YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson409
   いきやすい関係4―グレーゾーンを愉しむ


自分のまわりの人間環境を、
いまよりもっと心地よいものにするために、
親密な人たち(白)と、
アカの他人(黒)と
その間=グレーゾーンの人たちが、
どんな風になっていればいいんだろう?

白状すると、
私は、ちょっと前まで、
親密な人が少数でもいればいい。
グレーなつきあいなどわずらわしい、いらない
と思っていた。

香山リカさんは言う。

「(精神科を訪れる人の悩みの中でトップ3に入る
  人づきあいの疲れの中でも)
 とくに目立つのは、家族や親友ではなく、
 職場の同僚、近所の人、子どものママ友達など、
 関係がそれほど濃くない人たちとのつきあい方で
 悩んでいる人たちの多さだ。

 この人たちは基本的にまじめで、
 “会社の同僚?どうせ社内だけの関係でしょ。
 適当に接していればいいんだよ”
 などと割り切ることができない。
 “せっかく近くで仕事をしているのだから、
 なるべく良いつきあいをしたい”
 という善意が、
 “どうしてもうまくいかない”
 というあせりや失望にいつしか変わる。
 そしてその時点から、
 ストレスもどんどんどんたまっていく。」
(香山リカ「適切な心の距離を」
 『PHP』9月号より引用)

これを読んで、
もともと人好きな自分が、
しばし、「グレーゾーンなんか要らないぞ」という風に
なってしまった謎が少し解けたような気がした。

自分はやっぱり人が好きなのだ。

マスメディアに出るようになって、
急に増えた人づきあいに面食らい、
それでも一人ひとり大切に、
まるで家族や友人のようにつきあおうとしていた。

当然、そんな大人数、
自分のキャパで受容しきれるはずもなく、
キャパ・オーバーになって、結局、
「ごく親しい人だけいればいい」
「グレーゾーンなんかいらない」に陥っていた。

読者の26歳の女性は言う。


<妹にはたくさんの友人がいる>

私は友達が少なく、人付き合いが下手です。
けれど妹には、たくさんの友達がいます。
『ものすんごくたくさん!!』居ます。

妹はどうしてそんなにたくさんのひとと
仲良くなれるんだろうかと、ずっと不思議でした。

けれども、最近になって
妹の友達全員が「親友」ではないんだな、
ということをようやく理解しました。

芝居を見に行くだけの友達。
旅行好き同士の友達。
本の趣味が同じな友達。
妹は『広く深く』好きなものが多い人間なので、
それぞれの方面に詳しい友達が、
それぞれ居る、ということなんだと。

つまり、
芝居に行く友達と、本の話はしなくていいし、
本の趣味が同じ友達に、
重い悩み事を打ち明けられなくてもいい。

すごいショックでした。

私は「友達を作るにはどうすればいいか?」と、
いつも真摯に考えていたつもりでしたが、
自分の持っている『友達の定義』については、
13,14歳のときから10年以上も、
疑問を持つことができませんでした。
「現実的に考えて、友達って何だろう?」
というところからはじめなければないけなかったのに。

じぶんも含めて、人付き合いの苦手な人間は、
友達のハードルを自分で高く上げすぎて、
巧く築けないのではないかと思いました。
(みほこ)



私も「わりきったつきあい」がずっとニガテで
ここまできた。
でも私の場合、
「だから、いいんだ」とずっと思ってきた。
人に対しても、仕事に対しても、
わりきって、部分的に関わることがあまりできない。
全人的に関わろうとする。

だからこそ、できた仕事や、通じ合えた人たちがある。

でも、だからこそ、ここへきて
私はグレーゾーンの必要性を感じはじめた。

つまり、この先、
どんなにがんばって自分のキャパを広げたとしても、
自分が心から「友だち」と呼びたい人は数少ないだろう。

家族をどんなに増やしたとしても、
昔のような十人以上の大家族で住むイメージがない。

人数の少ない核家族で育ち、
数少ない友だちを大事にして生きる。

こんな人はこれからますます増えるんじゃないか。

それで、自分なりに、グレーゾーンを排除して、
ごく親密な人間関係だけに閉じこもるような期間をへてみて
思ったのが、月並みだが、
やっぱり「少数のつきあいは不安定」、ということだ。

