YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson404
    忘れるチカラ――関係を修復する2


ずっと仲のよかった2人が、
あるきっかけからギクシャクしてしまう。

ギクシャクした関係を修復しようとして、
話し合ってみても、
仲直りのイベントをくわだててみても、
いっこうにうまくいかないとき、
意外にも力になってくれるのが、

「忘れるチカラ」ではないだろうか?

反響の多かった先週にひきつづき、
友人・恋人などの「関係を修復する」方法を考えてみたい。

「忘れるチカラ」というと、
私がたびたび引用させてもらっている、
小説のこんな一説がある。


ホスピスのバイトをはじめて何か月かしてから、
私は誰かに「死なないでほしい」と
強く願ったり祈ったりすることを失った。

死なないで、と祈ることは
時間を区切ることに他ならなかった。
しかし私の仕事は
死にゆく人に時間を忘れさせることだった。
祈りで全身を固くした私がうろつくことは、
その人たちに大きな時計を
見せつけているようなものだった。

そうして私が時間というものを超えはじめた時、
おのずと何かが花開いた。
それは気が抜けたほんのひととき、
予想もつかないことがやってくるというような感覚だった。
それが生きるカみたいなものを呼び覚ましたりする。

待っているというのと、どうでもいいというのと、
どうなるかわからないというのが混じったような感じで、
患者たちは突然に怒りだしたり、
機嫌を直したり、笑いだしたり、仲直りしたりする。
それを抑えないで、
ただいつのまにか時聞を忘れてしまう瞬間を持つことが、
いちばんあの人たちに必要なことだった。

雨の日の熱いお茶、あと5分の眠り、
意外に面白くて見入ってしまったTV。
そんな程度のことが奇跡の輝きを
秘めているのをよく見かけた。
私はそういったことを
決してばかにすることができなくなった。

誰かが息をひきとる時、
そんな何でもないことが誰しもの印象に残っていて、
「ああ、あの雨の午後に、
 おせんべいを持ってきた人がいて、
 ちょうどこの人が喜んで食べて、
 その時に子供の頃の楽しかったことを急に思いだして、
 聞いた人がみんないい気持ちになって、
 その日一日気分が明るかった―」
なんていうことを前もってコーディネートできる人が
いるだろうか?
いるとしたらそれが神と呼ばれるものだ。
(よしもとばなな『SLY』より抜粋引用)



問題に立ち向かおうとすれば、するほど、
かえって問題をつきつけてしまう。
むしろ「忘れ・忘れさせる瞬間」に花が咲く。
というのは、関係の修復にもいえるんじゃないかと思う。

高校のとき、
私には長く仲たがいしていた女のクラスメイトがいた。

けっこう大きなグループのリーダー的存在で、
私は、その子のいる女子グループ全体から
敵対視されるようになった。

こわかったので、なんとか良く思われようと、
その女子をほめたり、
サッと役立つことしてあげたり、
気を使えば使うほど、アリ地獄のように、
よけい嫌われていく構造から抜け出せなかった。

ところが劇的にその子と関係が修復した。

私がふとやった
テレビのキャラクターのモノマネが
クラスの女子に大ウケし、
とくにその女子グループの1人の笑いのツボに
めちゃくちゃはまったようだった。
その子から、何度何度もリクエストされ、
何度何度も繰り返しているうち、気づいたら、
その女子グループのすっかり人気モノになっていた。

偶然ふりかかった幸運だ。
意図してやろうとして、できることではない。

ただ言えることは、そういう幸運は、
関係修復にあれこれ画策したり、
相手を恨んだりしているときにはやってこない、
ということだ。

無防備なときにやってくる。

忘れつつあった。
そのころ受験に突入して、私もクラスメイトも、
仲たがいのへったくれの言っている場合では
なくなったからだ。

みんな受験に集中し、みんな受験ストレスを抱えていた。

当時は、同じ大学を受けるもの同士数人が、
旅館の同じ部屋に泊まり合わせて受験に行った。

私と同じ部屋にその女子グループの子も割り振られた。

明日が受験だから必死で勉強しなきゃいけない、
のに、だれからともなく私にモノマネを期待する。
明日が受験だから私もやっちゃいけない、
のに、やってしまう。
笑っちゃいけない、勉強しなきゃいけない、不謹慎だ。
のに、なぜか可笑しい。

