YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson464
     どうにもならないものを受け入れる力 4



地下鉄のホーム、
コラーゲンドリンクを飲もうとしていた私は、
大きなバックを持った男にあたられ、
ドリンクビンは、はじき飛ばされ、
割れて中身がこぼれ出た。

「あのー、あなたがあたったので、
 割れてしまったんですけど‥‥」と

丁重にビンを差し出す私に、
男は、犯罪人でも見るように
「あたってないですよ!!!
 駅員でも、何でも、呼んだらいいじゃないですか!!
 だいいち、そんなもの(ビン)が、
 ここにあるのがおかしいでしょう!!!」
と、大声でまくしたてた。

「あった」ことを「無い」とされてしまう悔しさ。

さらに、アタリ屋同然にあしらわれ、
まともな人間扱いされない腹立たしさ。

では、私はいったいどうすればよかったんだろう?

「戦う」か?

男に直談判するか?
駅員さんを呼んで立会いのもと、
男とやりあうか?

互いに感情的になっており、
さらに、さらに、傷つけ、傷つきあい、
ドリンク1本とは引き換えにならない、
イヤな思いを抱えこむことが予想される。

それに、見知らぬ男と口論の末、
手を出されたり、こっちが手を出したりしたら‥‥?
それこそ、悔やんでも悔やみきれない
後悔が待っていること必至だ。

「逃げる」か?

私自身、この問題から目をそらし、
ごまかしたり、現実逃避したりして、
この問題から逃げてしまおうか?

とても無理だ。
だって、「あったことをなかったことにされ」
はらわたが煮えくりかえる私の怒り・願いは、
最後は、切なるこの1点、

「事実を認めてほしい」

に結集しているのだ。
この切なる自分の声に、
自分まで、うそをついたり、ごまかしたりすれば、
もう私は私を信用できなくなる。

「弱る」か?

これまで、ストレスにより、
声が出なくなる、じんましん、円形脱毛症‥‥と
けっこう経験してきた私は、
「泣き寝入り」が、ぜんぜん生やさしいことではない、
どんなに身を蝕む行為か、知っている。

もうこれ以上、自分の健康を差し出したくない。
「泣き寝入り」など、できる性分では、私はない。
これでも心身、繊細にできているのだ。

「逃げるな、戦うな、弱るな!」

ではどうすればいいのだろう?

戦うことも、現実逃避も許されず、
かつ、自分も心身、元気に?

不可能と思われるこの問題に、
読者からこんな答えが届いた。

先々週、
「もし勝てる相手だとしても、
 怒りにまかせて術をかけてしまうと
 その時は、勝ったとしても後に報復や社会的な敗北が
 必ず自分に跳ね返ってきます。
 自分自身のよこしまな気持ちをいかに抜けるか、
 今の世の中を生き残る上で
 もっとも適した判断だったかのか?
 瞬間的にイメージできるかが人生を左右すると思います。
 古武道の教えで『挑まず、逆らわず、傷つけず』
 という言葉があります」
とメールをくれた、古武道柔術をやっている読者だ。


<事件はなかったかもしれない>

ズーニーさんのコラーゲンドリンク事件
(Lesson461どうにもならないものを受け入れる力)を
自分ならどうしただろうか!? と考えてみました。

力にぶつかったとき、
固ってしまわなければ、身体が揺らいだだけで
コラーゲンドリンクを落さずにすんだのではないか?

自分は、未熟者だなぁ〜稽古がんばろう(笑)

ぶつかってきたモノは、ぶつかるしか選択肢がない。

自分自身が! にらんだ時点でぶつかり合いが
ノンバーバル(=言葉にならない)コミュニケーションで
行われている。

ぶつかり合いでは、プライドが邪魔をして?
解決できない場合が多々ある。

なら相手に『謝らせる隙間』を与えなければ、
良い方向に行くのではないかと自分は、考えます。

苦笑いで顔を押さえて
『せっかくのコラーゲンドリンクが‥‥』
って言ってみて相手がどういう反応を見せるだろうか!?

