YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson449
  会社で言葉はなぜ通じないのか?



会社員の不安の1つに、
「言葉の通じなさ」がある。

実力ではなく、
「上に話を通すうまさ・まずさ」によって、
仕事の命運が決まってしまう。

自分のキャリア・アップのルートでさえも、
「話を通すうまさ・まずさ」によって、
ひらかれたり、断たれたりしてしまう。
それにしても、

会社では、なぜこんなに話が通じないのか?

上から下に、下から上に、横に。

私も16年企業に勤めたので、
何度か、「まったく話が通じない」経験をした。

上司ならば、まだ、年も違うし、
こちらが女性、あちらが男性と、
目に見える違いもあるのだが、

私が、がまんできなかったのは、
他の部署の、自分と同じ年頃の女性社員だった。

同じ日本語を使い、
しかも、同じ会社に勤める、同じ年頃の女性だというのに、

「なんでこんなにも話が通じないんだろう?
 外国人と話しているみたいだ」

ある企画の実行をめぐって、
関連部署に、協力を頼みに行ったのだが、
恐ろしいほど話が通じなかった。

それだけでなく、話が通じないときの、
あの腹の中をかきむしられるような違和感、
腹立たしさ、悔しさは、いったいなんなのだろう?
そこを耐えて、実際、どうにかこうにか
協力は頼めたのだが、
通じあえない心の痛みは隠せなかった。

けれども、仕事をはさんで、
それだけ話が通じなかった同僚とも、
打ち上げの飲み会などで、恋の話や、旅行の話をしてみると
うそのように話がはずむ。

「なんだ、ともだちになれそうな、いい人じゃないか」

仕事のときだけ、通じなくなったのは
どうしてなんだろう?

会社員を辞めて9年、
もう、そういう苦労から解放されたと思いきや、
そうではなかった。

「上に通らなかったらごめんなさい」

先日、ある企業と仕事をしたとき、
担当の社員がこういった。

私はその担当者と、企画をつめて出来上がったところで、
ずいぶん出来もよかったので、
あとは実行のみ、とわくわくしていた。その矢先だ。

なんでも、実行の権限は、
そこの会社の上の人にあり、
上に話を通すのが、なかなか技がいるのだそうだ。

スムーズにいくときは、さして、説明も必要なく、
とんとん拍子に話が進む、
しかし、ちょっと持っていき方をまちがって、こじれると、
説得に何時間もかかり、
あげくのはてに通らないこともあるそうなのだ。

「その、さじかげんは微妙です。
 必ずしも理屈どうりにはいきません。
 独特のカンを働かせないと。
 でも、そう心配しすぎないでください。
 私は、社内でも、上に話を通すのはうまいほうです。
 でも、だからといって、確約はできません。
 上がノーといったら、この話はなしです。」

そう担当者は言い、
私は、返事を待つ間、
胃を締め上げられるような窮屈な思いでいた。

会社という権力構造を抜け出したようでいて、
結局また、権力構造の下層に自分がいる。

「企画の出来や、実力に関係ない、
 ましてや、お客さんの期待や満足にもまったく関係ない、
 上の人の胸先三寸だけで、
 仕事ができるか、できないかが
 決まってしまうなんて‥‥」

以前の私だったら、
その場でいやけがさしたろう。

しかし、いったん会社を辞めて、
個人で働いてみると、
以前より、会社のことがよく理解できる。

会社というところは「分業」なのだ。

いま私は、フリーランスだから、
講演もすれば、経理もするし、お茶くみも、
企画づくりも、事務所の掃除も、決定も、実行も、
電話取りも、原稿書きも、すべてひとりでやる。
仕事をとりまく全部が自分の手で把握できている。
これはきわめて自然な状態だ。

けれども、会社というところは、「分業」だ。

編集は編集だけを、営業は営業だけを、
経理をする人は経理だけを、
中枢の計画を考える人は計画だけを、
実行は別の部隊で実行だけを。
より専門の仕事をする人は専門分野だけを、
単純作業をする人は、アルバイトなど別の契約で
ただ単純作業をやる。

「400メートル走」にたとえると、
たったひとりで仕事をする人は、
ひとりで400メートルを走るようなものだ。

けれど、会社では、
400人が1メートルずつ、バトンをリレーして
走っているようなものだ。

何週走って、何年走っても、
自分の担当区間の1メートル分には、詳しく、
より詳しく、さらにさらに実力を増していくけれど、
あいかわらず、ほかの区間のことは
まったくわからない、ということも会社では起きる。

