YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson434 決められない


「表現するには勇気が要る」と
私はよくこのコラムでも言っている。

でも表現の勇気って具体的にどうすることだろう?

人事異動の内示のシーズンには、
課長さんなど、中間管理職のもとに
こんなメールがどっと寄せられる。


田中部長へ

今回担当にされた仕事って
私のキャリアに合わないと思うんです。

                  山本花子



こういうメールが、伝わらないばかりか、
読み手をもやもやさせ、もっと言えば、
うっとうしい、わずらわしい気持ちにさえ
させてしまうのはなぜだろう?

先日、九州のネットショップの店長さんが
一堂に会する勉強会に
コミュニケーションの講師として招かれた。

ネットショップの店長さんたちの
スピーチがあまりに素晴らしいので驚いた。

店長さんの中には、58歳の、みかん農家の人もいた。

ひたいに汗を流しておいしいみかんをつくる生産者と、
流通させる中間業者とに、支払われるお金に
たえがたいギャップを感じ、
自分のつくったみかんを自分で売ろうと決めた。
しかし、50歳になるまで農業ひとすじ、
パソコンも触ったことも無ければ、
インターネットも、メールもまったく使ったことがない。
ホームページを作るセットがあることさえ知らず、
HTMLの本を平読みし、文字1行、図版1点、
気の遠くなる時間をかけてアップしたという。
いまは早朝から日が暮れるまで農作業にいそしみ、
夜8時から12時まではネットの店長として働く日々だ。

人から見れば花形の職業を転々とした女性もいた。

就職のときに、教員と銀行とふたつの道があった。
教員で採用になったのは、手当てが出るほどの小さな島の
生徒わずか13名の学校だった。
一方、銀行は花の銀座にあった。
ただミーハーな気持ちで華やかな銀行を選んだという。
すぐに銀行業に向かないことに気づく。
そこから航空会社に転職。
あこがれの制服を着て勤務するものの、
「今日は2便飛んでくれ」「あすは4便飛んでくれ」
すっかり会社のコマになってしまっている自分に気づく。
「コマでいいじゃないか」と言いくるめても
言いくるめられない自分がいる。
人から見れば銀行、航空会社とあこがれの職業にいても、
「自分にはこういう仕事でない、
 もっと他にできることがあるのではないか」
という想いが通底していたという。
その後、結婚式の司会業などしたことをきっかけに、
ネットでブライダルショップを開こうと決め、
世の中の人のブライダル支援が始まった。

離婚を期に、3人の子どもを育てていくために
ネットにお店を開いた女性もいた。

この不況の日本にあって、
特に厳しい状況にあるふるさとに戻り、
家具のネットショップを開いた男性もいた。
ふるさとに帰って十数年、その間に、
地元で十人以上の自殺の知らせを聞いたという。
それくらいふるさとは不況、仕事を興すのも難しい状況で、
腕のいい家具職人たちとチームを組み、
「いつか自分のふるさとを全国に知れわたる
家具どころにする」と断言した。

ネットの店長さんたちは、
プロの噺家でもなければ、脚本家でもない、
弁論大会のように事前に書いた原稿もない。
それでも自己表現に、ドラマがあり、情熱があり、
哲学がある。

ネットの店長さんたちのスピーチはなぜ胸を打つのだろう?

「なにか似ている」と想い、
以前、社長さんばかりの講習会で、やはり
コミュニケーションの講師をしたことを思い出した。

集まった100人の社長さんたちは、年商30億以上、
社長さんのなかでも、
がんばって現在進行形の成果を出している人たちだった。
やはり、社長さんの自己表現力はすばらしく、
伝わるどころか、私のほうが懐にはいっていきたいと
思わせるような度量があった。

ネットの店長さんも、年商30億の会社社長も、
日々やりつづけていることがある。

それは冒頭で採りあげた、このメールに無いものだ。


田中部長へ

今回担当にされた仕事って
私のキャリアに合わないと思うんです。

                  山本花子



このメールには「意見」がない。
「意見」とは「自分が選択した答え」だ。
このメールには意見の前提となる「選択」がない。

キャリアに合わないからどうなのか、
担当をかえてほしいのか、かえるとしても何にかえるのか、
自分がはずれた担当はだれがやるのか?

