YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson442
  私を動かした「ひと言」ー人を説得する力6



意見が対立しているとき、
自分もツライが、相手もツライ。

しかし、ごく最近、
そんな対立のまっただ中、
私は、ある青年のたった「ひと言」で動かされる、
という体験をした。

「人を説得する力」とはどういうものか?

いま強く思っているのは、
「説得力=人を変えようとする力」ではない、
ということだ。

相手を変えようとすればするほど、
説得は難しくなり、
互いの言葉が、互いにとって効力を失い、
やがて、自分と相手は、
意味不明の別の国の住人になってしまう。

以前、私が「説得力」の達人と仰ぐ人に、
説得の極意を聞いたことがある。

「人を説得するには、
 説得をしないこと。
 逆に、相手に説得されて帰ってくる。」

その人はベテラン編集者さんで、
出版の依頼が殺到する著者でも、
他の何十人もの編集者をゴボウ抜きにして、
依頼を成功させていた。

正直、当時の自分にはステージが高すぎて
消化できなかった言葉だった。

しかし、その後、
自分が説得したり、説得されたり、の実体験を経て、

説得力=雄弁ではない

という想いが日に日に強まっていった。
結果的に私が説得された相手は、
攻撃的で雄弁な人ではなく、
どちらかというと受け身で、一見、
こちらの意のままに、なんとでもなりそうな感じを
漂わせている。

そんな経験を経て、
説得の達人の言葉がすこしだけわかったような気がする。

「人を説得したいなら、
 相手を変えようとしないこと。
 逆に、こちらが相手に変えられなさい。」

とりわけ今回、
青年の「ひと言」で動かされた一件で、そう思った。
プライバシーに抵触しないよう、
登場人物や設定に改変を加えてお話ししよう。

青年のAさんは、若いながらも会社社長。
私と一緒に仕事をしようともちかけてくださった。

しかし話が進むうち、私は不安を感じ、
この仕事を降りたいと言った。

Aさんの名誉のために言っておくが、
すれちがいがあったというか、
私のほうも確認不足だったというか。

そのため、私はすでに相当、怒っていた。

Aさんは、それでも私と仕事をやりたいと言ってくれ、
部下2人をともなって、3人で説得に来られた。

ここから、Aさんの、
山田の怒りを沈め、気を取り直させ、
一緒に仕事をするほうにしむける、
という「説得」がはじまるのだが、

私は、最初、拍子抜けしてしまった。

というのも、Aさんは頭がよく弁舌がたつことで
評判だったからだ。
まわりがAさんをすごいすごいと言うから、
「説得のプロ」が、どんな鋭利な説得をするのか
後学のために見てみたいというのと、
自分もプロとして負けられないというのと、
ずいぶん身構えてその場に臨んでいたのだ。

ところがAさんは、きわめて、ひかえめで受け身。
最初は、「言われっぱなし」になっていたと言っても
言い過ぎではないかもしれない。

だが、きわめて私の話をよく聞いていた。

聞く能力の高さはずば抜けているとすぐ、感じた。
私の言っていることは、
自分でもお恥ずかしいが、要約すれば、

「あなたがまちがってる。だから私は仕事を降りる」

緊張がとけたのも手伝って、
怒りがふきだし、ずいぶんひどいことを言ったと思う。
Aさんはいくら辛抱強く聞き役にまわるといっても、
「あなたがまちがってる」
と言われっぱなしでは、らちもあかない。
そのうち、ひかえめに応答をしはじめた。

「いいえ、私はまちがっていない。
 だから仕事を降りないでください。」

ここからのやりとりは、
どこの「説得劇」でも同じ、要約すれば、

「あなたがまちがってる。」
「いいえ、私はまちがっていない。」

「このような理由で、あなたがまちがってる。」
「いいえ、このような理由で私はまちがっていない。」

「私は、正しい」
「いや、私が正しい」
「いいや、私こそが正しい」
「いやいや、私こそが正しい」

どんなに言い方を変えようと、おたがい、
結局は、自分が正しいと言っている。
自分の正しさを、理由をあげて証明することで、
自分の主張を通そうとしている。

結局は、相手に変われ、と言っている。

このままでは平行線になるのも無理もない。
どこの会社にも、社のシンボルというか、
魂のような製品があるものだが、
Aさん側の論拠は、「この製品はすばらしい、
だからそれをつくっている私たちを信用してくれ」
というものだった。

でもどうしてだろう、Aさん側が、
その製品のことを語れば語るほど、
私は温度差を感じて引いていった。

かつて会社にいたとき、同じ論法を使って通じなかった
自分の説得を思い出した。

「自分たちのつくっている教材はこんなにも素晴らしい。
 だから新規の企画に協力してほしい。」

と関連部署に、協力を頼みに行った。
でもなぜか、
自分たちのつくっているものを熱く語れば語るほど、
相手はうさんくさがり、引いていった。

いまから思えば、教材の価値を論ずることに、
相手の問題関心がなかったのだ。
ただでさえ忙しい時期に、コストやマンパワーを取られる
相手の部署としては、見返りとして
どういうメリットがあるのか、
それが切実な問題関心だった。

