YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson403 関係を修復する

ずっと仲のよかった2人が、
あるきっかけからギクシャクしてしまう。

友人にしても、恋人にしても
「悪化した関係を修復する」とき
どうしたらいいんだろう?

「とことん話し合ったほうがいいよ」

まだ、今の仕事に就く前、
先輩の女性から相談され、私はそう言った。

その先輩は長くつきあっている彼氏がいた。
2人はとても仲良しだった。

ところが、あるきっかけで
ぎくしゃくしはじめた。
どちらかに好きな人ができたとかではない。
愛が冷めたというのでもない。
どちらが悪いのでもなく、
不可抗力で生じてしまったきっかけに対応しきれず、
むしろお互い好きだからこそ、
ぎくしゃくを敏感に受けとめたようだ。

その時、関係修復のために先輩カップルがやったのは、

1徹底的に話し合う
2仲直りのためイベントを次々とやる
ということだった。

まず、とことん、決着がつくまで話し合う。
お互い過去のわだかまっていることも
洗いざらい全部出して、
謝るところは謝り、
改善すべきところは改善すると約束しあった。

そのあと2人は関係修復のため、
旅行やコンサートなどに次々でかけるようになった。

今日は旅行、次はライブ、次は展覧会…と
まるで付き合いはじめのカップルのようで、
「ずいぶんハイペースだなあ」と私が驚くほどだった。

そのたび先輩がうれしそうにそのことを語るので、
「以前はあんまりのろけない先輩だったのに、
 とことん話し合って
 かえって愛が深まったんだろうなあ」 と、
まわりのだれもが「二人はもう大丈夫」と思っていたとき、
先輩カップルは別れてしまった。

私はそれからずっと一抹の自責の念がある。

もちろん別れる理由は1つではなく複雑にある。
ほんとうの理由は二人にしかわからないし、
私がカンタンに口をはさめるものではない。

でも「想い」はあったわけだし、
二人はまっとうに関係修復に努力していた。
だから相談された時、もっとなんかできなかったものか。

「話し合ってはダメです。
 男女の問題は話し合っても決着がつかない」

ふいにテレビから耳に飛び込んだ言葉にビクッ! とした。
何年も過ぎた日のこと、
離婚コンサルタントの人が長続きのコツを伝授していた。

離婚コンサルタントといえば別れさせるのが仕事
と思われがちだが、
修復できる関係は修復するよう働きかけるのも仕事だ。
で、関係の悪化した夫婦がまともに話し合うと、
「それなら別れればいいじゃない」というふうに
なりやすいと、その人は話していた。

「話し合うな」という方法は極端かもしれない。
でもそのときの私は、
友人とぶつかったり関係修復したり、
という経験を自分なりに積んできていたので、
「一理あるな」と思えることがあった。

友人同士でもめて、
徹底的に話し合うと、
そのときは決着がついた気がするのだが、
その後、なんとなく疎遠になるケースがある。

反対に、問題と正面対決しなかったけど、
いつのまにか関係が修復していたケースもある。

職場の問題解決では、
徹底的に話し合い、問題点を洗い出し、
原因を考え、改善策を打ち出すことが原則だ。

でも「徹底的に話し合う」という原則が、
友人や恋人同士のケースでは必ずしもうまくない
気がするのはなぜだろう?

修復しなければならないものは何か?

職場の場合は「仕事をうまくいかせる」、
「信頼回復する」となるのだけど、

友人や恋人同士のケースでは、
信頼に加え、「好きという気持ち」だからではないか。

「好きという気持ち」ほどつかみどころがない
ものはない。

なんで友だちになったかと問われると、
友だちは、なんの利害関係も強制もない、
とどのつまり、「好きだから」としかいいようがない。

恋人同士の人なら、まだ、結婚するとか、家庭をもつなど、
こじつければ目的もあるだろうが、
友だちほど、無目的に、
なんの縛りもなく結びついている存在はない。
「好き」という気持ちが無くなったらそれまでだ。

好きだからこそ、問題が生じたとき、
傷ついたり、寂しかったり、場合によっては恨んだり、
つまり「感情的」になる。「痛んで」もいる。

その状態で「徹底的に話し合う」といってもなあ。

その状態で出てくる正直は「錬度」が低い。
心底にある想いを練成して言葉にするというより、
まだまだ地層の浅い「感情」を吐き出しているだけのことが多く、
場合によっては、恨み・つらみを、
もっともらしいリクツにのせ、実はただ、
「けなしあっているだけ」ということにもなりかねない。