表現する側が、何ひとつ決めていないから、
受け取ったほうに、結局「選択」を迫ることになり、
「考える」という、わずらわしい作業を強いることになる。
だからこのようなメールは読み手がもやもやとし、
なにかうっとうしく、わずらわしく感じるのだ。

ではどうすればいいか?
コミュニケーションに正解は無い。
あくまで例としてあげるとすると、


田中部長へ

今回、任命された仕事は、
専門外で経験のない分野ですが、
キャリアを広げる意味でも、(=論拠)
担当させていただきます。 (=意見)

                  山本花子



自分の選択した答え=意見をあきらかにし、
その論拠で少なくとも通じる表現になった。

何を選んだかということよりも、
選択したということが重要で
選択に意志が宿る。意志が人を吸引する。

「表現の勇気とは選択の勇気」、
と今回ネット店長さんの表現に改めて気づかされた。

表現の勇気というと、どうも、
「人前で恥をさらして恐れない勇気」
のほうがもてはやされる。
その解釈に自分はどうも抵抗がある。
露悪的な人、もともと恥を解さない人もいるからだ。

表現は「決め」の連続である。
限られた時間にテーマを決め、
話す手続きを決め、言葉を選ぶ。
「表現体質=選択体質」と言ってもいいくらいだ。

選択といっても、「エイヤー」でなんでもいい、
「恥はかき捨て」というような
どうでもよさは勇気と言えない。
自己表現では、選択したことが、
ふたたび自分に戻ってきてしまう。責任が伴う。
限られた時間にぎりぎり自分に問い、
自分に偽らざる選択をすることと、
かつその責任を負う、という体の教養が要る。

今回お会いした店長さんたちは、自分の意志で
ネットの大海原に店を開くことを決めている。
その前後に、大小の人生の選択を迫られている。
従業員1人、2人のちいさなショップの店長さんも
年商30億の社長さんも、
その船にたった一人の船長として、
日々「決める」ということをやっている。
決めた責任をもろにかぶって、自分で責任を負い、
そしてまた、次の選択をする。

この決めっぷり、捨てっぷりが体の教養となり、
自己表現においても、ぶれない1つのテーマ、
これしかないという言葉の選択につながり、
責任を伴った、人の心を打つ表現につながるのだと思う。

先日、あるセミナーでお会いした女性の会社員から
上司とのコミュニケーションに悩んでいるという話を
聞いた。
「さぞ厳しい上司なんですね」という私に、彼女は、
「いいえ、上司は厳しいことは何も言いません。
 社員には、何でもきみの好きにすればいいよと言います」
という。それなら何も問題はない、
あなたの好きにやったらいいと返すと、
「いいえ、ところがそうではないんです。
 では私はこうしたいと返すと、
 思うようにさせてくれない。
 そこからまたもやもやとさせられてしまうんです。
 部下がこのように消耗していることを上司は気づかない」
という。

表現する側が、何ひとつ決めていないと、
受け取ったほうに、結局「選択」を迫ることになり、
「考える」という、わずらわしい作業を強いることになる。

もしかしたらその上司は、
「きみの好きにやっていい」の名のもとに、
選択を放棄し、それに気づいていないのかもしれない。

決めないのでなく、「決められない」。

そう思って、はっとした。
自分は、日々、自分が決めるべきことを決め、
背負うべきものを背負っていっているだろうか?

いきなり大きな選択はできない。

日々小さな選択を、ちいさく、きっちり、かわいく、決め、
決めたことを背負うことによって、選択体質ができ、
やがて大きな選択ができるようになる。

小さなことすら決めないでいれば、
可能性は温存され、責任もふりかからないが、その分、
いざというとき、決めようにも決められない、
捨てようにも捨てられない、
背負おうにも背負えない体質が築かれていく。

あれもこれもと捨てられず、結局、
何も伝わらない表現になっていないだろうか?

「決め」から逃れたくなるときは、
今日も、ネットの大海原で、
みかんを売ったり、家具を売ったり、
大小さまざまな「決め」を背負い、
航海を続ける店長さんたちのスピーチの
決めっぷり、捨てっぷりを思い出し、
「これしかない選択」をしていく勇気を出そうと思う。

あなたがいま、決めなきゃいけないのは何ですか?

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-03-04-WED
YAMADA
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