相手が予想外の言葉で反応できない。
そのヒト自身が素直な反応がみれると思います。

ぶつかり合わない選択肢を自分自身が増やすことが!
結果、器を大きくすることだと思います。
(いらんさぁ〜♪)



編集者さんと向かい合って
ごはんを食べていたときのことだ。
編集者さんは、自分で落とした箸を、
瞬時に、自分の手で、パッ!とつかんだ。

箸は床に落ちなかった。

「すごい動体視力!」と私は感心した。

もしも私が、心身の鍛錬を欠かさずにいれば、
落としかけたビンを、瞬時に自分の手で
つかみ直せたかもしれない。
体で衝撃を吸収し、ビンは落とさずに済んだかもしれない。
近づく男の気配に、とっさに気づいて、
ひらり、無意識に身をかわせたかもしれない。

「それ、かっこいいーなあー!」
と素直に思った。

いずれにしても、

自分でない、別の人なら
この事件を防げたかもしれない。

自分が鍛えられるのに、
まだ鍛えきれていない能力を鍛えれば、
この事件を防げたかもしれない。

それをバクゼンとではなくて、
このようにはっきりと現実的にイメージすることで、
私はこの事件の出口を見つけた、と思った。
つまり、この読者の言葉を借りれば、

「瞬間、自分のよこしまな気持ちを抜け、
 生きる上で最適の判断を
 イメージすることができるかどうか?」

「最適の判断ができる」、ではない。
「最適の判断をイメージできる」、がミソだ。

この場合なら、いま、
ビンを落とさない肉体がなくてもいい、
肉体を鍛えて、ビンを落とさないイメージが
瞬間的に描ければ、それでOK! ということだ。

どういうことかというと、

「逃げるな、戦うな、弱るな」と
すべてとられてしまったら、
「もう、器をひろげるしかない」と私は言った。

だが、「器を広げる」というのは、
すぐにできることではない。

「気持ちを切り替える」とか、「あきらめる」とか、
「思い切る=想いを切る」なら、
それもとても大変なことだけど、
なんとかその場でできるかもしれない。

でも自分の限界として、
自分の器が見えているのだから、
それで超えられない問題なのだから、

「器を広げる」といったら、コツコツと、
現実的な努力を、長い年月をかけて、粘り強く、
気が遠くなるほど地道に、やりつづけるしかない。

そのときに、

むやみやたらにがんばっても徒労かもしれず、
何もしなければ器も広がらない。

どのベクトルに努力を積み上げるのか?

今の自分の力ではできないことを、
それでもどこに向かってすすむのか、
イメージできるというのは、
きわめて希望があることだと思う=弱らない。

いま自分の器にはない、能力や判断を、
どうやっていまの自分がイメージできるのだろうか?

古武道柔術の読者の場合は、
武道に精進しているからこそ、
師匠や先輩、先人の知恵があり、
自分の「その先」をイメージできるのだ。

それぞれの人に、それぞれ与えられた課題というか、
向かうべき使命がある。

私の場合は、表現の教育だ。

表現教育を通して、生徒さんが、
「本当に書きたいこと」が見つかるように、
それが書けるように、することが使命だ。

私が精進すべき表現教育の道に照らしてみたとき、
あの地下鉄ホームのときの自分は、

「自分と自分が通じていない」

結果的に見て、あのときは衝動的に、
「男を責めたい」「事実を認めてほしい」
「謝ってほしい」「償ってほしい」と、
激しい欲求にかられたが、
時がたって、気持ちが「ろ過」されると、
それらは、自分が本当に
やりたかったことではないとわかる。

「そうしなくて本当によかった。
 よくおさえた。
 怪我やむやみな傷つけあいがなくてよかった」
とあとからしみじみ思うということは、
自分が、自分という氷山の根底で本当にやりたかったのは、
「事件に煩わされず、このあとの友人との時間を
 心から楽しむ」ということだったと思う。

自分はあのとき、
あらぶる自分の衝動を押さえつけるのに精一杯だったが、
やってはいけないことを押さえつけるのではなく、
よりはやく、核心にある、
「自分が本当に言いたいこと・やりたいこと」を
見抜き・引き出し・生かす、ということを
できるようにしたい。

「いかにして、雑念を越え、
 核心にある自分の本意と通じるか」

そこに精進すること。まさにそれが、私の仕事でもある。

それぞれ自分の向かうべき道から目をそらさず
その先の自分をイメージし、コツコツと精進する。

と今日はここまで考えた。
次回は「どうにもならないことを受け入れる力」で、
読者の見つけた「希望」について考えてみたい。

読者のおたより、ものすごくいいので、
今日も2つだけ紹介しておわりたい。


<間違ってなかった自分>

アルバイト先に付き合っていた彼女がいましたが
その彼女が浮気をしていました。
それがアルバイト先の社員で
日頃から仲よくしていた人でした。

自分にとってアルバイト先やその仲間、
彼女というのを大事にしていたし居場所にしていました。
その出来事を知った瞬間
自分が今まで積み上げてきたものが崩れた気がしました。