笑っては勉強にもどり、
勉強に集中しなくてはと思いつつ、
またつい可笑しくなり‥‥、
を繰り返しているうち、気心が通じ合っていた。

読者の大介さんは言う。


ズーニーさん、

先週のコラム「関係を修復する」で、
「話し合ってはダメ」という言葉にガツン! なのは、
人間のやる事って、自分で思う以上に、
恐らく半分以上が無意識の部分に依っている、
という事を思い出させられるから、ではないか。

仕事上のトラブルと違って、友情だの愛情だのって、
意識の及ばないところで作用し合ってる部分が大きい。
それがメインだと言っても良い。

長くつきあっていれば、問題は当然起きる。
しかし、それだって主に無意識部分で起きる。
それが意識にちょっとずつ触れるから、
ギクシャク感じたりするんでしょう。

無意識から来るギクシャク感を次から次に、
意識下に引っ張ってきて頑張って「解決」しても
対症療法というか、
無意識の部分に「根」が残ってしまう。

そもそも意識しすぎている事が問題になる。
覚えるとか気づくことに囚われてしまいがちですが、
「忘れ方」を「覚える」のも大切では。

無意識から意識側に引っ張る力だけじゃなくて、
「意識的」に無意識の方に流して任せるような、
そういう心の操り方があるのだと思います。
身体の運動に「操り方」があるのと同じです。

たとえば、人間がコップに手を伸ばすときに、
関節の角度とかはいちいち考えてないわけです。
勝手に腕が動く。ほとんど自動的だと言える。
結果的に非常に効率の良い動きになっている。
それこそが無意識の部分ですが、
改めて考えてみると、無意識な部分だらけです。

意識して徹底的に話し合うとかって、
体の使い方(姿勢)を間違えてギックリ腰になったのに、
背筋腹筋トレーニングやってるような感じではないか。
予防には筋トレもある程度役立つかもしれませんが、
治療にはやっぱり安静が大切です。

互いの無意識同士をすり合わせ、治療するには、
「日常を淡々と」というバックグラウンドが
良いのかもしれません。
言葉じゃない言葉での「会話」を促すというか。
「あれ、忘れちゃったね」みたいな方が。
(大介)



いつも、
氷山の底にある想いを言葉にする=意識化する
サポートを仕事にしている私には、大介さんのこの、
「すでに意識化したものを無意識に流し任せる」
という発想が新鮮だった。

前の日ぐっちゃぐちゃにケンカしても、
次の日ケロッと何も無かったように遊びほうけている
子供の、「忘れるチカラ」は偉大だ。

コミュニケーションに正解は無い。
仲良くなろうとして話し合うのもいい。
子供のように感情をぶつけるケンカもいい。
関係修復にプレゼントやイベントをするのもいい。
ただそうしている間は、
「二人は仲たがいをしているのだ」という現実を
かえってつきつけることにもなる。

むしろそういうことをあえて意識しないときに、
例えば、ふとふるさとから宅急便が届いて、
2人ともその食べ物が大好きということが発覚し、
しかもその食べ物は、
まわりにそうそう好きな人がいないマイナーな食べ物で。
二人ともうれしくなって、ひとしきり
その話に夢中になった‥‥というような。

一瞬歯の痛みも忘れ去るような瞬間が
関係の養分なのかもしれない。

なぜ二人は一緒にいるのか?

もともと言葉にできない「なんか」ではなかったか。
相手にその「なんか」があり、
自分にもその「なんか」があった。

迷ったときは、もういっぺんその「なんか」を信じて、
任せていいのかもしれない、
と私は思う。

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2008-07-16-WED
YAMADA
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