かえって傷口を広げてしまうこともある。

それに、話し合っている限り、
意識はずーっとその問題に集中している。
「問題」が生じたのだから、
そこを掘り下げて出てくるのはお互いのマイナス面ばかり。
聞きたくもなかった本音を聞かされてしまったり、

自分がこのように言うのは僭越だけど、
先輩カップルは、関係修復に真っ正直に取り組むあまり、
疲れてしまったのではないかなあ‥‥、
複雑な理由のはしっこの一つに
そういうこともあったんじゃないか。

話し合いの出口には、多くは
「お互いの悪かったところを直す」
なんて言うけど、自分を変えるというのは
普通でも大変なことだ。
ましてや傷ついたり悩んだりしているときだとなお辛い。

仲直りのためにイベントをするのもけっこう大変だ。
旅行であれば、日程をあけるため、
前後に無理して仕事をしたり、
「非日常」に飛び出すためには、
ふだん使わない気をつかうし、体力もいるし、お金も要る。

人は投資した労力に見合う、見返りを求める。

「これだけがんばったのに、
 思うように関係が修復できない」
となると、かえって失望感が強まる。

それに、イベントは「非日常」。
いわゆる「お祭り」で得る高揚感は、
「祭りのあと」にガクンと下がることもあり、
さらに強い高揚感を求めて、
次々イベントを渡り歩くようにもなりかねない。

その方向だと、ベースとなる「日常」を大切にする
発想が抜け落ちるように思う。

ではどうすればいいのか?

コミュニケーションには正解はない。でも私は常日頃、
「傷つき痛んでいるときはできるだけ無理をしない」
「カンタンに手にはいるものにたいしたものは無く、
 大事なものはたいてい地道にコツコツ時間をかけないと
 手に入らない」と思っている。だから、

「その問題が起こらなかったとしたら、
 あるいは、完全に問題解決ができたとしたら、
 ずっと仲良くやってきた2人の延長上に
 こんな日常がある、
 という日常を淡々と生きる」
というのがベターなやり方ではないかと最近、感じている。

話し合いやイベントで短期に問題解決を目指すのではなく、
2ヶ月、3ヶ月、場合によっては1年でも2年でもかけて、
コツコツと信頼を取り戻せばいいや、くらいの気持ちで。

これは、問題を見てみぬふりして逃げることではない
と私は思う。短期に問題解決を図ろうとすればするほど、
意識は問題のあった1点に集中する。

でも、問題の起こる前には、
長く楽しいうまくやってきた年月があるのだし、
そこには、お互いの長所が働きあっていると思う。
その時間と今を生きる自分とをつなぐのだ。

ずっと仲のよかった2人が、
あるきっかけからギクシャクしてしまうことがある。
ときにそれは、どちらが悪いのでもない、
運命のいたずらとしか言えないような、
不可抗力のこともある。

でも突然の暴威に屈しないということは、
問題の起こるまえの日常の延長を淡々と生きる
ということではないだろうか。

とりたててことを起こそうとするのでなく、
それまでやってきたベースの日常を大切に生き、
それまでどおりの対応をし、
でも、ひと言ひと言の会話をおろそかにせず、
コツコツと積み上げ、
その先にふと、予測できない、何かのきっかけで
思わず気持ちが通じる瞬間が訪れたら素敵だなあ、と思う。

追えば逃げる「好き」という気持ちを再びつかまえるのは、
そんな方向かもしれないと。

友人などの関係修復でいま私が思うのは、

1話し合いは必要最小限にする。
2イベントはそれまでやってきた自然なペースの中で。
3問題が起こる前の延長にある日常をコツコツと生きる。

まったく話し合わないという手もあるし、
言うべきことは言ったほうがいい場合もあり、
それはケースバイケースで何とも言いようがない。
でも話し合うにしても、決して言い過ぎたり、
言葉による短期決着に期待し過ぎてはいけない。

同様にイベントに期待し過ぎてもいけない。
仲直りに旅行に出て一発で関係修復ということもあるから、
イベントをうまく折りいれることはとても大切だ。
でも、関係修復は日常のコツコツした営みで
時間をかけて積み上げるというベースは
しっかり持っておきたい。

以上、あくまで私の考えだが、
関係修復に悩む人に、少しでもヒント、あるいは、
たたき台になればうれしい。

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2008-07-09-WED
YAMADA
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