僕はあまり沢山の人と関わるキャパがなく
アルバイト先や彼女を大切にするために、
大学でも友達をあまりつくらず関わらずにいました。

自分なりに頑張った結果が何も残ってなく
自分という存在を否定し続けました。

でも生き苦しいのは嫌なのでもがき続けました。
何をもって戦う、逃げる、弱っているというのかは
人それぞれ違うと思います。
でも誰かを傷つけたり自分を傷つけることは
3つのどれかを行っていることは確かです。
それ以外の選択肢を求めていました。

そして自分のためにも、周りのためにも
その出来事を受け入れるというところに来ました。

まだまだ男なのに泣ける日があります。
しかし最悪だったけど、なにか得られたよというものを
感じることができるように受け入れられたことは
幸せな事です。

戦うことのほうが重視されている気がしますが
「どうにもならないものを受け入れる力」を読んで
自分の道が間違っていなかったと思う事ができました。
ありがとうございます。
(22歳大学生 T.O)


<言われのない誹謗中傷に対して、できること>

はじめて「誹謗中傷」を受けた時期を思い出しました。
5年前、職場で受けました。
(アルバイトさんから社員である私に対して)

アルバイトさんがある日、やってはいけないことをやり、
立場上、私が注意をしたんです。
次から気をつけてくださいね‥‥
で済むミスだったところですが、
たまたま、日ごろから私も含めた社員に対する
変なねたみ・そねみ・嫉妬もあり、
逆ギレというか、なんというか、
ヒステリーでまくしたてられ、
その後もしばらく続きました。

そのエネルギーたるやすさまじいものがありました。

アルバイト仲間にあることないことを私への悪口、
会社への批判をふれまわり、
実名は出さなかったものの、新聞投書され、
職場がわかるような固有名詞を出して
市役所にも投書したようで、

その暗黒のようなエネルギーに非常に怖い思いをしました。

こちらを貶めるところまでやりつづけないと
気がおさまらないんでしょうね。
それが目的になってしまってるような。
上司はここは毅然としましょう、
と励ましてはくれましたが、
ひとり暮らしだったこともあって、とってもつらかった。

私は、職場が接客業だったこともあり、
他のアルバイトさんへの影響も考えて、
つとめて、今までと変わらず、笑顔で、フェアで、
仕事に励むようにしました。

人のうわさも75日というから、
75日は我慢だと言い聞かせて休まず仕事場へ行き、
笑顔をつくって、まわりと会話をし、
淡々と仕事をしました(つもりです)。

心ではとても孤独感、不安感、恐怖感に
さいなまれていましたが、表面では笑顔をつくりました。

そのうち、アルバイトさんの中には、
私に対して評価をしてくれていて、励ましてくれる人も出てきて、
かすかな光を大きな支えにして、
越えられな壁は来ないと言い聞かせて、
75日を過ごしました。

「今日でそろそろ1カ月だ。
 いつまでこの暗澹たる思いが続くのかな。
 まだ私の心は痛んでるかな? まだまだ痛いな。
 元気になるまでもっとかかりそう。」
そう思いながら、通勤し、仕事から帰り、
また仕事場へ行き‥‥の毎日でした。

それで、75日になる少し前に、
気持ちが少し軽くなっているのを感じました。
75日以上かかりそうだと思っていたけど、
少しよくなってるな〜。よかった。と安堵しました。

例のアルバイトさんは、
しばらくして自分から辞めていきました。
休憩所で他のアルバイトさんをつかまえては
悪口を言うので、
他のアルバイトさんも閉口していたそうです。
まわりが逃げていって、
本人の気持ちがなえたのかもしれません。

そして、1年たって、職場を異動するときは、
アルバイトさんたちが心のこもった色紙を書いてくれて、
感動で異動することができました。

あんなに気持ちがつらかったのに、
休まずよく通ったなと思います。
2か月近く‥‥長かったです。

あのときを振りかえって、
もっとこうすればよかったと思いつきはしないんですが、
あのときをよく乗り越えたな、
って思うことは時々あります。

一度起こってしまったら、原因を探るのはいったん辞めて、
毎日淡々と過ごす努力をしてみる。
「時間が薬」っていうけど、そんなの待ってられないよ〜、
つらいよ〜と思っていたけど、
毎日を(笑顔で)淡々と仕事をする強さっていうのも、
やっぱりどこかで身につけなきゃいけないものかも
しれませんね。
それが、そのときだったのかな。

ズーニーさんのドリンクの話、すごくよくわかりましたよ。
ほんとに疲れていらっしゃったんですね。
私だったら、声をかけられずにその場をなくなく立ち去り、
しかし怒りといきどおりで、体調を一気に崩して、
指圧とかマッサージへ行き、
なんであのオヤジのせいで
私の財布からお金が飛ばなきゃならな いんだ!?と
怒りにふるえていたと思います。
(higuchan)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-10-21-WED
YAMADA
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