いま、Aさんに向かっている自分も同じだった。
その素晴らしい製品の価値を否定する気など毛頭ない。
ただ、方向性の違う会社と手を組むことが、
フリーランスで仕事をする自分にとって、
プラスに影響するのか、マイナスに影響するのか、
読めないところに、切実な問題関心があった。

しかし、会社の魂とも言える製品の話に、
私が、良い顔をしなかったため、
部下の1人が傷つけられたように感じ、
熱く製品の弁護をしはじめた。

このとき、もし、
部下の2人を含めた3人、総出で、
私に対して、自社製品の素晴らしさを訴えるという論法に
出たら、私は、温度差=互いの問題関心のズレ
がどんどんはっきりしていって、
埋められない距離を感じてしまったと思う。

それは、とどのつまり、こう言っていることに
他ならないからだ。
「こんないい製品の価値がわかっていない
 山田さんがまちがっている。
 だから、わかれ=変われ。」

しかし、部下の1人が、
私にいかにその製品が素晴らしいか、
思いつめた顔色で、訴えようとしたそのとき、
Aさんが、その部下を制止して、きっぱり、こう言った。

「それは言うな。
 そんなことを言っても意味がない。
 山田さんは、すべて見て、理解して、
 わかったうえで、言っておられるんだから。」

とっさだけど、それはこういう意味に聞こえた。
「山田さんは、うちのことを知らないから、
 製品のことをわからないから、
 だから、怒っておられるのではない。
 うちのことも、製品のことも充分よく見て、
 知っておられ、
 すべて理解して、すべてわかったうえで、
 意見を述べておられるのだぞ。」

その「ひと言」に、私は黙った。

それまで次々と口から吹き出していた
怒りや不満は、一瞬で吹っ飛んでいた。
もう軽口はたたけなくなり、
自分の発言に、ぐっと重圧と責任が増したのを感じた。

つぎの言葉を探すのに、ずいぶん時間がかかった。

それまで3対1だった対立の構造が、
2対2に変わって見えた。
どうしてか、いちばん対立しているはずのAさんが、
唯一の理解者として、自分の側にいた。

一瞬のことに、何が起きたのかわからなかったが、
その「ひと言」に動かされていた自分がいた。

その「ひと言」で、会の流れが確実に変わった。
その後のやりとりはどんどん建設的な方向に向かった。
自分が確認不足だった点も見えてきた。
不安もひとつひとつ払拭でき、
一緒に気持ちよく仕事ができるところまでいった。
結果、仕事は大成功だった。

「相手のメディア力を高める」

ということをAさんはやったのだと思う。
それにより、「相手の発言の最高を引き出そう」
としたのだと。

自分という人間の「メディア力=信頼性」がないと、
自分の言葉も届かない。
だから、みんなあの手この手で、
自分の発言力を高めようと、
自分という人間を良く見せようとする。
経歴を語ったり、データで実績を誇示したり、
自分の手柄を自慢したり。

でもAさんがやったことは、まったく逆で、
対立している相手のメディア力=信頼性を、
部下の前でぐっと高めた。

「おまえたちは山田さんという人間を
 なんだと思ってるんだ。
 山田さんが、よく理解しないで
 批判するはずがないじゃないか。
 山田さんは、よくわかった上で
 発言しておられるんだぞ、
 その言葉を心して聞け」と。

このように言われたら、
あたっていれば、
「自分は理解された」と嬉しいだろうし、
はずれていれば、「自分は相手のことをよく理解しないで
批判してしまった」と恥じ入るだろう。
いずれにしても、次からの発言は、
慎重にならざるを得ない。
たとえかいかぶられたとしても、
このような人間と言われるに足る、
責任ある発言をしようと思う。
自己ベストの発言をしようと、
いやでもふるいたたざるをえない。

これは、いろんなシーンで応用できると思う。

たとえば、子どもの教育方針の違いで、
担任教師に意見・説得をしに行くような場合、
「あんた、それでも教師ですか!
 なんとか言ったらどうなのよ!」
とやるのはカンタン。
でもそこで相手から出てくる言葉は、
売り言葉に買い言葉だ。

だが、
「先生は20年もがんばってこられた教育のプロです。
 教育については、私たち素人よりも
 ずっとずっと深いお考えがあると思います。
 今回のことも、先生がお考えなしに
 されるわけがないじゃないですか。
 みなさん、まず先生のお考えをうかがいましょう」
と言われれば、教師はもし、
考えなしにやっていたとしても、
そのことを恥じ入り、責任ある、自己ベストな発言を
せざるを得なくなる。

同様に、「あなたはこの道のプロですから」
「私はあなたの発言を全面的に信頼していますから」等、
言われた方は、自己ベストの発言を引き出されてしまう。

「相手を変える」つまり、いまの相手がもっていない
新しい要素を注入しようとする説得は、
どこか即席で、無理があるように私は思う。

相手を認める、相手を信じる、それによって、
相手がもともともっているものの
最高を出してもらって歩み寄る。

「説得する力=相手を生かす力」
ではないか、いま私は強くそう思っている。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2009-04-29-WED
YAMADA
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