YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson400
    あきらめようかと迷うときの思考法


「あきらめようか、どうしようか」
と迷っていたことがある。
でも、「あきらめよう」と思ったそばから、
しゅん、しゅん、しゅん…、と
なんか自分がしぼんでいく感じ、
なんか自分がちいさく、寂しく、
なっていく感覚がした。

「こんなメンタリティのときはあきらめてはいかんな」

経験上、そう思う。

では、あきらめるとき、
どんな心理状態ならOK!なのだろうか?

先日お会いした32歳の女性、Fさんは、
育児のために、
研究者としての人生をあきらめざるを得なかった。

研究対象である微生物は、
夜中であろうと、子供が病気だろうと待ってはくれない。

だんなさんも、同じ研究者で、
夜中であろうが、徹夜であろうが、思う存分
研究に打ち込める姿を見ていて
うらやましくてしょうがなかったという。

「何で女性ばかり…」

と私は思う。
育児にしても、家事にしても、介護にしても、
女性にばかりのしかかることが多い。
その分、女性は、
あきらめる機会にさらされることが多い
のかもしれない。

その分、あきらめの達人は女性の中に、
こどもとか家族とか背負うもののある人の中に、
多いのかもしれない。

このところ、
母である女性のパワーを思い知らされることが
立て続けにあった。

私も講師をつとめる
編集・ライター養成講座に来ていた女性は、
まだ、お子さんも小学生で、育児の大変な中、
やりくりして講座に来た動機をこう言った。

「自分は親を超えられない」

いつのころからか、
自分は親の限界を超えていない
ということに気づいたそうだ。

自分は自分の人生を歩いてきたつもりでいて、
結局、親の思考の範囲内でしかものを考えられず、
親の人生のふり幅の中でしか生きられていない。

このままいけば、
親の上限がそのまま自分の人生の上限。

そう気づいたときに、
「わが子」を見てはっとした。

「自分の子もまた、自分の限界を超えられない」

気がつけば、親である自分のするように行動し、
親である自分の範囲内でしかものを考えられない
わが子がいた。

そこで、彼女は決意した。

「自分は、天井知らずの親になろう!」

そこで、殻を打ち破って、
若いころからの自分の夢を実現させようと、
編集・ライター養成講座に来たそうだ。

思うように生きられなかった親が、
子供に過剰な期待をかけ、
「あなたはもっと立派になって」と
言い聞かせるにとどまっていることも多い中で、
自らやって見せるとは、

母親の本気を感じざるをえなかった。

もうひとつは、
25年ぶりに大学の友人たちが集まったとき、

その中で最も育児が大変であろう
3人の子を持つ主婦の友人がいて、
彼女が最も時間作ってがんばって
自分の未来に投資しているように見えたことだ。

彼女は、3人の子供を育てながら、
猛勉強して資格もとっていた。
地元の高校で授業も持たせてもらうなど、
社会参加も活発にしていた。

いったいどう時間をやりくりしているのか、
人一倍、本を読み、読書を通じて
「自分」の内的世界をしっかりと構築して。

それを言葉で伝えられる
自己表現力も、磨き、鍛えられていた。

私は単身生活にもかかわらず何をしているのかと、
恥ずかしくなった。

彼女はなぜ、そんなにがんばれるのだろう。

「だって、
 ただ何かを辞めるだけ、
 ただ自分が縮こまるだけの選択なら、
 したくないじゃないですか」

とは、最初に紹介したFさんの言葉だ。

Fさんは、育児のため
研究者としての道をあきらめざるをえなかった。
その後、ラクになったのだろうか。

もともと「文理の橋渡しをする仕事をしたい」
と思っていたFさんは、「弁理士」を目指すことにした。

弁理士は、発明者になり代わって、
特許庁に特許を申請する。

最先端の発明も理解して、
研究者が伝えきれないところまで代弁したり。
発明した本人でさえ気づかなかった
発明の社会的意義を見出したり。

理系研究者として歩んできたFさんは、
今度は、研究者の権利を弁護したり、
研究者と社会をつなぐ道を選んだのだ。

でも、それには、
高いコミュニケーション能力が要るし、
当然、法律の専門家でなければいけないので、
弁護士にとっての司法試験のような、
難関試験がそびえたつ。

でも、待てよ。

Fさんは、以前は
フルタイムで会社の研究職、
それに育児家事という2本柱。

でも今度は、
特許を扱う事務所でフルタイムの仕事、
育児家事、
それに試験勉強の3本柱。

これではラクにならないではないか、
むしろ、より大変になってるんじゃぁ、
という私のなげかけに答えて、Fさんは、

ただ何かをあきらめて、
ただ自分がトーンダウンするだけ
の選択をしてしまったとしたら、そのあと、

「私は何をがんばればいいんですか」

ときっぱり言った。
はっ、と気づかされた思いがした。

「別のがんばり枠を設けて芽から育てる」

何かをあきらめるときのメンタリティは
そこに向かっているのが望ましい。

あきらめる、というのは、
その道を通ってゴールを目指すのが不可能
と判断したときに、
「その道を通る」のをあきらめる、
のであって、
「ゴール」をあきらめるのでは決してない。

例えば、恋をあきらめる人がいるとしたら、
その相手に向かっていては
自分が輝けない、より素敵な人間になれない
と判断したときに、
その人に向かうのをあきらめるのであって、

決してあきらめてはいけない。
自分を輝かすことを、
より素敵な人間になっていくことを。

むしろ、前よりもっともっとがんばらなければいけない。
新しいがんばり枠を見つけることも、
それを芽からコツコツ育てていくことも、
根気の要る作業だから。

「どうせ」が口をついて出るとき、
その道をあきらめてはいけないのではないか。

「どうせ私には無理だったのだから」
「もう歳だから」

ただ自分をダウンサイジングするだけ、
ただ自分が縮こまるだけ、
ただラクになるだけ、
の選択なんかするな!

と私は私に言い聞かせる。
私の場合、あきらめよう、は
ラクになりたいとセットで、
自分でもそこが面白くないのだと気がついた。

どんなに小さくたっていい、
がんばり枠を設けてそこに突進しろ!と。

「働きたい」という意志のはっきりしたFさんは、
その道を通っていては、
自分の思うレベルのアウトプットは無理だ
と判断したのであって、
決してがんばることをあきらめたのではない。

がんばれるフィールドを見つけ、小さな種を撒いた。

24時間待った無しの微生物とは違い、
自分でやる勉強なら、前倒しも後ろ倒しもきく。
大学時代の友人も、講座に来ていた女性も、
家事や育児のために何かをあきらめなければ
ならなかったからこそ、
自ら種を撒くしかないし、
自ら種を撒き育てる習性が培われたのだ。

どんな小さな芽でも、やがて育つ。

あきらめるとは、
ラクになろうとする行為ではない。
自分のがんばりどころを変える、
生かしどころを変える行為なのだと、

今回、3人のパワーある母に学んだ。

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2008-06-11-WED
YAMADA
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