編集を20年やったベテランでも、
経理の単純な計算さえ、いまだにできなかったり、
できなくてもそれで通ってしまったり、
会社の大部分の決定をしている人も、
基本的なささいな実務ができなかったり、
ある区間において、恐ろしいほど優れている人でも、
ある区間のことは、まったく想像できない、わからない、
そういう状況も企業では起こる。
これは極めて不自然な状態だ。

どうしてそういう不自然な状態を
つくりだしているかというと、

そのようにしてチームで仕事を分担することで、
個人の力をはるかに超えた、スケール・効率で、
社会や人に働きかけ、貢献し、利益を上げ続けることが
出来るからだ。

会社というのはその点でとてもよくできたシステムだ。

ある面を効率よくするためには、
別の面で、そのツケを支払わなければならない。

そのツケこそが、
お互いの「言葉の通じなさ」だと私は思う。

編集だけを20年やってきた人は、
経理だけを20年やってきた人の、
何億、何十億というお金を通して見た
会社の世界観が理解できず。

権限が集中し、
祈るような気持ちで日々の決定を下す
上層部の気持ちを、
現場で、目の前のことさえ決める権限もなく、
実行のみを担当させられている人は、想像できない。

もともと、1人1人、等身大の全体的な仕事をやっていれば
通じ合える人間同士が、
分業して、ある区間だけを特化することによって、
どんどんどんどん、となりの区間の人と、
見ている世界に差ができて、
やがて言葉が通じにくくなってしまうのだ。

私は、従業員2000人越えの会社にいたが、
分業化が進めば進むほど、
組織が巨大になればなるほど、
おたがいの言葉は通じにくくなる。

だから、会社というチームプレイを選ぶということは、
個人を超えたスケール・効率で、社会貢献でき利益をあげる
ということと引き換えに、
分業の、上から下へ、下から上へ、横へと、
通じない話を、努力して通じ合えるように努力する、
この努力を、会社にいる限り、決しておしみません、
という条件を飲むということだと私は思う。

上が下へ、下が上へ、横へ、
話を通すことがめんどうくさいとか、
くだらないとか思い始めたら、
会社の頭と体、手と足、知力と体力は
ばらばらになってしまい、
それは、個人で仕事をするよりも、
効率がわるくなって、組織にいる意味を失ってしまう。

だから会社にいる限り、話を通す努力、
自分がバトンをもらって走る以外の区間を想像する努力は、
惜しんではいけないのだ。

巨大で効率的な組織に行きたいと願う人ほど、
驚くほどの非効率さを背負ってでも、
伝える努力を惜しみませんと、
覚悟をもたなければならない。

もともと、分かり合える人間同士さえ、
分業にし、ある部分、ある能力だけを特化させ、
他の区間と言葉が通じなくなったり、
孤独になったりする、会社というシステム。

個人として、すべてをまかなう道を選ぶか?
会社で、分業して、より高いゴールを目指すか?

私は、それでも、学生のころにもどって、
もう一度就活からはじめるとしたら、
やっぱり、会社員からはじめると思う。

いま、フリーランスをしているが、
いきなり個人ではじめなくてよかった、
チームプレイを経験してよかったと心から思っている。

教育の分野で、わずか20代から、
個人で始めたら一生かかっても到達できない域で
仕事を担当させてもらったことと、

また、利益を出す、
つまり人にお金を払ってもらう域で、貢献する
という体質は、企業によってしこまれた一生モンの力だ。
 
「上に話が通りました! 快諾です!」

上に話が通らなかったらごめんなさい
と言っていた、例の、企業の担当者から、
歓びのメールが来た。

この人は、組織の下から上へ、
そして私のような外部の協力者へと
話を通すことを、ほんとうに大切だと思っていて、
日々やり続けているのだと思った。

それが大事だとおもって、
組織のタテにヨコに、話を通すことをやりつづけていると、
しだいにできるようになる。

次第に組織を縦横無尽に動き回れるようになる。

私も、フリーランスに転向しても、
会社経験のあるものとして、
会社で働く人に通じる言葉を磨き続けていたい。

そして、
個人から個人へ、個人から会社へ、個人から社会へと、
通じる言葉を磨き続けていたいと私は思う。

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2009-06-24-WED
YAMADA
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