YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson432 自分らしい表現方法をもつ


まず自分と通じる、
これが自分らしい表現への第一歩だ。

自分と交信し、
本意がつかめたら、
いよいよ今度はそれを外に表す番だ。

あなたはふだん、どんな方法・手続きで、
自分の気持ちを表現し、人に伝えているだろうか?

自分らしい「出し方=表現方法」をもてば、
言いたいことはもっと自由に言い表せるし、
ありありと人にも伝えることができる。

「最近どうも、表現がマンネリぎみで‥‥」

という人がいたら、自分らしい表現へ
ググッと羽ばたくチャンスかもしれない。
読者のこのおたよりを読んでほしい。


<新たな方法を身につけたい>

大学で先生として働いております。
「けなしてから、ほめる」というのは
こちらでは日常的に行われており、
ここ数回の
「いったんけなしてから、ほめる・場を盛り上げる」
シリーズを見て、考えさせられております。

研究のことについて議論を交わす場合、

今まで出会ってきた教授の場合、
問題提起(下手をしたらその人の人格否定)から始まり、
今後の方針の話になり、
その後に初めてお褒めの言葉が。

指導者としての学生への「注意・批判」から入るのは、
先生―学生という微妙な距離感を縮めるための
きっかけの一言だったのかな、と思います。
そこから距離が縮まり議論が成立していると。

言われた方はどうなるかは無視するとして、
先生から見たときには
「話しやすい環境になる」という点で、
汎用されている(のかも)しれません。

環境が変わって、自分が指導をするようになって、
「あ、このスタンス出来ない」
と思ったのです。

私の場合、
問題提起の項で今まで言われてきたことが、
実は「自分が自分で気にしている本質」であったので、
(「いつも元気ない。それじゃあ、
  見てる人を不快にさせるだけだ」
 とか言われてましたね‥‥
 でも、その後に研究の話をして盛り上がるわけですが)
今の人たちにも同じ思いをさせたくないという点で。

「気にする一言」で相手が(自分も)傷つくのが
怖いだけかもしれません。
そこから、すべてが「始まる」ことが
当然あるのかもしれませんが、
どうしても飛び込めません。

結果、なあなあな話で終わることもしばしば。
指導者としてどうなんだろう‥‥‥と話し終わった後に
思うこともあります。

本当に特殊な環境かもしれません。
ただ、この中で生き残っていくためには、
「相手を多少傷つけても、
 衝突しても大丈夫な少しの図太さ」
もしくは、
「傷つけなくても、会話や議論を盛り上げる何かの方法」
を身に付けないと、本当に続けられないと、今は思い、
毎日試行錯誤しております。

何しろ、今まで出会った人が、
1つめの方法で成功してきてるのですから。
今まで話し出しの一言で傷ついた自分としては、
2つめの方法を何とか見つけ出してみます。
答えが出るのは何十年も先かもしれませんが。
(しん)



私がこのメールを素晴らしいと思うのは、
「けなして、ほめる」を、
単なる「話し方のクセ」にとどまらせないで、
「自分が人や世界にアプローチする手続き」
ととらえている点だ。

逆に言うと、
自分の「話法」を変えれば、
自分の人に対するコミュニケーション方法が変わる
と言っても言い過ぎではないということだ。

自分と人との間にはえもいわれぬバリアがある。

先生と生徒、上司と部下、お得意先と営業マン‥‥。
立場の強弱、遠慮、利害関係から、ともすれば、
「なんでも先生のおっしゃるとおり」
というような、おたがい突っ込んだ話ができない、
なんとなく表面的なやりとりに終わってしまうバリアが
立ち込めている。

このバリアをなんとか取っ払おうと人は工夫する。

しんさんの教授も、学生が遠慮したり腰が引けていて、
いっこうに突っ込んだ議論にならないことに、
たえかねて、まず学生にいやなことを言ったのだろう。

言われた学生は、自分を否定されかけたことで、
まず感情的にカッとエンジンがかかる。
自尊心から、否定されかけている自己を守ろうとして、
「自分はそんな人間じゃないぞ」「ばかにするな」
とばかり、本気を出して、遠慮をかなぐり捨てて、
雄弁になり、研究議論に応戦してくるというわけだ。

他の読者のメールに、
「自分の上司は、まず部下を叱って
びびらせてから、ほめる」とあったが、同じ構造だ。

この方法の問題点は、自分の本意が
「相手を傷つけたい」のでなく、
「相手とのバリアをとって通じ合いたい」
ところにある点だ。

本意のほうをストレートに出せないものか?

そこで、この問題、
「コミュニケーション構造を変える」
というような大きな話でなく、
ほめるときの「話法を見直す」という
しごくちっちゃな切り口から解決を目指したい。

まず本当に言いたいことを最初に言う勇気を持つ。

どうも私たちには先入観がある。
「自分の言いたいことは
 フツウに言っても伝わらないだろう」
表現のクラスでも、よくできる生徒でも自己肯定感が低い。
そのため、まわりくどい手続きをして迷走しがちだ。でも、

本気は伝わる!

経験上、私は強く思う。
地方の講演などに行くと、ときどき
私の本を愛読してくださっている人が声を
かけてくださることがある。
まったく初対面の見知らぬおじさんに、
いきなり、高いテンションで
まくしたてられると、とまどわないとは言えないが、
「あなたの本を読んだ」「ここが素晴らしかった」と、
目を観てじっくり、かけてくださる言葉を
受け取っていくと、
次第にジーンと胸に込み上げるものがある。
泣きそうになる。

言葉が巧みでなくたって、手続きがどうだって、
想いは伝わる!

