YAMADA
おとなの小論文教室。
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Lesson411 優しさはどこからくるか

自分には「優しさ」がないんだろうか。

私は度々その不安につかまれてきた。

「優しさ」は人間最上級の資質のように言われるが、
自分にはもともと、それがあんまり備わっていない
のではないだろうか。
「自己チュウ」で「冷血」な人間なんだろうか、と。

優しさはどこからくるか?

「生まれもった性格」
と思っている人は多いのではないか。

私も長いこと、そんなふうに思って
苦しんでいた節がある。
うちの家族は、
優しさのかたまりのような母と姉、
そうではない父と私、に分けられる。

母と姉は、きわめて優しい。
とくにお年寄りや病気になった人など
弱い立場にいる人へ思いやりが深く、
自分を犠牲にしても人のためにつくす。

そんな2人といると、
自分の性格の悪さがどうしても目立ってしまう。
自分はどうして、
母や姉のようになれないんだろう。

父に似たのだ。

父について、ある人がこう言った。
「シゲさんは、もうちょっと
 体の弱い者への優しさを持たんとなあ…」

父は、悪びれたようすもなく、
みんなのまえで、体の弱い人へ、
周囲が凍りつくような発言をしたらしかった。

私が20代のある日、
父が、体の弱い人に対して、
とんでもない差別発言をした。
それは、親子だろうと、なんであろうと、
瞬間で、凍りつくような言葉で。
私はつきあげる嫌悪の感情も度を越してしまい、
言葉を失った。

以来、父のこのような面を嫌悪し、
このような性質だけは引き継ぎたくない
と強く思いながらも、
心のどこかで、
母の優しさは全部姉に受け継がれ、
自分には遺伝しなかったんじゃないか。
自分は父に似て、優しさがないんじゃないか
という考えが、頭をよぎるようになった。

例えば、
友だちが思いやりある行動をさっととって、
自分は気づけなかったようなとき。
泣いて友だちが相談してきても、
自分にはちっともその友だちを
かわいそうと思えなかったようなとき。

自分はもともと優しさがない人間なんじゃないか、と。

そういう私の考えを塗り変える
事件があった。

左足の指を骨折した夏のことだ。

病院から、青山通りを、
左足をひきずりながら歩いて帰った。
骨折直後で、ひどく痛み、
靴もはけなかったので、
ビニールをかぶせ、ガムテープで巻いて、
つえもまだなかった。
腰をかがめ、1歩1歩、ゆっくりと、
顔をゆがめながら、家を目指して歩いていた。
そのときだ。

後ろから視線を感じた。

気のせいとか、後づけではない。
私は、ふりかえってもいないのに、
後ろからはっきり、人の視線を感じた。

それは私の背中のすぐ後ろにせまり、
やがて私を追い越した。

4人連れの家族だった。
まずお父さんが私を追い越し、
お母さんが私を追い越し、そのあとに、

小学生くらいのお兄ちゃんと妹が、
わざとそしらぬふりをする感じで、私を見ずに
そそくさと私のわきを通り過ぎ、

通り過ぎるやいなや、2人同時に、
待ちきれないというような様子で、
私をいわゆる「白い目」でふりかえった。

はっきり顔をこっちに向けてはいけない
とどこかで思いながらも、
私のことを「見たくてしょうがない」ので、
斜めに黒目だけぐっとこっちへ向ける。
だから「白い目」になる。

その視線の冷たさ。

好奇と、さげすみ、
他人の不幸への嬉しさと、あざ笑い、
疎ましさと、嫌悪の情と、優越感と。

ヒューマニズムもなにも一瞬にして吹き飛ぶほど
醜くて冷たい人間の視線だった。

あんな目で見られたことは後にも先にも
人生で無い。

瞬間にゾクっと凍るような冷たさが私を差した。

人の善意を信じてきた自分には、
何が起きたか、受けとめられない。
あぜんとして、道の真ん中に立ち尽くした。

それから「ちがうんだ!」というような
気持ちがわきあがり、
ぶるぶると悔しさがこみあがってきた。

そのあと1歩あるくと「すさみ」が、
わっと自分の中に広がり、
見慣れた東京の風景が、
殺伐としたものに変わっていった。

骨を折っている間中、
いろんな人にジロジロみられたが、
あの2人の「子ども」ほど、
一瞬で、私を凍りつかすような
視線を注いだ人間はいなかった。

私はずっと教育の仕事を通して
「純粋だ」「かなわない」と、
「子ども」をリスペクトしつづけてきた。

その「子ども」が、人生でもっとも
冷たく醜い視線を私に注いだのである。

子どもは、純粋・純白などではない。

人は多面的な存在として
醜い部分も、美しい部分も
あわせもって生まれてくる。

自分があの子どもの視線に、
なぜ、瞬間にして、ぞっ、と凍りついたかというと、
自分も持っているからだ。
同じ醜さを、心の底に。
自分の中にもある、
人間だれしもの心の奥にある。
それを見せつけられるからぞっとするのだ。

父の言葉に凍りついた、あのときもそうだ。

では、父の醜い面は、なぜあばれ出し、
私の醜い面は、なぜあばれ出さないか、
私と父となにがちがうか、というと、

受けた教育だ。

私は、はっきりわかった。
父は子どものまま、なのだ。

海の生活が長かった父は、
びっくりするような世間知らずな
ところがあるが、
決して、意地の悪い人間ではない。
人を利用して、自分が得をしようとか、
そういう頭がいっさいない。
人に頼まれると、
自分のお金を貸しすぎてしまったり、
人にだまされてしまったり。

父の時代に人権教育は充分でなく、
十代から「海の男」を目指した父は、
社会生活の大半を、外国航路の船員として過ごし、
人権教育の機会を逸した。

私は、といえば、小論文の編集の仕事を通じ、
人権教育について、これでもか、これでもか
というほど教育の機会を得た。

そういえば、姉も、
子どものころは、気が利かないと、
母や、私にまで怒られていたことを思い出した。

私はもともと、
姉は気が利いて優しかったようなつもりでいたが、
姉は、音楽療法の仕事を通し、
お年寄りとコミュニケーションをとるなかで、
知識を増やし、経験を増やし、
優しさを体現できる体になったのだ。

母も、まず単純に大家族で育ち親戚も多かった。
お年寄りと接する機会や、
病気や事故で不調を抱えた人の世話をする経験が多かった。
その中で、正しい知識を得、関わり方を身につけ、
偏見から自分の優しさを解き放つ自由を得ていったのだ。

優しさはどこからくるか?

教育からくる、と私は思いたい。

自分の人生史上、
もっとも冷たく醜い視線を私に注いだ
あの2人の子どもの目にも、
これからの教育で、優しさは宿る。

変えてみたいと私は思う。

性格的に自分は優しくないのだろうかと、
心配したり、不安になったりする前に、
調べようも無い、生まれ持った「優しさ」の量を
多いや、少ないとあんずるより、

外に出て行って、
母や姉のように、
まず、対象とコミュニケーションをとり、
知識を増やしたり、正しい情報を得たり、
経験をひろげていくべきではなかろうか。

優しさは増やせる。

もっといえば、教育や教養で、
自分で育み、増やしていくものだと、
今、私は考える。

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2008-09-10-WED
YAMADA
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