仲たがいしたようなときに、たとえて言えば、
30人の友だちのうち1人欠けるのと、
3人の友だちのうち1人欠けるのでは、
見ている風景までガラリと変わる。

別に、仲たがいをしなくても、
病気、事故、単身赴任、留学など、
10人以上の大家族から1人欠けるのと、
2人家族のどっちかがどうにかなるのとではわけがちがう。

もし、みんなが、
ちいさい親密圏で暮らすことを、
この先も前提とするのなら、
公共の人間関係というのかな、
そのまわりを取り囲む人間関係を、
いまの都会のような無関心で殺伐としたものから、
もうちょっとだけ温もりのあるものにしたほうが
住みよいんじゃないかと思う。

読者の中に、うかつにあいさつをしたら、
ストーカー被害にあったという読者がいたが、
このケースなどは、
あいさつ程度の親切に飛びついてしまう、
寂しい人、がふえていることを垣間見る。

私たちの人への関心のキャパが落ちている中で、
若い、とか、かわいいとか、名誉あるとか、
関心は、集中する人のところへうっとうしいほど集中し、
関心に干される人は、徹底的に無関心にさらされてしまう。

公共の福祉、と私が言うと、うさんくさいのだが、
ちょっとボランティアをしたいという人はたくさんいる。
道路のゴミをちょっと拾うとか、
公共の場にちょっと木や花を植えるような気持ちで、
自分のことだけでなく、
自分のまわりの人間環境を
ちょっとでも温もりのあるものにして、
まわりからよくしていかないとなあ、というような
柄にもないことを最近よく考える。

そのときに、
グレーゾーンをグレーゾーンとして愉しむ、
ということが必要になってくると思う。

誠実なあまり、無意識に、グレーゾーンの人を、
親密な人(白)と同等につきあおうとして
疲れ果てるのでもなく、
関心のスイッチをシャットダウンして、アカの他人(黒)を
装うのでもなく。

距離のある関係だからこそ、
できる愉しみ方を見つけられたらと思う。

例えば、読者の妹さんのように、
「いい面だけで接点をとる」のもありだ。

また、ダブリンに住む読者が先週言っていたように、
「温かな関心は払うが、踏み込まないし、判断はしない」
というつきあいもありだ。

でも現実は逆で、ご近所の人の噂話をしたり、
私たちは距離のある他人を、まず判断したり、
裁いたり、悪い面を見たりして、息苦しくなっている。

他人の良し悪しを判断しない、
いい面だけを見る、
というのは無責任なようだが、
むしろ、距離のあるもの同士だからこそ、許される特権だ。
親子や恋人だったら、とてもそんなことはできない。
責任があるから、判断したり、
干渉や介入をしたり、
悪い面だって引き受けなければいけない。

おじいちゃんやおばあちゃんは、
孫は子どもより責任がないから
かわいいというが、だったら、グレーゾーンの住人は
さらに責任が薄い、愉しんでいいはずだ。

グレーゾーンにいるもの同士、
お互い、友だちに選ばなかったし、選ばれなかったのだ。
この先、恋人になる可能性もない。
距離があるからこそ、自由になることもある。

通りすがりに花を渡すような気持ちで、
自分をとりまく人間環境に、距離があるからこそ、
自由になって、何か良い気持ちを送りあえたらいいと
私は思う。

グレーをグレーとして愉しむとは
どういう関係を築くことだろうか。

最後にダブリンに住む読者の言葉を紹介して、
今日は終わりたい。


「本当に思っていること」を
口にしないという選択をするのが
日本の社会の不文律のように思います。

受け入れられる考えを追求すること、
どう話したらいいかにエネルギーと時間を費やし、疲弊し、
自分が望んでいることを見失いがちであるように見えます。

日本の全てがこうだとは思いません。
でも、私自身、どうすべきなのかわからない、
日本人の抱えがちな日常の苦しさの一つだとは思います。

「私の考え方とは違うけれど、やってみたら?」

自分とは異なる考え方に前向きな反応を示す、
そういうグレーソーンの広い社会を夢見ます。
(アイルランド・ダブリン在住 M)

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2008-08-27-WED
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