」に
あるのではないかと考えました。

この「あるご夫婦」に出てくる奥様の場合、
その好意は旦那様からすれば、
本来どのように受け取ろうと自由だと思うのです。

そのあたりを無意識の内に
「限定した受け取り方=愛してほしい」に
集約して相手に提示してしまっているのでは
ないでしょうか。

選択肢が狭まる=息苦しさに通じるとしたなら、
良好な関係を築いていくためにも、

どうにでもなれという

ある種の「潔い前向きなあきらめ」
も必要なのかもしれないなと思いました。
「手放す勇気」といいますか・・・。
(nan)



「潔い前向きなあきらめ」、とても共感だ。
「恥じらいを持て」という言葉にも。

大切な人との間に生じた「余分」と「負担」、
あなたなら、どんな「次の一歩」を踏み出しますか?
引き続きおたよりをお待ちしています!

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2009-12-09-WED
YAMADA
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