ほめる場合も、いっさいの前置きや、テクニック抜きで、
「あなたのここが素晴らしい」
「ここにたまらなく感動した」
ということを、唐突だろうが、場の空気を読めなかろうが、
「よかった」の一点張りだろうが、
少々噛もうがおかまいなしで、
しかし、本気を出して、勇気をもって
一生懸命、相手に伝えようとしてみることだ。

自分と相手の間に深いバリアがあったとしても、
本気を伝え続けることが、多少時間がかかっても、
やがて相手の本気を呼び起こし、
突っ込んだ話ができる状況にもっていけるのではないか。

「そんなベタな手」と思っても、試してみる価値はある。
試して、試して、試して、それでも伝わらなかったら
別の手を考えるとして、そこまで行ききってない人が
大半ではないだろうか?

もうひとつ、こっちがまずバリアをとって、
「突っ込んだ自分の話」を披露してみるという方法だ。

たとえば、
「あなたに会えてよかった」というようなほめ言葉を
フツウに言っても通じないなとバリアを感じるときに、
表面的な会話では、決して人に言わないような
「自分の話」からはいってみる。

「ちょうどあなたに出会う前、
 会社の部下に対する言葉の暴力に悩んでいました。
 自分でいけないと思い、やめようとしても、
 やめられなかった。
 そんなときに、あなたに出会って‥‥、
 ‥‥ということに気づかされた。だから会えてよかった」と。

相手を信頼していないと言えないようなこと、
ときに自分の恥になるような言いにくいことでも、
まずこちらが心をひらいて正直に伝え、
そことの関係から、
いかに相手を素晴らしいと思っているか、
ほめ言葉を伝える、ということもできる。

もうひとつ、「聞く」ことから入る方法もある。

ともだちの演劇を観に行って、すごくよかったのに、
「よかった」としか伝えられない、はがゆい
というようなときに、まず、こちらがしゃべるのでなく、
まず、相手の感想や想いを吐き出してもらって、
それを「聞く」ことからはいる。

「あそこのあのシーンは自分でも納得がいったでしょう?」
「最後に拍手を浴びたときの気持ちはどうだった?」
相手の率直な想いを引き出すような質問を用意し、
相手の言葉からコミュニケーションを起こしていって、
そこを掘り下げたり、深めたり、
理解をしめしたりしながら、
最後に自分の気持ちを伝えるという方法だ。

この場合、聞き上手と自信を持って言えない人でも、
「相手の目をじっと観ながらだまって相手の言葉を聞く」
「大きくうなずく」
「琴線に触れる発言には目をキラキラさせる」
だけでも、充分通じ合えるものがある。
そのようにして充分、じっくり相手の言い分を聞き、
表情やうなずきで、充分共感を示したあとに、
「ほんとうによかったよ」
と、ただ一言、投げかけるだけでも、
伝わり方はずいぶん違う。

このほかにも、
「もっともほめたいポイント=長所」と、
「長所を最も印象的に表すエピソード」
でほめる。

「とくによかったのは、この3点」と、
よかった点を3つのキーワードに凝縮してほめる。

あるいは「伝聞」でほめる。
「うちのカミさんも、あなたのことが大スキで‥‥」
「隣りの部署でも評判になっているよ‥‥」
というように、ほめられるときに伝聞は嬉しいものだ。

私がこれまで生きてきた中で、
最も嬉しかったほめ言葉は以前ここでも書いたのだが、
16年近く勤めた会社を辞めるとき、
同僚から届いた、私の小論文の仕事への理解のメールだ。

「山田さんのやっていた仕事は
 本当に意味があったと思います。

 考えることが、その子の、
 選択になったり、意志になったりする‥‥。」

つまり、この同僚は、
私が小論文を通してやっていた「考える力」の育成は、
単に考える技法にとどまらない、
高校生一人ひとりの「自分らしい選択」につながったり、
「意志」になったりするんだと、
仕事の意義を伝えてくれたのだ。

まず、「存在の肯定」
次に、「存在意義を深める」という手続きだ。

これを家族への感謝におきかえると、
「お母さんがしてくれたことは
 私にとって本当に大きかったと思います。
 いまどんな生徒にも惜しみなく愛情を注げるのは、
 無償の愛をまず私自身が注がれたからです。」
というような感じになる。

「存在理由」「存在意義」みたいなベクトルへと、
ぐっと掘り下げて、魅力をつかみ、
言葉にして伝えるのは、難しいことだが、
多くの人がそこで悩み・揺れ・探し続けていることを
考えると、
本当に伝わったとき、相手の喜びもひとしおだと思う。

それぞれ単なる方法だけれど、
自分の想いを、閉ざさないで外に出すには、
どの装置がぴったりするのか、
本気を出して、勇気を持って、
試していく価値はあると思う。

それくらい、あなたの想いを表すことは価値がある。

今日は、ほめ方の、論理構造というか、
「意味」にポイントを置いた表現構造をお話ししてきた。
もうひとつ、ほめるときに、
「空気や手触り」を伝えるような表現方法がある。
次週は、それをお話したい。

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
postman@1101.comに送ってください。

2009-02-18-WED
YAMADA
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